木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

抜き身の刀を持って走るとき

2015年07月28日 | 江戸の武器
笹間良彦氏の「時代劇のウソ・ホント」という本を読んでいる。
面白い。
常識は往々にして忘れ去られる。
当時の人からすれば当たり前過ぎるほど、当たり前だと思っていたことは、意外に記録に残っておらず、後世になると分からなくなる場合も多い。
そんな行為のうちのひとつとして、「抜き身の刀を持ちながら走る」といった場面がある。
時代劇で主人公が複数の刺客から襲われ、逃げるシーンがある。
刺客は抜き身の刀を普通に持って走り回り、

「いたか?」
「どこにも、おらぬ」
「逃げ足の速い奴だ」

などという会話が交わされるのだが、笹間氏は、これらの持ち方は「デタラメ」だという。
刀を立てたり、前に出して走れば、味方に当たるかもしれないし、切っ先を下げて走れば、自分の足を切る恐れがあるからだ。

切っ先が後ろになるようにして、右肩に担ぐのが正解だ。
しかも水平にすると、後ろにいる味方を傷つける恐れがあるので、必ず斜めに担ぐ。
右の拳が、右あごよりも右肩近くになるようにして担げば、八双にも青眼にもすぐに移行できる。

単に刀を抜いて走るだけにしても、意外なくらいに知らないことがあるものだ。

「時代劇のウソ・ホント」笹間良彦(遊子館)


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水蜘蛛

2014年01月27日 | 江戸の武器
水蜘蛛、という道具がある。
伊賀者が使った大きなカンジキのような道具だ。
この道具は、水の上を歩くものとして知られている。
しかし、実際に試してみると、子供の体重ですら支えきれない。
上野市観光協会が発刊している『観光100問答』は、安価でとても優れた書物だと思うが、この書でも水蜘蛛については間違いを犯している。

Q:水蜘蛛は浮かないのか?
A:いろいろ実験をしてみた結果の結論であるが、水蜘蛛は残念ながら実用できる道具ではないと言わざるを得ない。


と記し、水蜘蛛は『万川集海』に載っているが、著者の藤林保武が中国の書籍から試しもしないで孫引きしたから、図らずも嘘になった、と結論付けている。
理由としては、『万川集海』に箔をつけるため、と言う。
果たして、この指摘は的を射たものなのだろうか。

水蜘蛛の件は、少し冷静に考えてみれば、分かる。
伊賀者が堀を渡る際に、水蜘蛛に乗って「うんこらせ」と現れたら、それこそ弓矢、あるいは鉄砲のいい餌食となる。
こんな大掛かりな道具を使うより、ふんどし一丁で泳いで渡ったほうが、よほど発見されにくい。

実は、水蜘蛛とはドロドロの湿地帯を歩く道具であった。
水ではなく、泥を相手にしていたから、水蜘蛛は十分実用に耐えたのである。

これまた逆に考えると、伊賀者が湿地帯を歩かなければならない回数と言うのは多かったのだろうか。
この問いにも『否』と答えざるを得ない。

泥沼地を城の周りに設けるというのは、築城技術が未発達の昔は効果があったが、『万川集海』が発刊された延宝年間にあっては時代遅れであった。
泥沼地がなくなるにつれ、水蜘蛛も実用度を失っていく。
忍術書とは、門外不出、秘伝書であると言われるが、『万川集海』は求められた訳でもないのに、わざわざ幕府に提出されている。
『有限会社 伊賀者』の企画書のようなものだ。

書の中には大袈裟な表現も目立つ。
『水渇丸』なる丸錠があるが、一日三粒飲めば、四十五日の間、水を口にしなくても大丈夫だという。
あり得ない話だ。

現代でも、車の性能を計るのに、燃費率というものがある。
リッター何キロ走るか、というやつだ。
これはサーキットのようなところをプロドライバーが慎重に走って得た最高値だ。
一般の人が公道で出すのは、ほとんど無理な数値である。いわゆるカタログ値だ。
伊賀者の記載は、カタログ値としても無理だが、外に対しては伊賀者を超人と思わせるための広告とし、内にあっては暗示効果を狙って書いたのかも知れない。
水蜘蛛には暗示効果はないが、広告としては効果があっただろう。
時代遅れになって実用的ではない水蜘蛛に、本来の使用目的ではない「水上を歩く」といった方法を意図的に付したとも考えられる。

そう考えると、伊賀者は、意外にもPRマンとして、長けていたとも言える。


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反射炉

2009年09月28日 | 江戸の武器
幕末の雄藩の台頭を紹介するのに必ず出てくる事項として、嘉永三年(1850年)、佐賀藩が反射炉を作ったことが述べられる。
佐賀藩に続き、長州は萩に、幕府は伊豆韮山に相次いで反射炉を作っていく。

反射炉は大砲などを鋳造するための設備であり、反射炉を持つ、というのは武器工場を持ったことと同義であった。

以上は高校のどの教科書にも載っている事柄であり、日本史を学ぶ者は誰もっている有名なものであるが、さすがに反射炉の内容まで言及している教科書は少ない。
私も反射炉について「大砲をつくるもの」という漠然としたイメージしかなく、詳しい内容はよく知らなかった。
だが、反射炉は辞書を引いても載っている。

《反射炉》金属の精錬・溶解、鉱物の培焼などに用いられる炉。燃焼と加熱物が直接触れないように燃焼室と加熱室は分かれており、ドーム形の炉頂に沿って導かれる炎と天井や壁からの輻射熱によって加熱・溶解する。耐火煉瓦によって作られ、一般には長方形。
小学館「言泉」

さすがは大きな辞書だけあって分かりやすい説明である。

当時の反射炉が現存するのは伊豆の国市にある韮山である。僅か100円の入場料を入って見学に
行くと、隣接する土産物の方が丁寧に説明をしてくれる。
現物を見ると、もやもやしていた部分が納得できた。
水力による動力確保や鉄の冷却のため、水源が豊富でないといけないなど、現地に行かなくては分からない。

韮山の反射炉は周囲に建物もないため、青空によく映える。
この製造に携わったのは、江川英龍であるが、彼の生前には完成せず、子の英敏の代になって完成した。安政四年(1857年)11月のことである。
英敏はどのような気持ちで完成した反射炉を見たのであろうか。

この反射炉では、現在フジテレビがあるお台場の砲台の大砲など、多くの大砲が製造された。
しかし、反射炉の使用は、幕末を待たず、元治元年(1864年)までで終了した。
製造に3年間かかった反射炉の使用期間はわずか7年に過ぎなかった。
しかも、各藩の反射炉で作った大砲は夷的相手よりも、国内の内乱で多く使用された。

戊申戦争の際、幕府敗戦の大きなきっかけとなったのは山崎関門を守る津藩の寝返りと言われる。山崎に設置された24ポンドカノン砲はこの韮山製であったが、夷的を想定して作られた反射炉が倒幕にひと役買ったというのはいかにも皮肉であった。








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鎧の裏側

2008年09月06日 | 江戸の武器
問い:鎧(よろい)の裏側にある筒のようなものは何?  答えは、文中に。



鎧(よろい)というのは、正面から見るだけで、あまり裏側を見たことはないのではないだろうか。
先日、清洲城に行っていて、ふと鎧の裏を見ると、筒のようなものを目にした。写真では少し分かりづらいかも知れないが、中央の黒い棒のように見えるものである。
実は、これは「受筒」という鎧の一部である。
受筒は、何のために存在するのだろうか。
矢を入れるため? 手が届かない。
刀を入れるため? 筒が細すぎて入らない。
受筒は、指物(旗)を入れるものなのである。
旗は敵味方を区別するものであるから、大事な部分である。その旗を入れる受筒も地味ながら、大事な部分であった。

ところで、この清洲城では、有志が集まって、アルミによる鎧を手作りしていると言う。アルミ缶を溶かして、アルミ板を作り、それをコツコツと木型に合わせ、叩いていく。
完成品は、金箔貼、漆塗りのなかなか豪華なもので、アルミには見えない。
ボランティアの参加者募集中ということなので、興味ある方はいかがであろうか。



このような甲冑を作るのに350MLのアルミ缶が400缶必要とのことである。

清洲城HP
清洲甲冑工房の記事

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手裏剣

2006年06月12日 | 江戸の武器
先日、「RED SHADOW 赤影」というDVDを借りて来た。
「仮面の忍者 赤影」のリメイク版である。
30分もしないうちに、観るのをやめてしまった。
時代劇コメディという内容も内容だが、あまりの時代考証のめちゃくちゃさに、これでは忍者も浮かばれないだろう、と思ったのである。
とはいえ、忍者に確たる時代考証があるわけではない。
陰の者の使う忍術は当然秘伝であり、詳細については残されていない部分がほとんどだ。
だが、手裏剣については、後世に術が伝え残されている。
手裏剣は、武士にも奨励されていた時期があったからだ。
しかし、手裏剣と武士はイメージが結びつかない。

徳川幕府では、攻撃力の強い手裏剣を邪道と位置づけ疎んじ、一般には禁じていた。
それが江戸も末期になり、政治状況も混沌としてきた中、手裏剣に注目する藩も現れてきた。
代表が御三家のひとつ水戸藩で、九代藩主水戸斉昭が息女を仙台藩主に嫁がせたことから、東北地方に伝承されていた願立流手裏剣術が水戸藩内に知られることとなる。
その系統から根岸流をうち立てた根岸松齢という人物が出現する。
それ以前にも天真白井流剣術の流祖、白井亨義謙による白井流があり、その他にも明府真影流が伝えられている。
話は少しそれるが、最後の徳川家将軍となった慶喜は、手裏剣の名手として名高く、慶喜が実際に使用されたと言われる手裏剣も現存している。

一般に手裏剣というと、星形をした車剣(四方手裏剣)を思い浮かべる人が多いと思うが、実際は棒手裏剣と呼ばれる棒型のものがよく使われた。
まず、車剣であるが、投げると、うなりを上げて飛ぶので、敵を心理的に威嚇する効果が大きかった。
刃の形状にかえしを入れることにより、殺傷力をアップすることもできた。
大きさは15cm、重さ200gくらいのものが多く、実際に見てみると、意外なほど大きく感じるし、実際の重量もかなり重い。
この形状は空気抵抗も大きく、軽すぎると目標への的中率が落ちるためである。

車剣には、欠点もある。
一枚の鋼にたくさんの刃を付けるという加工は高度な技術で量産できなかったし、コスト面でも高くついた。
また、刃がたくさんついているため、投げるときに自分の手を切ってしまう可能性があった。重いので携帯に不向きでもある。
機動力が命の忍者にとって、携帯に向かない武器は致命的だ。
だから、忍者は少量の車剣と、携帯に便利な棒手裏剣を併用していたと思われる。

棒手裏剣は、長さが12~18cm、重さは60gくらいのものが多かった。
空気抵抗の少ない棒手裏剣は、車剣よりずっと軽量であったので、携帯に適した。
(ちなみにダーツの矢は25gくらいであるから、それよりはずっと重い)
丸い鉛筆状のものが多かったが、四角や三角のものもあった。
投げ型は、車剣も棒手裏剣も基本的には、野球で言うオーバーハンド。
正面に振りかぶって、投げおろす格好だ。
棒手裏剣は、連続して投げることも比較的容易で、流派によってはフェイントをかけながら投げる型もあった。
二本、三本の手裏剣を同時に投げることもできた。
熟練者は複数の手裏剣を同じ所に刺すこともできたし、持ち方を変え複数の敵を一度に倒すこともできた。
手裏剣は、元来、鎧兜に身を包んだ武者の唯一の弱点である目を狙うことを主眼としたのであるが、状況いかんでは、遠隔地の敵に対し、弓矢以上に効力を発揮したという。


剣技・剣術二 牧秀彦 新紀元社
手裏剣普及協会公式サイト

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KATANA

2006年05月17日 | 江戸の武器
日本が第二次世界大戦に負けて残念だったと思うことに、何万本もの刀が海外に二束三文で流出してしまったことがあげられる。
刀は古代には太刀(たち)と呼ばれ、反りのない直刀であった。それが平安期になると反りのあるものに変化していく。そして、戦国時代になると、が登場。
太刀と刀。なんの違いが?と思われるかも知れない。
大きく違うのは、太刀は刃を下にして吊るすように携帯する。これを佩(は)くという。
一方、刀は刃を上にして、携帯した。これは、差すと表現された。
また、太刀は三尺(約90cm)くらいあったが、刀は二尺三寸(約70cm)以下が標準であった。
武器としての攻撃力よりも、軽量化が求められるようになったのである。
これは、「我こそは」と名乗りを上げてから切りあったいささかのんびりした感のある馬上の戦いから、至近戦へと戦法が移行していったという事情による。

さて、武士にはステイタスシンボルとして必需品だった刀。
時代劇では素浪人が腰に差しているのは竹光だったなどという設定も好まれて使われているようだが、お値段はいくらくらいだったのだろう?
石川英輔氏の「大江戸番付つくし」は、1800年代のものと思われる名刀の番付表を紹介している。
そこにはしっかりと価格まで記されている。
目についた所を書き示して見ると、三人の行事役の一人に大坂の粟田口忠綱(20両)、副主催者に虎徹(30両)。東の大関には、42歳で夭逝した天才、津田越前守助廣(30両)、西の大関には地刃の出来の優れた大坂の井上真改(30両)。個人的に好きな近江忠廣(7両)は西の前頭に位置している。
番付の端を見ると1両という値段も見える。
この頃の一人前の大工の年収はだいたい20両。
前項に登場の淡野氏の試算によるとこの頃の1両は12万円と見ているが少しレートが低いかも知れない。
仮説的に1両=15万円としてとらえると、刀は15万円くらいから、450万円くらいだったと言える。
かなりの格差である。現代で言うと、車であろうか。
中古車から高級車という並びになる。
浪人が刀を質屋に入れるのは現代人が車を中古車センターに売るようなものかもしれない。

さて、有名人はどのような刀を使っていたのだろう?
鬼平こと長谷川平蔵は、二尺二寸九分の粟田口忠綱をメインに井上真改を使った。どちらも高級品だ。忠綱は、江戸城内で田沼意知が佐野善左衛門によって殺害された時に使われた刀である。佐野は賄賂政治家の息子を倒したと、庶民から「世直し大明神」としてもてはやされ、忠綱の価格も高騰したという。同じ時代に生きた平蔵もそのこともあり、愛用したのではないだろうか。
近藤勇は、虎徹。近藤の刀は実は偽虎徹だったという説もあるが、真偽は明らかでない。

虎徹は、現代で言う彦根市長曽根の生まれ。
福井で鎧師として既に名匠としての地位を築いていた。
あるとき、御前で名刀と名兜とどちらが強いかが話題になり、勝負することになった。
もちろん、兜は虎徹作。
いざ勝負の時。
刀匠が、満身の気迫を込めて刀を振り下ろそうとしたその刹那。
虎徹は「しばし」と言って、
「位置が少し曲がっておりますゆえ」と兜の位置を直した。
それを刀匠は怒ったような顔で見ていたが、
再び、満身の力で刀を振り下ろした。
しかし、兜はびくともしなかった。
刀匠は、返す刀で近くにあった石の灯籠を斬ると、灯籠はまっぷたつに割れた。
将軍は二人ともあっぱれであると、ふたりに褒美を下さったが、勝敗は明らかである。
虎徹は、勝った。
しかし、虎徹はその直後、兜作りをやめてしまう。
そして、その刀匠に弟子入りをし見知らぬ地に行ったのである。
後日、虎徹は、
「あのときは刀匠の気迫十分で、負けたと思った。それで、気迫をそぐために待ったをかけたのだ」
と告白している。
そして、
「そんな自分が恥ずかしくてならなかった」
と言っている。
時に、虎徹50余才。御前試合に勝ったと、自慢し、鎧師としての地位を更に確固たるものにしてもよかった。
当時の50歳は、多くが隠居する年齢である。
しかし、虎徹は、その年齢から奮起して、日本一の刀匠としての地位を確立したのだ。
現代で言えば、60過ぎのオーナー社長が、その椅子をかなぐり捨て、違う分野で成功を納めたようなものだ。
虎徹は、延宝六年(1678年)に上野池之端で74歳で亡くなっている。当時としては、高齢だ。
チャレンジ精神があったから、高齢まで生きられたのか、それとも、それくらいまで生きられる生命力のあった人だから、50歳を過ぎてもチャレンジすることができたのか。
それはわからないが、人は成し遂げたいことがあるうちは老いないものじゃないかな、と思う。
いい話だ。

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