木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

蓮杖写真記念館

2012年01月29日 | 江戸の写真
所要があって下田に行った。
下田というと、下岡蓮杖出自の地である。
ロープウエイで登ることのできる寝姿山の山頂に蓮杖写真記念館がある。

蓮杖は文政六年(1823年)の生まれ。蓮の根に似た唐桑の木でできた杖に蓮の花を彫り、愛用したため、号とした。
長崎の上野彦馬と同時期に活躍した写真家であり、よく西の上野彦馬、東の下岡蓮杖と言われる。
実際には、江戸には鵜川玉川や島霞谷・隆夫妻、西には大与こと堀与兵衛などの存在もあったのだが、商業的にもっとも成功したといえば、蓮杖と彦馬のふたりとなる。
彦馬は、津藩の堀江鍬次郎の指導と援助のもと、長崎海軍伝習所のポンぺの教えを纏めた「舎密局必携」を表すほど、学術的であったのに対し、絵師出身の蓮杖はもっと現場の実践主義であった。
彦馬の実家は代々、煙硝工場を営んでおり、薩摩藩などの雄藩とも付き合いが深い。それだけに、武士階層のいい部分も悪い部分も見ている訳で、彦馬は武士に対する憧れは少なかった。
それに引き換え、蓮杖は武士に対する憧れがあったようで、しばしば、勤皇の志を口にし、大小を腰に差し、浪士風のポーズを好んだ。
成功してからは大言壮語に拍車が掛かったようで、時には煙たがられたようである。
当時、写真は成功すれば驚くほど儲かった。
彦馬は長崎で写場を開いたが年収は1万円から1万5千円あったという。役人の年収が百円だったころの話である。
東の横綱である蓮杖の声が大きくなるのも無理はなかった。
彦馬がエリート育ちなのに対し、蓮杖は叩き上げで、今でいえば、屋台から始めて、大チェーン店を経営するようになったラーメン屋さんのようなものなのかも知れない。
成功してからは、得意の語学を生かし、海外の学術誌を読み、弓を引いた彦馬とは違い、蓮杖は、成功した後も俗物臭をプンプンとさせていたように思うが、門下からは横山松三郎、江崎礼二など優秀な弟子を輩出し、彦馬門下生に負けてはいない。
年をとって、変に「いい人」になる人物よりも、最後までぎらぎらとした人間には魅力を感じる。
そういえば、彦馬はかっちりした写真が得意であったが、蓮杖はスナップ写真にも似た人物像を得意としていた。この辺りにも、二人の性格の違いが出ている。

話は蓮杖と彦馬の比較論のようになってしまったが、下田の蓮杖博物館、ぜひ行ってみて下さい。
ここに行ったなら、記念写真を取るべきです。600円を支払って、男性は軍服姿、女性はドレス姿で記念撮影ができます。自分の持ちこんだカメラで撮ってくれるため、基本的には2ポーズと言いながら、何枚も撮ってもらえる(混んでいなければ)。
いつもいるとは限らないが、とてもフレンドリーなH.Mさんがいろいろ工夫をして撮って下さる。
男性だったらモデルガンだとか、模造刀などを持ちこんで撮ってみるのも面白いかも知れない。子供にも対応するので、家族で行けば、いい記念になることは間違いない。

蓮杖写真記念館HP


H.Mさんの写真を撮らせてもらったが、「ブログに載せるときは目隠しをしてね」と言われた。そんな高度な技は出来ないので、とりあえずは、全景のみ。


幕末、この場所に下田湾の見張所ができた。確かに非常に見晴らしのいい場所である。


M.Kさんお勧めの心太(ところてん)。しっかりとした歯ごたえがあっておいしい。350円。お土産も買ってしまった。


帰りの伊豆急で買った駅弁「つぼ焼き さざえめし」、1050円。見事なほど、サザエしかない。さざえのつぼ焼き1個を入れるというアイデアが秀逸で、アイデア勝ち。これを高いととるか、潔いととるかは、判断が分かれるところだろう。実は、横浜~湘南~伊豆は駅弁が優れた地域。

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堀江鍬次郎~講演会

2010年06月23日 | 江戸の写真
6月19日、津のセンターパレスにおいて、「堀江鍬次郎と上野彦馬」と題した講演会が行われた。
講師は鍬次郎についてが日本大学芸術学部の田中里実先生、彦馬担当が長崎大学環境科学部の姫野順一先生であった。
両先生のお話とも示唆に富み、大変参考になった。
公演後、田中先生とお話をさせていただき、鍬次郎に関する資料はほとんど残っておらず、苦労されている旨をお聞かせいただいた。全く同感である。

鍬次郎は長崎海軍伝習所の2期生でもあり、当時、津藩のエリートであった。
だが、伝習所への派遣がどれだけ評価対象になったかについては、疑問も残る。
というのは、伝習所に派遣されたのは、おおむね下級武士が中心だったこと、伝習所での学問が武士としてのキャリアに直接プラスにならなかった点が挙げられる。
同じ津の伝習所同期生としては、測量の父とも呼ばれる柳楢悦が今や一番、後世に名を残している。
他には、すでに数学者として有名だった村田佐十郎や明治天皇から祭祀料を賜った吉村長兵衛などがいるが、鍬次郎と同じように化学に優秀だった市川清之助などは名が残っていない。

これには、化学という今ではれっきとした学問が当時は認められていなかった状況が大きい。
日本薬学の父と呼ばれる長井長義は、徳島藩医の息子であった。長義は長崎の医学校である精得館に学びに出たが、本心では新しい学問である化学を学びたいと思っていた。
長義は彦馬の下に住み込み、彦馬から化学を習うが、化学に熱心なあまり、精得館は休みがちであった。
それを役人に咎められ、「自分は化学を学びたいから、精得館は休むのだ」と抗弁したが、役人は化学など学問だと思っていないから、理解せず、「だったら、病気で休むということにしておけ」と伝える。それを聞いて、長義は「何と先見の明のない人間だろう」と発言するが、この当時は長義のような人間のほうが少数派であった。
この時期、G・ワグネルなど非常に優秀な化学家たちが来日したが、招聘した日本側では一部の者を除いては、「腕のいい職人」のように捉えていた節がある。

幕末、津藩は京都時習館の蘭学者・広瀬元恭を三顧の礼をもって招いているが、碌は二十四石に過ぎない。
それも「築城新法」などを表した元恭の西洋砲術の知識が欲しかったからである。

鍬次郎は早世しなかったら、同じ槍と遣い手でもあり、中央政府、後には財界に食い込んだ吉村長兵衛の引きなどもあったであろうし、後世に名をとどめた可能性大である。
だが、まだ時代は鍬次郎の名を留めるまでには熟成していなかったといえる。


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堀江鍬次郎展

2010年05月19日 | 江戸の写真
昨日、仕事が終わってからダッシュで津市へ走った。

目的は津市センターパレスというところで「堀江鍬次郎展」が行われていたからである。
ミニギャラリーということなので期待せずに行ったのだが、展示量も少なく、内容に新発見はなかった。

津市は太平洋戦争の戦災により町のほとんどが焼けてしまったせいもあるのだろうが、歴史に対する市民の関心が薄く、郷土の偉人も忘れられがちである。
堀江鍬次郎も、そうした忘れられた一人である。

津は写真が盛んな土地であり、今回の展示も写真界からのアプローチから成されたのかも知れないが、いずれにせよ、先人にスポットライトが当たるのはうれしいことである。

堀江鍬次郎については、ご存じない方が多いと思うし、色々間違いも多いので、少しだけ書いておきたい。
鍬次郎は、津の藩校である有造館の教師となるが、その前に長崎の海軍伝習所に派遣された。
この時、上野彦馬と知り合う。写真についても共同で研究を進め、ダルメイヤというイギリス製のカメラを150両もの大金で購入する。
その後、彦馬は名声を馳せ、鍬次郎は早世したこともあり、歴史に埋もれてしまった。
鍬次郎は、写真の黎明期に生き、上野彦馬にも多大な影響を与えた人物であるが、あくまでも有造館の教師であり、写真家ではない。

鍬次郎については色々と謎も多い。
長くなるので、ここでは書かないが、幕末において、写真というのは軍事的な意味合いがあった、ことだけは書いておきたい。
以前、韓国では橋の写真を撮影することが禁じられていた。軍事的な理由からであるという。
各藩が写真についても研究を進めたのも、相手の城や有する兵器などを撮影することが、諜報活動に繋がったのである。
趣味の部分があったことを否定はしないが、藤堂家もまったくの道楽で150両も払ったわけではない。

津での展示で新発見はなかったと書いたが、6月19日に講演会があることを知ったのは、嬉しかった。
ぜひ、拝聴しに行きたいと思っている。

「堀江鍬次郎と上野彦馬」 講演会

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英傑たちの肖像写真

2010年04月21日 | 江戸の写真
上野公園の西郷さんの銅像は本人とは似ていない、と言ったら驚く人も多いのではないか。
実は、西郷隆盛の写真は後世に残されていない。
だから、私たちが日頃慣れ親しんだ西郷さんのイメージは不確かなものである。
最近ではテレビなどでも取り上げられ、よく知られた史実となりつつあるが、古写真史にはこの手の話が散在する。

その古写真史に並々ならぬ造詣をお持ちの研究家の森重和雄さんが、共著で本を著された。
「英傑たちの肖像写真」というタイトルの本である。
英傑というのは、明治天皇、西郷隆盛、土方歳三、近藤勇、坂本龍馬の五人。
このうち、近藤勇の項を森重さんが担当された。
写真に少し詳しい方なら、坂本龍馬の写真は上野彦馬が撮ったというのが定説になっているが、その説が正確ではないことを教えてくれたのが森重さんであった。

幕末の写真史というのは、最近になって急に研究が進んできた分野で、ひと昔の本は一部の著者を除いて大抵が嘘八百である。

理由としては、二つあると思う。

写真史に関しては残された文献が非常に少なく、推理をしながら検証を進めていく、という地味な作業が不可欠であった。
学問としてしっかり確立されていない分野でそんな面倒なことをする人はごく限られた人であった。
どれが本当でどれが嘘だか、ほとんどの人が分からなかったから、平気で詐欺のような嘘がまかり通ったのである。
詐欺というのは言葉の綾ではなく、イカサマ写真が高い値段で売られたり、本当の詐欺もあった。

もうひとつは、各人の研究が限定されていた点が挙げられる。
たとえば、故宇高随生氏は優れた古写真研究家だが、今ではあまり知られていない。それというのも、インターネットなどの情報網が確立される前はライフワークとして研究しても個人の知りうる範囲が限られていた。
一生を掛けても、決定打が打てなかったのである。

今は机の前で、かなりのことが分かる。
だが、最も大事なことは現場に行かなければ分からない。
この点は肝心である。
インターネットで手品の種を知ることができても、手品ができるようにはならない。
また、インターネットでは玉石混合で、素人には、どれが玉で、どれが石だか判断できない。

この「英傑たちの肖像」は薀蓄の固まりである。
だが、決して重箱の隅を突付いた内容ではない。
既に分かりきったジャンルでの新事実を発見するには、細かい指摘になるのだが、古写真については、まだ分からない点が多い。
目から鱗がドカン、ドカンと落ちる内容に違いない。
本は4月末販売開始の予定。

写真が紐解く幕末・明治(森重和雄さんのHP)

土方歳三記念館日記(執筆者のおひとりである土方愛さんのHP。 本の予約はこちらにアップされているチラシからできます



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近藤勇・写真の値段

2009年10月26日 | 江戸の写真
古写真研究家の森重和雄さんから連絡を受けて、10月20日放映の「何でも鑑定団」という番組を観た。
個人的にはこの司会者が嫌いなので、ほとんど観たことがなく、先日もハードに落として司会者のコメントの部分を早送りして観た。
内容的には新選組の土方歳三近藤勇の写真2枚の価格は?というもの。
現在、二人の写真として残っているものはほとんどがコピー品でオリジナルは少ない。今回の写真はオリジナルから直接複写したものだそうだが、それでも貴重品である。価格は2枚で150万円がついた。かなりの高価格と思えるが、どうなのであろうか。
今回の近藤勇の写真は京都の堀与兵衛、土方歳三の写真は北海道の田本研三が撮影したものであるというのが定説になった。
近藤勇=堀与兵衛撮影説は、森重さんが主張した説である(土方歳三=田本研三撮影説は日本写真協会副会長の小沢健志さんらが主張したものであるが、森重さんも再考証している)。
古写真に興味がない人にとってはどうでもいい話なのであろうが、従来は上野彦馬か、下岡蓮杖のどちらかが撮ったのではないか、というのが通説であったと聞くと、古写真研究の遅れを感じる。幕末期、写真師は彦馬と蓮杖のふたりしかいなかったかというと、決してそんなことはない。
今では堀与兵衛も田本研三も知名度がないかも知れないが、当時、その地にあっては知らない人がないほどの名士であった。時代の流れは人の名声をも押しやってしまうが、作品は後世に残った。堀や田本の名前は知らなくても、近藤や土方の写真は多くの人が見ている。
仮にこれらの写真がヘンテコなものだったら、その写真師は後々まで恥ずかしい思いをしたであろうが、幸いなことにどちらも彦馬や蓮杖の撮ったものに比べても遜色ない。
当時はシャッターさえ押せば誰でも撮影できるという時代ではなかったが、逆に現代は、シャッターを押せば誰でも簡単に写真が撮れる。
だが、360度広がる空間の一部を切り取るのが写真であり、漠然と撮影していたのでは、いい写真は撮れない。何を捨てて、何を取るのか、視点の取捨選択が重要である。
シャッタースピードの速さという武器を手に入れた現代においては、連続する時間の一部を選択できるようになったが、それは同時に、写真が空間と時間という三次元世界へ移行した証でもあった。
幕末においては、まだ乾板方式がなく、長い露光時間が必要であったため、動いている被写体は撮影できなかった。「瞬間」は撮れなかったのである。雨天の日や、もちろん夜間には撮影できなかった。色々な制約が多かったはずなのだが、その頃に撮られた多くの写真が現代写真に勝るとも劣らないと感じさせるのは何故だろう。被写体となった者の人物的な魅力もあったのだろうが、写真師の意気込みという部分も大きかったと思われる。
坂本龍馬や高杉晋作の写真には、本人の性格が表れているという人がいるが、田本や堀が撮った近藤や土方の写真からはどのような性格が読み取れるのであろうか。


幕末写真の時代 小沢健志編 ちくま学芸文庫

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堀与平衛②

2009年08月29日 | 江戸の写真
堀与平衛の堀家は、出自が現在の本巣郡と言われているが、与平衛は1826年、京都で生まれている。もとは廻船問屋に勤めていたが、大坂の道修町でガラス製造が行われるようになると、ガラス工場に弟子入り。ガラス職人としての腕を身につけた与平衛は京に戻り、唐物雑貨を扱って生計を立てるようになった。この当時、女性の間で砂金玉という舶来の髪飾りが評判になり、非常な高価で売買されていた。この砂金玉は、実はガラス玉に過ぎないということを見抜いていた与平衛は、自作の飾り玉の製造に成功。この発明は当時の日本の技術としては画期的なもので、与平衛の作った飾り玉は大評判、一躍、与平衛は財を成した。ガラス職人としての評判を耳にした蘭学者辻礼輔は、ガラス製の化学実験用器の製造を依頼しに、与平衛の店を訪ねた。礼輔の話から、舎密(化学)の存在を聞いた与平衛は一遍に舎密の魅力に取り憑かれてしまう。礼輔は明石博高の主催する研究グループに属しており、与平衛も懇願して、そのグループに参加する。そこで写真を知り、それ以降、与平衛は家業も手につかないほど写真にのめり込んで行く。
この頃の写真は湿板法といって、撮影の際に良質で厚さが均一のガラス板が不可欠であった。その意味でガラス職人と舎密研究者の結びつきはベストマッチであった。
文久三年(1863年)、与平衛は紙写真の製造に成功する。江戸で鵜飼玉川が写場を開いた年に遅れること2年後の快挙であった。
その後、不安定な政局の中、もっとも危険地帯であった京にあって掘与平衛は写真師として成功していく。
以上は、ほとんどが『写真事始め』の抜粋であるが、著者は宇高随生氏。
初版が1979年であるから、もうかなり昔のことになる。当時において、写真黎明史の研究は画期的であったと思う。
写真史に興味がある方には一読をお勧めします。

以上の事で個人的に興味を抱いたのは、与平衛と礼輔、博高らの結びつきである。
上野彦馬には堀江鍬次郎という津藤堂藩の舎密師がいたが、彼らの師は長崎海軍伝習所のポンペであった。
明石博高は、京都舎密局の校長となるが、その時にはポンペの後任でもあったハラタマワグネルなどの学者が招かれた。
ワグネルは島津製作所の設立にも影響のあった人物であり、脈々と続く日本化学史の混沌としながらも希望に満ちあふれた時代を想像させる。

写真事始め 宇高随生 柳原書房

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堀与兵衛①

2009年08月24日 | 江戸の写真

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古写真研究家の森重和雄さんから、近藤勇の写真は京の堀与兵衛が撮影したことが判明したとの連絡を頂いた。
古写真研究というのはあまり耳慣れない言葉かも知れないが、奥が深い。
ごく簡単に言うと、古い写真のうちどの写真がオリジナルであるかとか、写真の真偽、撮影者、撮影日時などを解明していく研究で、パズルのような根気のいる研究である。

たとえば、土方歳三の最も有名な写真である洋装軍服姿も、今多く目にするのはオリジナルではなく、目元に修正が施された加工品である。
なぜそのような写真が出回ったかというと、幕末期の志士たちの写真は、今日でいうブロマイドとして流通されていたからである。見栄えがいいように、顔に修正が加えられ、トリミングが行われた(中には江藤新平のように斬首刑後の晒し首をブロマイドにされてしまった者もいたが)。
また、写真を写真で撮影するということも多く行われたようで、複写品も多い。伝えられる写真が偽物である場合は簡単に分かるが、オリジナルかどうか、というのは簡単には分からないそうだ。

幕末志士の肖像写真の中で、一番有名なのは、坂本龍馬のものであろうか。
この写真は、よく上野彦馬が撮影されたとされるが、実際に写したのは彦馬のところに修行に来ていた井上俊三である。
一般の人には井上俊三と聞いてもよく分からないに違いないし、龍馬を撮影したのは彦馬だと書いてある本も多い。
冒頭の堀与平衛にしても同じである。知名度は低い。
大体、幕末の写真家というと、西に上野彦馬、東に下岡蓮杖しかいなかったかのように思う人も多いだろう。
司馬遼太郎も、「燃えよ剣」の中で彦馬が近藤勇を撮影するような場面を描いていたし、大島昌宏は「幕末写真師 下岡蓮杖」の中で蓮杖が近藤を撮影したように描写している。
けれども、この両名とも近藤勇も土方歳三も撮影していない。

じつは、時代も慶応期ともなると、写真家の数は両手でも数えられないほどの人数に上っていた。
江戸薬研堀「影真堂」の鵜飼玉川を初めとして、京の堺町御門前「大与」こと堀(大阪屋)与平衛、彦馬門下からは京の知恩院の近くに写場を構えた亀谷徳次郎、明治期になって天皇の御影を撮影することとなる内田九一、蓮杖門下としては横山松三郎がいた。そのほか、一橋家に召抱えられた島霞谷、北海道では魁といえる木津幸吉(なぜか志村けんにそっくり)、その弟子の片脚の写真師、田本研造(森重さんの研究により、例の歳三の写真を撮ったのは研造とされる)など、綺羅星のような写真師が誕生していたのである。

中には、さきの島霞谷の妻・隆(りう)のように女性の写真師もいた(もっとも、実際に活動するようになるのは明治期になってからであろう。その頃には井上俊三の妻・さと亀谷徳次郎の娘・とよのように女性写真師も多くなってくる)。

何だか、堀与衛平に行く前までに長くなってしまったので、与衛平については後半に書かせてもらいます。



森重和雄さんの研究はこちら






島霞谷

2009年04月29日 | 江戸の写真
幕末には、上野彦馬と下岡蓮杖くらいしか写真師はいなかったかのように思っている人がいるが、そんなことはなかった。
京都には堀与兵衛がいたし、江戸には鵜飼玉川やこの島霞谷、妻の隆などがいた。多少のずれはあるが、写真という金のなる商売に興味を持った人間が増えたとしても不思議はない。
霞谷は、桐生の旅籠屋の息子。開成所で絵図調出役を仰せられるほど絵画に熟練しており、はやくから写真にも取り組んでいた。この頃の写真家は、蓮杖や横山松三郎も霞谷もみな絵師出身である。
彼の写真でもっとも有名なのは禁裏御守衛総督時代の徳川慶喜である。これは、100%霞谷の撮った写真というわけではなく、霞谷のものと伝えられる写真ではあるが、幕府のトップを撮った写真としては出色である。
霞谷は44歳で夭折しているので、歴史の舞台に大きな足跡を残すことができなかったが、日本写真史上で、忘れてはならない存在である。

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近藤勇と白粉

2009年02月24日 | 江戸の写真
司馬遼太郎の「燃えよ剣」に白粉を顔に塗りたくった近藤勇が出てくる。
それを土方歳三が、「何事か」と嘆息をつく。
近藤勇は、「ホトグラヒーだ」とうそぶく。
歳三は、そう言われても何のことだか分からない。
写真の黎明期の一場面であるが、時代考証的には難がある。
この頃、日本の写真は初期のダゲレオタイプから、第二期とも呼べるコロジオンタイプに移行していた。
このコロジオンタイプというのは、コロジオン液というものをガラス板に塗り、液が乾かないうちに撮影するもので、湿板法とも呼ばれる。
この頃の写真技術は、現在のIT産業のように日進月歩で、技術の進化が目覚ましかった。
コロジオンも初期の頃は、レンズの解放値がF16くらいで、現在のフイルムに相当する板の感度がとにかく鈍かった。
西方の写真黎明期の立役者、上野彦馬が長崎でホトグラヒーをロッシュに習い、悪戦苦闘している時は、まさにこの頃の露出時間を長く取らなければならない代物であった。その頃の露出時間は、何分もじっとしていなければならいくらい。
しかし、時代が下った後のカメラは、20~40秒くらいに露出時間が短縮されている。l
この頃の写真撮影には、もはや白粉は必要がなくなっていた。
近藤勇が写真を撮った頃には、白粉を塗らなくてもよかったのである。
強面の近藤が白粉を顔に塗った姿は想像としては、面白いが、実際は時代が合わないのである。

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近藤勇の写真

2008年12月15日 | 江戸の写真
幕末から明治にかけては、目覚しい技術革新が遂げられた時期であるが、写真黎明期においても例外ではなかった。以前に書いた鵜飼玉川を筆頭に東では下岡蓮杖、西では上野彦馬の二人がプロカメラマンとして営業を開始しているが、その後、続々とプロのカメラマンが誕生している。
写真が伝わった当初は「魂が抜かれる」と言われて日本人に忌避され、日本に来た外国人が主な客であった写真であるが、次第に日本人の中にも浸透していく。
この頃に立志伝中の人物も数多く写真を撮影しているが、新撰組局長近藤勇もその中の一人であった。
当時の写真は誰が撮影したか、よく分からないものが多い。例えば、坂本龍馬のように、上野彦馬の下で修行中の井上俊三が撮影した、などとはっきりと言明できるものもあるが、逆に、よく分からない写真のほうが多い。
近藤勇の写真も同様である。
インターネットを検索しても、百家争鳴に近い状態で、どの説が正しいのか、混沌としている。中には、根拠なく断定しきっている記事もある。
そんな折、四ツ谷見附の「春廼舎(はるのや)」さんで、古写真研究家、森重和雄さんの講演があることを知り、喜び勇んで拝聴させて頂いた。
勉強不足の私にはかなり分からない点が多かったのだが、実証主義の氏の研究態度には深く感心させられた。
森重氏は、専門の研究家ではないが、とにかく「自分の目で見る」ということを大事にしている。
幕末の勇士の写真は、後にブロマイド的に流通したこともあり、構図的な切り取り、いわゆるトリミングが行われたケースも多かった。古写真研究家は、背景に使われる小道具、敷物、椅子などに着目するという。椅子の形、ときには、椅子についた傷などという「点」を手繰って、この写真とこの写真は同じ場所で撮影されたという「線」に結び付けていく。
その時、このトリミングは邪魔でしかないと森重氏は語る。
だが、トリミングが行われている写真はオリジナルではないことが分かる。
近藤勇の写真も、親族である佐藤氏の家に伝わる写真はオリジナルではないと言う。この辺りは、実際に現物を確認した氏の話であるから、説得力がある。
結論から先に述べると、近藤勇の写真は、「京都の堀與平衛の写真館で慶応二年に撮影されたもの」が森重氏の結論である。
この根拠については、敷物の柄が堀の写場のものと同じであるとしている。
氏は、この根拠だけではなく、撮影時期の特定もされている。新撰組の隊員川村三郎の子孫の方と面談して、「近藤勇は大与という写場で撮影した」と伝えられていることもつきとめている。
「大与」とは、堀の写真館であるということで、裏付けも確認できたとしている。
今の世の中は便利になって、インターネットで全てが分かる、と思っている人も多いと思うが、現地に行かないと分からない匂いがある。
実証主義ということを再考させられた一日であった。

春廼舎HP

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