木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

栄国寺と切支丹

2013年06月21日 | 江戸の話
名古屋市中区に栄国寺という寺院がある。
西山浄土宗に属し、清涼山と号して、西光院第9世任空可信を開祖とする。
れっきとした仏教の寺ながら、境内には切支丹遺跡博物館があり、殉教碑もある。
この理由には、歴史的背景がある。

慶長十七年(1612年)3月17日、徳川家康はキリスト教禁止を発令。
翌慶長十八年十二月には、宣教師追放を公布。
しかし、発令当初はまだ締め付けもゆるく、まだ布教は行われていた。
尾張地区でのキリスト教取締が厳しくなってくるのは、寛永八年(1631年)くらいからで、この年にはキリシタン57名が検挙されている。
うち4名は火あぶりの極刑に処せられ、9名は斬首、残り44名は江戸送りとなっている。
寛文期となると、尾張藩はキリスト教の大がかりな検挙に乗り出す。
寛文元年(1661年)から始まる大弾圧である。
寛文四年、尾張、丹羽郡、葉栗郡、五郎丸を主とした地域(現在の犬山市)、扶桑町などに及び、検挙者は2千人に上った。
ときの尾張二代藩主・徳川光友は、その中の主だった者、二百名を千本松原と呼ばれる刑場で処刑。寛文四年一二月一九日のことである。
栄国寺にある石碑によると、光友は、残りの者を救済しようと画策したが、幕府の許可が得られず、寛文七年10月に処刑せざるを得なかったという。
二百人が処刑されてから二年が経過しているが、この月日をどう考えたらいいのだろう。
切支丹は問答無用に斬り捨てられたかのようなイメージがあるが、地方とすれば、中央の勝手な方針で働き手を失うのは嫌だったに違いなく、ことあるごとに改宗のタイミングを与えていたには違いない。
それでも多くのキリシタンは、改宗しなかった。

光友がその者たちを弔うために寛文五年に作られたのが、清涼庵である。
交通の盛んなこの地に刑場はふさわしくないとの見解もあった。
その後、清涼庵は、貞享三年(1686年)には、栄国寺と改められている。

このような事情で、仏教の寺ながら、栄国寺には切支丹の碑がある。



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雑感

2013年06月19日 | 日常雑感
大学生の頃、イカ天という番組があった。
「イカすバンド天国」という番組で、アマチュアバンドがプロになる登竜門だった。
出身者で今でも第一線にいるバンドとしては、BIGINがいる。
あの頃は都内にも数多くのライブハウスがあり、一回でも出演した経験にあるバンドは「セミプロ」と名乗っていた。
そして、口あるごとには「音楽でメシを食う」「夢は武道館」「完全プロ志向」という言葉を並べていた。
今で言うクラブ、昔のディスコの二次会に行くと、男のほとんどがバンドをやっており、チケット即売会と化していた。
その中には、後日、実際にプロになった者もいた。
しかし、今ではプロとして残っている者はいない。
一方では武道館にも行き、今も活動している者もいる。
後者は、飲み会でぐだぐだと夢を語っていなかった人たちである。
彼らは、飲み会で夢を語るよりも、その間、練習をしたり、演奏に工夫を加えていた。
ストイックだったのではないと思う。
単にだらだらと飲んでいる暇があったら、練習をしたかったのだと思う。
たまに飲み会に行ってもプロ志向などという話題は自らはしなかった。
飲みに行く時間を惜しんで練習をした、と言う点がポイントではなく、「プロになる」ということを飲み屋での話題にするのを恥じたというところだと思う。
女の子にもてたくて、バンドを志した者も多かったし、ナンパの手段として、セミプロという名称を使う人間も多かった。
その類の人間は、女の子にもてたところで、プロになる目的が半ば達成され、モチベーションが落ちてしまった。
プロを目指した動機なんて、どうでもいいことなのだが、目的と手段がごっちゃになったということだ。
アマチュアとプロの差というのは、天と地ほどもあるのかというと、そんなことはなくて、ほんの紙一重の場合が多い。
本当は、プロとセミプロなんて言葉もなくて、「食べていける人」と「その他の人」しかない。
今、自分もそうとう煮詰まっているけど、ブログでぐだぐだ書いている暇はないのかも知れない。
とにかく、頑張るのみだ。

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夕陽の言葉~女子プロレスラー

2013年06月10日 | 日常雑感
「夕陽」という女子プロレスラーがいる。
女子高校生プロレスラーだ。
平成7年生まれ。
初めて知ったのは、朝霞駅前のチャリティー試合で、アジャ・コングとの一戦である。
52kgの身体で100kg超のアジャに立ち向かうのは、かなり無理があり、しかもキャリアの差がある夕陽は惨敗する。
それでも、前に前に向かう夕陽の姿はすがすがしかった。
その夕陽が今年、外国人選手に完敗した後のインタビューが印象的だった。

「あと何を捨てればいいのか。
あと何を捨てれば強くなれるというのか」

彼女は、何をすれば強くなれるのか、ではなく、何を捨てれば強くなれるか、と言った。
つまり、今以上プロレスの練習をする時間を得るためには、何を捨てればいいのか、と言ったのだ。
ティーンエイジャーの言葉としてはすごい。

中高年になると、最近、つくづく、人生は取捨選択だと思うようになった。
何かをやりたいと思ったら、何かを捨てなければならない。
何もかも、全てを得られる人生はない。
自分が一番行いたいもののために、後のものを犠牲にする。
中高年の選択は、ティーンエイジャーの行う選択とは違っているだろうし、違っていなければならない。

でも、何かを捨てる覚悟なくして、大事は成しえないのは年齢を問わない事実だ。
そんな思いを、夕陽のインタビューを見て改めて思った。

夕陽のブログ

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植松努氏の講演録

2013年06月08日 | 日常雑感
北海道赤平市に株式会社植松電気という会社がある。
従業員17人、資本金1000万円の作業用大型マグネット機器を製造する会社である。
これだけ聞くと、ごく普通の会社のように思うだろうが、この会社は「普通」ではない。
ロケットを開発しているのである。
専務取締役植松努氏は昭和41年生まれ。
神童だった訳でもなく、東大出身でもない。
家が大企業を経営していたわけでもない。
それがなぜNASAに一目置かれるようなロケット開発を行う会社を作れたのか?
ここに講演会の記録がある。
「『夢』は僕らのロケットエンジン」と題されて、本とDVDがセットになっている。
その中にとても感銘を受けた部分があったので、少し長い引用になるが書き抜いてみたい。

僕は中学生の頃、ロケットの仕事がしたいなあと思ったのですが、周り中の大人から「できるわけがない」と言われます。でも僕は気がついたら名古屋で、飛行機やロケットをつくる仕事をしていました。そこを辞めて北海道に帰り、家事手伝いからスタートして、自分で株式会社を興し、10年経って、今またようやく飛行機、ロケットの仕事を始めました。すると今度は、「そんなもので食えるわけがない」とアドバイスをしてくれる人がいます。
大きなお世話だと思っています。できそうなことが夢なのでしょうか。必ずできる夢ってあるのでしょうか。必ずできてしまう夢って、夢なのでしょうか。そして、「食える」っていったいどういうことなのでしょうか。給料いくらとだと「食える夢」で、給料いくらだと「食えない夢」なのでしょうか。「食える」っていったい何なのだろうと僕は思っています。
そもそもなぜ、お金が必要になるのでしょうか。これをよく考えてほしいと思います。お金が必要なのは支払うためです。そして、将来の不安を解消するためです。この2つのために支出というものが存在しています。
でも、支払うためや不安を解消するために、お金を求めることが夢なのでしょうか。それは、ちょっと間違っているんじゃないかな、と思っています。


また、別のところでは、

やったことがないことは、試しにやってみると必ず失敗するということです。
これは間違いないですね。でも、失敗をデータにして、改良して再挑戦すれば、どんなことも必ず成功する。


わくわくするような言葉だ。
会社のHPの求人のところでは、喫煙者、ピアス、茶髪、左利きを不可としていて、下記のような理由を上げている。

喫煙や、ピアス、茶髪などを「かっこう良い」という価値感で行っている人は、私たちは望んでいません。あくまでも、自己のポリシーや生き方の表現は、見てくれではなく、行動によって表現するものだと考えています。
多くの工具や機械加工設備が右手用に作られている現状から、安全面を考慮して右利きを必須としています。


なんともかっこいい。
先に行く「大人」が夢失い、金だけを求め、がつがつと生きているのでは、あとから来る「子供」は碌なものに育たない。
夢のある大人でいたいものだ。

最後にまた引用。

あきらめてはいけない理由

あきらめると
どんな素敵な過去も
後悔の対象にしかならない

あきらめないと
どんなつらい過去にも
感謝できる
笑いあえる


株式会社植松電気HP

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春近書店~椎名町

2013年06月07日 | 日常雑感
池袋から西武池袋線に乗って一つ目の駅、椎名町は自分にとっては「特別」な町である。
もちろん、池袋も「特別」なのだが、椎名町は日常の中での特別な場所。
池袋は、ちょっぴり「ハレ」の町。
頭を抱えたくなるような失敗や、胸が痛くなるような思い出や、心浮き立つような、いわば激しい思い出の町。
椎名町は、もっと穏やかな思い出。
その中で、商店街にある「春近書店」には、何度足を運んだであろう。
店先には1冊50円の棚があり、ここでは数えきれないほどの本を買った。
今、考えると、運命的な本にも出逢っている。

一番好きな作家である海老沢泰久。
「監督」を買ったのは、表紙が魅力的だったから。

ロバート・B・パーカーの「初秋」。
スペンサーものの最高傑作と言われる本も単に「50円だったから」に過ぎない。

アーウィン・ショーの「夏服の娘たち」。
これも何気なく手にとった一冊だった。

中山千夏の「恋あいうえお」。
いつの間にか紛失していたものを、昨日、アマゾンで再入手した。
その中には今読んでも決して色あせない文章の数々。

この「近春書店」に限らず、どこで買ったかと覚えている本がある。
そういった本はかなりの確率で、今も自分の座右の本となっている。

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