木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

徳川御三家とは

2008年07月29日 | 大江戸○×クイズ
問い:徳川御三家は、将軍の味方である。 ウソ? 本当?  答えは、文末に。

徳川御三家というと、どんなイメージであろう。幕府のよき理解者、補佐役といったところであろうか。
こういうイメージはどうだろう。

徳川秀忠さんは、チェーン展開する日本で一番大きい老舗旅館の二代目跡取り。
父親の家康さんは、子宝に恵まれていたので、各支店に子供を主人として送り込んだ。早世する者もあり、家康さんが元和二年四月に亡くなった時点で残っていたのは、五店舗に留まった。つまり、越前67万石の松平忠直、越後福島75万石の松平忠輝、尾張清州53万9500石の徳川義直、駿河・近江50万石の徳川頼宣、水戸25万石の徳川信房さんの5人であった。忠直さんだけは、家康さんの孫にあたったが、残りはみな家康さんの子供、すなわち二代目と兄弟である。
各支店に散らばった兄弟は、二代目にライバル意識を燃やしていた。そこで、秀忠さんは、「俺が社長だ」と権力を示すために、大鉈を振るうことにした。自分の子供である忠長さんを、抜擢人事。親の依怙贔屓だと言われても気にしない。その一方、信宣さんに和歌山に転勤命令。父親ゆかりの駿河に息子の忠長を送り込むことと、転勤辞令を出すことで、社長としての威厳を示した。反対勢力にも示威行為を忘れない。父親の家康さんが亡くなると、反対派を左遷させ、社業の安定化を図った。


家康は、御三家に限り特別の厚遇を与えようとしたたわけではない。この時期は、戦国の風潮が抜け切れていない時期であり、ともすれば、血を分けた兄弟間においても相続争いが戦に繋がりかねない時であった。それゆえに、家康は家督争いが起こらないように慎重に子供に所領を分配した。
家督が安定してきたのは、家光の頃であり、その頃に御三家という考えも現れてきたと言える。
先ほどの例を引くと、創業者の後を継いだ二代目社長に、力を持って対抗しようとした同族者がいたが、二代目、三代目は、それを力を持って制したので、その後は社長の顔色を窺う者が多くなった、というところであろうか。
家光が「自分は生まれながらの将軍である」と宣言したのは、そう宣言することによって、自分の地位をアピールしたのである。後々は、いちいちこんなことを宣言しなくても分かり切った事実になっていたのであるから。
家光以降は、将軍は宗家から輩出することが定着し、御三家も補佐役に徹するようになっていく。
今度は口うるさい御三家の藩主が現れるようになった。
水戸の光圀、斉昭などである。
特に斉昭の天保の頃は幕閣中心の政治ができあがっていたため、御三家はオブザーバーとしての位置づけでしかなかった。水野忠邦などは、当初斉昭の水戸においての政治に一目置いていたが、次第に疎んずるようになっていった。
御三家というのは、譜代大名の代表でもないし、段々微妙な立場になっていく。
日米和親条約を幕府が朝廷に許可を得ずに締結した際も、斉昭を中心とした御三家が時の大老井伊直弼に直談判に行くが、直弼は聞く耳を持たなかった。
これも、当時の政治の体制からすると、無理からぬ話で、既に政治の実権が将軍から閣僚に移っていたことを示す例となっている。
鈴木一夫氏は、著書「水戸黄門」の中で、御三家についてこう記している。

三家には、幕府政治のうえで何の権限もないとはいえ、将軍や幕閣にたいするプレッシャーとしての存在意義はある。たとえば、批判的精神が旺盛で、はっきりとものをいうことをもはばからない人物が三家の藩主になった場合、将軍や幕閣のあいだに微妙な空気がかもし出されることがある。
御三家も、一大名と変わらない位置づけになってしまったのである。
御三家の中で水戸家は、特殊なポジショニングであったが、それについては、機会を改めたい。

答え:△(あんまりいい設問ではありませんでした)

「将軍の座」 林董一(人物往来社)
「徳川御三家付家老の研究」 小山 譽城(清文堂)
「徳川将軍家」(歴史読本増刊92-8) 新人物往来社
「水戸黄門」 鈴木一夫(中公文庫)  

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江戸の人口は2千万人?

2008年07月27日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代、江戸の人口は2千万人であった。 ウソ? 本当? 答えは、文末に。

江戸時代、江戸は、当時のロンドンやパリをしのぐ世界一の人口であったと言われ、その数は100万人とも120万人とも言われている。100万人都市江戸というのが通説であるが、その根拠と言うのは、いかにも曖昧などんぶり勘定なのである。
天保三年の調査によると、町民は545,614人(男性297,356人、女性284,078人)であった。どんぶり勘定どころか、1人の単位まで把握されている。しかし、しっかり把握されているのは人口の半分の50万人である。残りは、僧侶と武家ということになる。町人は宗門判別帳というのがあり、はっきりと把握されていたが、僧侶と武士はその中に入っていなかった。江戸というのは、ごく初期と幕末を除くと天下泰平の世であったが、中身は一応、戦時中であったのである。であるから、諸藩の江戸屋敷に居住する武士の数は公開されるものではなかった。半分以上の中に流動的な転勤族たる武士がいたので、正確なところは推定の域を出ない。このことについて、大石慎三郎氏が、面白い資料を示している(青文は引用)。

江戸時代の人口についての学説は、おもしろいことに時代が下るほど数が少なくなっている。江藤新平といえば、東征大総督府監軍、江戸鎮台府判事として、江戸開城後の江戸市制に力を尽くした人であるが、彼は江戸の人口について、「江戸は人口三百万人と言われるが、この説は信用できない。実際は二百万人というのがよいところであろう。内訳は市民六十万、無籍者八万、士族百三十二万人で、合計二百万人となる」といっている。
 
この江藤説は明治初年のものであるが、大正の初年ころ吉田東伍という学者は、武家人口が132万人というのは多すぎるとし、幕末江戸に入ってきた米が140万石であることから「実際の総人口は140万人とするのがよい」としている。(一部抜粋)

昭和7年になって、都市学者今井登志喜は、「江戸の社会史的一考察」という論文の中で、江戸の人口に触れ、「もっとも多いときに、江戸の人口は100万を越したこともある、とするのがよいだろう」としている。

江戸時代の書物では、どうか。大石氏は、松浦静山の「甲子夜話」を引いている。
それによると、文化十二年(1815年)の江戸の人口は、

町方   532,710人
出家    26,090人
山伏       3,081人
新吉原     8,480人
武家方 23,658,390人


となっている。町人の数はいいとして、武士が2千3百万余人というのは、どうであろうか。
当時の日本の総人口が2500万人とされていた時代である。
これは、中国の白髪三千丈のような言い方ではないが、ある程度分かっていても、武士の数を正確に書くことをはばかった結果、このように大げさな数字で表したのではないだろうか。

このように、江戸100万人都市というのは、甚だ怪しい根拠の上に立っているのであるが、はっきりしているほうの町人は、面積にして約2割の土地にひしめきあって住んでいたのであるから、その過密度は、かなりのものがある。
過密度については、享保期の下記数字が参考になる。

武家地  16,816人/km2 (推定人口65万人)
寺社地   5,862人/km2(推定人口5万人)
町人地  67,317人/km2(人口60万人)
(内藤昌「江戸と江戸城」)


上記は、鬼頭宏氏の著書からの孫引きになってしまったが、氏は1995年度に日本でもっとも人口密度が高かった埼玉県蕨市の密度14,100人、二位の東京23区12,800人の数字を示して比較している。建物の高層化ができなかった江戸時代においての密度は、現代より更に高いものであろう。それにしても現代の5倍というのは、いかにも過密である。長屋にプライベートなどなかったというのも数字上からも実感できる。
ただし、細田隆善氏は、1987年の東京の過密度を16,479人/km2とし、江戸の町人区は、43,000人/km2としている。
数字については、書によりかなりブレがあり、そのブレ幅は、1両が現在通貨に換算していくらくらいか、というのと同じくらい大きい。詳細な数字は、あまり信用しないほうがいいのかもしれない。
代わって武士のほうであるが、江戸においては、上屋敷と下屋敷、それに加え、大きい藩では中屋敷を持っていた。延享三年(1750年)の萩藩でいうと、7000坪前後の屋敷3箇所に約2000人が住んでいたという。これを現代に直すと5階建て住居20棟分に相当ということになる。下級の武士は屋敷内の敷地に建てられた9尺2間の間口という町人並みの長屋に住んでいた。上級の武士を除けば、武士といえども、決して広々とした家に住んでいたわけではないのだった。
答え:×

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(参考文献)
大石慎三郎「大岡越前守忠相」 岩波新書
鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」 講談社学術文庫
山本博文「江戸お留守居役の日記」読売新聞社
石川英輔「大江戸庶民事情」講談社文庫
平井聖「町屋と町人の暮らし」学研
細川隆善「江戸物語」ノンブル社

大奥は将軍のハーレム?

2008年07月24日 | 大江戸○×クイズ
問い:徳川将軍家の中で、正妻の子供が将軍になった例はない。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

徳川時代というと、大奥というハーレムが存在し、権力者の将軍たる者、大奥の女中を自由に取替え引き換えできたと思う人も多いのではないか。
だが、徳川時代というのは、決して将軍一人の独裁政権ではなかった。海外に目を移すと、それこそ「独裁政治」ということが、今でも行われている国もあるが、日本という国は有史以降、平成の今に至るまで、本当の独裁政治というのがなかった国と言える。
徳川の江戸時代でも同じである。将軍は将軍なりにプレッシャーを感じながら暮していた。その一番が、世継ぎを設けることである。意外なことなのであるが、徳川十五代の中で、正室(正妻)との間に子供が出来たのは、家康・秀忠・家光・家宣・家治・家斉・家慶・慶喜の八人、約半数だけである。家治と正室の間には男子が生まれず、家宣・家治・家斉の正妻が生んだ男子は五歳未満で没している。そう考えてくると、正室との間に生まれて成長したのは僅か三人だけということになる。
冒頭の問いの答えからすると、秀忠の子、家光のみが、正室との間に生まれて将軍になった子であったのである。
秀忠は、恐妻家と知られている。司馬遼太郎の「王城の護衛者」という松平容保のことを描いた小説の文頭に秀忠のことが出てくる。

「会津松平家というのは、ほんのかりそめな恋から出発している。
 秀忠の血統である。
 この徳川二代将軍は閨に律儀なことで知られていた。(中略)
 物堅さは、秀忠の性質らしい。
 しかしただ一度だけ、侍女に手をつけた。正夫人達子の侍女で、神尾という浪人の娘だった。
 すぐ妊(みごも)った。秀忠はおどろき、すぐ遠ざけて市中にさがらせた。
秀忠は、その正夫人達子を怖れつづけた男である。達子、別称はお江、豊臣秀吉側室だった淀君の妹である。達子は癇気がつよく、秀忠もそれを怖れすぎた。このためにただ一度の浮気の相手を、市井に投げすてるように捨てた」


この子供が初代会津藩主である保科正之である。
恐妻家の秀忠という面を描き、興味深い。側室は1~3人という将軍が多いのであるが、中でも一番多いのは、有名な11代家斉である。側室16人に54人の子供を産ませている。次には家康。19人の側室に17人の子供。もっとも、家康の場合は子供を政略結婚させ、政治を安定させようとした確固たる目的があった。意外なのは、吉宗で側室6人、子供が5人となっている。吉宗については、江戸城に乗り込むにあたっても側室を一人だけしか連れて来なかったとか、大奥の美人女中を解雇したとか、クリーンなイメージがあるが、側室の数は多い。もっとも、吉宗については、次のような記述もあると言う。

「吉宗公、将軍宣下仕給ふ事は誠に御立身成りしが、止みがたきは色情なり。(中略)三の間の女中の内、御相手なされ候女中多く、大奥将軍渡御の砌(みぎり)は殊の外御遊興有」
                                             「清濁太平論」

三の間は、お目見え以下なので、将軍が三の間の女中を自由にお手つきにできたのかどうかは分からない。資料の信憑性に疑問があるが、大奥も将軍によっては、ハーレムであったし、そう感じない将軍もいたに違いない。

答え:× (秀忠の子、家光のみ正室との間の子)

「江戸城」中公新書 深井雅海著
「司馬遼太郎全集20」 文芸春秋社
「徳川吉宗」角川選書 百瀬明治著

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江戸のツチノコ

2008年07月21日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代にもツチノコはいた。ウソ? 本当?   答えは、文末に。

橘南谿の「西遊記」を読んでいたら面白い項があった。
榎木の大蛇という項である。少し長いが、書き抜いてみる。

「肥後国求麻(くま)郡相良壱岐守殿御城下、五日町といへるところに、知足軒という小庵あり。其庵の裏はすなはち求麻川なり。其川端に大きなる榎木あり。地より上三四間ほどの所二またに成りたるに、其またの間うつろに成りいて、其中に年久しき大蛇住めり。時々この榎木のまたに出るを。城下の人々は多く見及べり。顔を見合すれば病むことありて、この木を通るものは頭をたれて通る、ことの常なり。ふとさ弐三尺まはりにて、惣身色白く、長さはわずかに三尺余なり。たとへば犬の足なきがごとく、又、芋虫によく似たりといふ。所の者、是を壱寸坊蛇といふ。昔より人を害する事はなしと也。予も毎度其榎木の下にいたりうかがひ見しかど、折悪しくてやついに見ざりき」

何だ、結局は見ていないのか、と思うが、これは江戸時代に野槌蛇と呼ばれたツチノコについての記述である。野槌蛇については「和漢三才図絵」にも記載がある。それによると、深山の木の洞に住み、大きいものは直径15cm、長さ90cmに及ぶという。頭と尾が均等で、口が大きく時々人を噛む、とある。坂より下る速度は非常に速いが、登る速度はゆっくりなので、この蛇に遭遇したら、高いところに登るのがよい、とアドバイスも書いてある。
これほど、伝統(?)のある蛇でありながら、正体不明というのは、不思議である。まあ、未知のロマンというのが世知辛い世の中にも必要なのかも知れない。

(ヨーちゃんの樹間暮通信社より借用)答え:○



「ももんじ」って何だ?

2008年07月20日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代まで日本人は、肉を食べていなかった。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

幕末になるまで、日本人には肉食の習慣がなかったという。しかし、これは一般論である。日常的かつ広域的には肉は食べられてはいなかったが、一部の地方では肉が食されていた。たとえば、彦根。彦根では、牛皮を武具や道具に利用するため死んだ牛を解体する職人がいて、そこでは牛肉が食されていた。保存のための方法としては、干肉、味噌漬け、粕漬け、丸薬などが見られる。彦根牛肉は、将軍や大名にも贈答として用いられた。その常連としては、松平定信や寛政の改革を定信から引き継いだ松平信明などの名前が見える。また、面白いところでは、桜田門外の変で、井伊直弼を討った水戸藩の藩主徳川斉昭も2回ほど、依頼している。事件の十年ほど前のことである。近江では庶民も口にしていたが、滋養強壮が目的であったという。
では、豚肉はどうであろうか。これには橘南谿の「西遊記」に記述がある。

「安芸国広嶋の城下、其繁花美麗なる事、大坂より西にてはならぶ地なし。其町にぶた多し。形、牛の小さきがごとく、肥ふくれて色黒く、毛はげてふつつかなるものなり。京などに犬のあるがごとく、家々町々の軒の下に多し。他国にては珍しきものなり。長崎にもあれども少なし。是は彼の地食物の用にするゆへに、多からずと覚ゆ。唐土などには多く飼いそだてて食用にする事なり。琉球にも多しといふ」

一方、雑食の地、江戸などでは、肉食は、「ももんじ屋」という店で食べることができた。ももんじ(ももんじい)とは、尻尾のある妖怪のことである。まだ肉食忌避が一般的であったから、看板などには「山鯨」などと書かれていたという。今でも猪肉を牡丹、馬肉を桜などと呼ぶのは、その頃の名残である。
さて、ももんじ屋の内容を見てみると、

「麹町之獣は猪・鹿・狐・狼・熊・狸・かわうそ・鼬(いたち)・猫・山犬・鳶・烏・ウズラ、その他小鳥、搗鳥不逞計」 (名産諸色往来)宝暦二年(1749年)
と、何でもありのような状態になっている。鰻の蒲焼は、昔もそれほど手軽なものではなかったが、薬食いと呼ばれたももんじ屋は、手ごろな価格で魅力があった。
幕末になると、この手の店も増え、さらに、明治になると政府の奨励により、肉食が普通になった。
答え:△

「江戸東京辞典」三省堂
「西遊記」橘南谿
「彦根の食文化」彦根博物館



関ケ原の合戦場 ~Battlefield of Sekigahara

2008年07月15日 | 大江戸○×クイズ
問い:天下分け目の合戦のあった関ケ原は観光地になっている。ウソ? 本当?  答えは、文末に。

先日、所用があって関ケ原へ行った。帰り道に天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の合戦があった場所に足を伸ばした。平日であったからか、訪れる人もなく、すれ違う観光バスも素通りしていく。この日は、関ヶ原の歴史資料館も休業だったからかも知れない。私と同じように、休みであることを知らないで来た中年の欧米人が舌打ちをしながら、去っていった。
合戦場というものは元来愉快なものではなく、観光地ではない。愛知県内にも、長久手や、小牧、桶狭間などの合戦上があるが、どこもうっそうとした暗さを感じさせる場所である。ただ、暗さだけではなく、歴史の持つ重みというものも感じさせる。松尾芭蕉が奥州高舘を訪れ、有名な「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」という句を詠んだのは、元禄六年(一六八九年)。芭蕉は、この地で没した源義経のことに思いを馳せたのであるが、訪れる者もなく、ただ静かな合戦地跡にたたずむと、芭蕉ならずとも、盛者必衰の理を覚えずにはいられない。
合戦地は、知名度の割には実際に見たことがない人のほうが多いのではないだろうか。日本の合戦上、最も有名な合戦である関ケ原の戦いがあったのは1600年9月15日。朝から霧の立ちこめる視界の悪い天気状況の中、東西両軍は二時間以上も、にらみ合いを続けたという。
石田三成は、笹尾山という小高い丘のような山に陣地を設けた。
最も頼りにしていた鬼の島左近を左翼最前線に置き、その後ろを島津豊久、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家といった歴戦の強者で固め、右翼に小早川秀秋、更には、東軍を後方から囲むように毛利軍と吉川軍を擁した。
一方の家康は、最前線に福島正則、島左近の正面には黒田長政を置き、自らは全体の中位に位置した。
芭蕉が武士であったときに仕えていた藤堂家は福島軍のすぐ後ろに、また、安政の大獄を主導した井伊家も、藤堂軍のすぐ後ろに陣を張っていた。
よく指摘があるように、確かに、この陣形では、西軍有利と言ってもいいだろう。
右翼の松尾山に配置した小早川軍の寝返りにより、一気に合戦の形勢は東軍有利になる。歴史に「もし」はないが、寝返った小早川軍が、たとえば、東軍後方にいた毛利軍の位置にあったら、などと考えてしまう。この位置だったら、あそこまで形勢が決定的になることはなかったのではないだろうか。
三成が陣取った笹尾山は、合戦の石碑が建つ位置から歩いて5分程度のところ。整備され、ステップもつけられている。
酷暑の中、ゆっくりと、笹尾山に登る。強い日差しの中では流れるほどの汗が出るが、日陰に入ると、それほど暑さを感じないで済むのがありがたい。広すぎるステップに苦労しながら歩調を合わせ、登っていくとあっけないほど早く山頂に着く。10分も掛からない。丘程度の高さしかなくても、回りは平地であるので、よく見渡せる。そこには、両軍の布陣図があり、音声テープによる説明があった。
ここで、三成は、何を思ったのであろう。
400年の月日が流れては、戦いの痕跡はもう跡形もない。視野の先に、先ほど通った合戦の石碑が微かに見える。後は、田園風景の中、風が通り過ぎるだけであった。
答え:△~× (観光地かどうかは微妙です)
合戦のあった辺りは、一面の田園風景  眩しい青空の下、ぽつんと建てられた石碑。


御三家と将軍

2008年07月14日 | 大江戸○×クイズ
問い:御三家筆頭尾張家からは将軍が出ていない。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

徳川家には、御三家があるのは常識中の常識。言うまでもなく、尾張、紀州、水戸である。
家康に始まる本家に嫡流が途絶えたときは、この御三家から次の将軍が出ることになっている。
尾張61万9500石、紀州55万5千石、水戸35万石と、それぞれ石高に違いはあるが、御三家筆頭の尾張藩が必ずしも、優先される訳ではなかった。
家康から始まった本家は、七代将軍家継がわずか8歳でなくなると、正式な世継ぎが絶えてしまった。家継の後、公方の座を引き継いだのは、享保の改革でも有名な吉宗である。
通常は、藩主が将軍の座を継ぐと、その藩は廃止となるのが慣わしであった。5代綱吉の館林、6代家宣の甲府がその例である。しかし、吉宗は紀州藩を存続させた。
そこで、自分の血筋を絶えさせないように設けたのが御三卿である。田安家、一橋家、清水家であり、一橋家からは家斉が出ている。最後の将軍、慶喜も一橋家の出であるが、慶喜の場合は、むしろ水戸出身といったほうが通りがいい。
こうやって徳川歴代将軍を見てくると、家康の流れを汲む前半、吉宗の流れを汲む後半、そして最後に、水戸、というのが流れとなる。尾張は御三家筆頭であるのに、将軍を出せず仕舞いで終わってしまったのであった。
答え:○
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家康は天皇の子孫? ~系図は嘘八百

2008年07月13日 | 大江戸○×クイズ
お題:徳川家康の祖先は天皇だった。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

徳川家康を初代とする徳川家は、松平家から来ている。この松平家は遡っていくと八代前の親氏(ちかうじ)という人物までたどり着く。親氏を初代とすると、家康は九代目ということになる。さて、その先からが不明である。系譜上は、親氏は、有親、親季、政義と遡れるのだが、この三人は実在がかなりあやしい。年代を辿っていくと、どうにも時系列的におかしいことが多い。結論から言うと、家康が実在しない三人を作り上げ、系譜を捏造した可能性が高い。この家系を遡ると、世良田、得川、新田、源とつながり、貞純親王を通じて、56代清和天皇に繋がる。すなわち、家康の祖先は天皇家だったことになる。系図というのは、権力者が好きに書き換えてしまうことが多く、今のように調べる手立ても多いわけでなかったから、偽物であってもさっぱり分からなかった。よく物の本に家康は、最初藤原姓を名乗り、後に源氏姓を名乗った、とあるが、これは、源のほうが藤原家よりも天皇家に近く、格が上であったため、一気に源氏姓を名乗れなかったからである。源氏姓は、足利家所縁で、藤原姓は近衛家所縁であったため、家康は、近衛前久という人物に系図作成を相談している。前久に、系図のこの辺りに適当な人物を挿入するのがよかろうと朱引きしてもらい、家康は前久に礼金を支払っている(将軍家准摂家徳川家系図東求院殿御書)。1602年2月20日のことである。
このようなことは多々あり、秀吉も当初(1582年)は、「秀吉所世、元これ、貴きに非ず」(大村由己著「惟任謀反記」)と自ら言っていたのにも関わらず、
三年後の天正十三年には、
「その素性を尋ぬるに、祖父祖母禁囲(宮中)に侍す。(中略)大政所殿(母親)、幼年にして上洛あり。禁中の傍らに宮仕えすること両三年、下国あり。程なく一子誕生す。今の殿下これなり」
(大村由己著「関白任官記」)
と、まるで、天皇の落胤であるかのような書き方に変えている。
家康以降のものは、種種の記録も残っており、しっかりしているが、それ以前のものは、眉に唾をつけたものと見たほうがいいようである。
ちなみに、家康が徳川を名乗ったのも、新田所縁の得川に関連付けを試みたからである。
答え:系譜上では○。実際は嘘に決まってます→×
(徳川美術館 原史彦氏作成系図による)
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徳川家康三方ヶ原戦役画像~家康31歳のときの絵ということである。

山桜

2008年07月02日 | 映画レビュー
「山桜」という映画を観た。原作は藤沢周平。もともとは、短編である。原作をいじっているのかなあ、と思ったら意に反して原作に忠実で、台詞などは、ほとんど同じ部分も多い。暗くなりがちな藤沢小説を淡々と描くことにより、暗くなりすぎず、かといって、妙に盛り上げようともせず、なかかないい塩梅にできあがった映画だと思う。特に、カメラワークが綺麗。東山紀之の殺陣が妙にうまかったように見えたが、じっくり見るとそれほどのことはない。だが、この人は所作のひとつひとつや表情がかっこいい。カメラもよくて、尚更、殺陣がうまく見えたのであろう。無口な役所もなかなか堂に入っていて、得な役であった。田中麗奈も、まるで着物が歩いているようであったが、初々しい演技には好感が持てた。


山桜HP

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トイレと落書き

2008年07月01日 | 江戸の風俗
問い:トイレの落書きには呪術的要素があった。ウソ? 本当?  答えは、文末に。

最近、トイレの落書きを見なくなったような気がする。トイレが綺麗になったせいなのか、啓蒙思想が功を奏したのか、ただ単に絵を描くのをめんどくさがる輩が増えたためか、理由は知らない。ひところまえは、見るに耐えないような下品な絵(中には思わず見入ってしまうような絵があったが)が描かれていたものであった。このトイレに春画を描くという習慣は、近代になってのものなのだろうか。江戸の長屋では、トイレは後架と呼ばれていたが、この後架にも落書きは頻繁に見られた。一人になって思考が発達するのであろうか。以前に、「トイレとは思考と蘊蓄の場である」という落書きがあり、感心したことを思い出した。最近、このトイレの落書きに言明している書物を見いだした。明治41年生まれの樋口清之という大御所の著書である。

 怪我をしやすい危険な場所に、その防止を願って、性の象徴を描くという習慣が日本にはあった。
 たとえば、日本人は、便所で風邪をひくものと思っていた。そこで、風邪をひかないように、便所に性画を描いた。今ではいたずらや落書きだが、昔は、病気の悪霊を防ぐために、真面目な気持ちで描いたのである。
 まだ私が青年だった頃、奈良市の友人が家を新築したので、新築祝いに、その家を訪れた。そこで、わたしはびっくりした。便所の小用側の新しい壁に、大きな女性の象徴が描かれていたからである。それを描いておかないと、家に魔物が入って困る、これを描いておけば、わが家は安全だ、というのである。(以下略)


この風習のため、トイレに卑猥な落書きが描かれるという伝統が続いているのだ、としている。最近、トイレの落書きが少なくなったような気がするのは、IT社会の世知辛い世の中では、悪霊もトイレにもおちおち出られなくなったからかも知れない。

答え:○


確かにこんなお洒落なトイレでは落書きもしずらい
TOTOのHPより

樋口清之「日本人の歴史(4)」 講談社

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