木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

松本良順と海水浴と幸福と

2014年08月18日 | 人物伝
逗子海岸では、今年から遊泳者に対して、音楽禁止、飲酒禁止、タトゥー禁止など、かなり厳しい条件を突きつけた。
酒のみの私としては、飲酒禁止というのは辛いが、海の家内では呑めるらしいと聞いて、少しほっとした。
結局は個人のモラルに帰するとは恩うのだが、自分にとっての「好」が他人にとっての「忌」になる場合も多々あり、問題は簡単ではない。

海水浴と聞いて、思い出したのは、松本良順である。
明治18年頃、日本で初めて海水浴を推奨したのが良順だったからだ。
良順は、長崎海軍兵学校の講師だったポンペに、海水浴が健康によいと教えられた。
それ以来、良順は海に興味を持っていたが、神奈川県の大磯を旅したとき、大磯海岸が最も海水浴に適していると感じた。
そこで大磯の旅館「宮代屋(みやだいや)」の主人・宮代謙吉に大磯を海水浴場とすることを強く勧めた。
大磯に日本で初めての海水浴場がオープンしたが、東京から歩いて来るにしては大磯は遠い。
明治20年に鉄道が開始となると、それまでは芳しくなかった客足が急に伸びて行った。
牛乳を日本に広めたのも、良順である。

良順は一般には知名度が少ないかも知れない。
吉村昭の「暁の旅人」の中の一説が分かりやすい。

洋学医の大家・佐藤泰然の子として生まれ、幕府奥医師松本良順の婿養子となり、幕府の医官として長崎に遊学し、オランダ医ポンペについて西洋医学を身につけた。江戸にもどって医学所頭取となり、幕府崩壊を眼にして奥州に脱出し、いずれも幕府への忠誠をくずさぬ会津、庄内両藩のもとで戦傷者の手当につくした。

良順で思い出すのは、下岡蓮杖と並んで日本で写真の祖と言われる上野彦馬とのエピソードだ。
当時の器具では、写真を撮るためには5分以上も身動きをせずじっとしている必要があった。
写真を撮られると魂を抜かれると信じた写真嫌いの人間がほとんどだった。
モデルを引き受けてくれる人物はいなかった。
その際に、よく駆り出されたのが良順であった。
露出を稼ぐために白粉を顔に塗りたくられたまま、じっとしている良順を鬼瓦だと間違えた人もいる、という落ちもついている。
良順は義理固く、情に厚い面倒見のいい人間だったに違いない。

海水浴を勧め、牛乳を広めようとした頃、良順は新政府の兵部省に勤めるようになっていた。
大学東校(後の東京大学)が僻むほどの病院もオープンさせていた。
すべてが順風満帆のような良順順だが、現実はそうではない。
明治12年にはドイツに留学に行っていた長男・太郎を脱疽で亡くす。
明治26年には妻・登喜を劇症肺炎で亡くす。
さらに、同じ年、次男の之助を溺死で亡くす。

人生には色々な不幸があるが、配偶者や子供を亡くす経験は、不幸の中でも最たるものだ。
人格者で、面倒見のいい良順がなぜこんな不幸に続けざまに見舞われなくてはならなかったのだろうか。
「神様は耐えられる者には、強い試練を与える」だったか、「神様は、耐えられないほどの試練は与えない」だったか忘れたか、どこかで聞いた言葉だ。
だが、人間ってそんなに強いものじゃない。
少しのことで心が折れてしまうのが人間だ。

いい人間が必ずしも、幸福にならないのが人生のように思う。
もしかすると、良順はあまりにも自分に厳しい人間だったのかも知れない。
周囲にいた人間も良順の生き方に従おうとするあまり、ついつい自分を追い詰めて行ってしまった可能性もある。

いい人間。
幸福な人間。
どちらを選ぶのか。
両方選べれば問題はない。
必ずしも両立できないとも思えない。

二者択一ではなく、両方を選ぶ感覚。
自分も幸せ。
他人も幸せ。
WIN WIN の関係を求める気持ちが大事なのではないだろうか。

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ソニー・カポネ アル・カポネの息子

2014年01月03日 | 人物伝
森下賢一氏の「偉人の残念な息子たち」(朝日文庫)という本を手にした。
とても面白い。
ヘミングウェイの息子は性転換したとか、エジソンの息子は父親の名を使った詐欺の常連だったとか、チャーチルの息子は酒乱で死んだ(ちなみに娘はハリウッド女優でフレッド・アステアと共演したがやはり酒乱だった)など、興味深いエピソードを紹介している。
その中でも、アル・カポネの息子ソニーについての記述も面白い。

アル・カポネは知らぬ人がいないほど有名なアメリカ禁酒法時代のギャングである。
カポネの指示により殺害された人間の数は400人にも上るといわれる。
残虐なギャングであったが、ギャングにしては陽気な性格、マスコミを情報操作したこともあり、大衆に人気があった。
1931年に逮捕されアルカトラズの刑務所に収容されたが、1940年の大統領選挙の際には、アル・カポネと書かれた無効票が記録的な数に上ったという。

カポネの息子がソニーだ。
カポネが長く逮捕されず栄華を誇っていたら、その後のソニーの生活はどうなっていたか分からない。
しかしカポネは梅毒で頭がおかしくなりながら、1947年に死んだ。
そのとき、ソニーはマイアミ大学で経営学を学んでいた。
実はマイアミ大学の入学前はノートルダム大学に偽名で入学していたが、カポネの息子だとばれて退学させれれていた。
1940年代、ソニーはマフィアの組織から仕事の手伝いをしないかと、打診されたそうだ。母親の反対もあり、ソニーは打診を蹴った。

大学を卒業後、中古車販売のセールスマンになったが、その販売店の社長は中古車のメーターを改ざんして売るようなインチキ商売をしていた。
ソニーはこのインチキに反対し、退職。
その後、母親とレストランを始めるが、給仕頭の仕事はシャイなソニーには無理で、レストランも廃業。
次はフロリダでタイヤ倉庫に務めるが、その給料では妻と四人の子供を養うことはできず、妻子に見切りをつけられ、離婚されてしまう。
その後は、妻子への養育費を捻出するため、昼夜を問わず働いたという。
テレビ映画「アンタッチャブル」が企画されたとき、ソニーは裁判を起こして反対したが、敗訴した。
1965年にはソニーは新聞ネタとなる。
アスピリンと懐中電灯の電池を盗んで逮捕されたのだ。
盗んだ金額は3ドル50セントだった。
この事件から9か月後、ソニーはアルバート・フランシスと改名し、2004年に死んだ。
ギャングとはいえ、あまりに派手な人生を送った父親とは違い、3ドル50セントを盗んで逮捕されるという、あまりにもぱっとしない人生だった。

偉大と呼ぶのは違うが、「大物」だった父親の影で地道に生きたソニーだが、父親がアル・カポネでなかったら、ソニーの人生は変わっていたのだろうか。
日本は七光りに甘いところがあり、首相の孫などというしがらみや重圧を感じさせないあっけらかんとしたタレントもいるが、少なくともそんな「大物」が父親でなかった自分の幸福を思いたい。

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坐漁荘~西園寺公望とアイスクリーム

2013年11月24日 | 人物伝
今日、11月24日は西園寺公望の命日である。
西園寺は公家の出身であるから幕末の時期には目立った活躍はしていない。
鎮撫する任を負って西日本を行脚したくらいである。
この鎮撫というのは形式的なもので、新政府が書類を諸藩に渡す際に、重々しさを出すために皇族を同行させたに過ぎない。

政界で活躍するようになったのは、岩倉具視の引きや伊藤博文らとの親交もあったが、皇室と政界のパイプ役としてうってつけだった点が大きいと思われる。
若いときにパリに留学した経験からリベラリストで、自由民権運動にも傾倒した。
皇室の持つナショナリズムとリベラリストで親欧米派としての顔は相反するものであったが、二.二六事件でも襲撃されることなく天命をまっとうしている。

公望七〇歳のとき静岡県興津町(現静岡県静岡市清水区)に建てたのが坐漁荘(ざぎょうそう)である。
昔は窓を開けるとすぐそこは白浜があり、その先に波打ち際が見える風光明美なロケーションだった。
今では目の前にあった砂浜は埋め立てられ、バイパスの高架を望む殺風景な光景になっている。
決して広くはない屋敷だが、海側の窓が大きいため明るく、段差のないバリアフリーの構造となっている。
「坐漁荘」とは、座して釣でもしながら暮らそう、という意味であるが、実際は楽隠居して釣三昧の日々とはいかず、政界の実力者のもとに「興津詣で」が絶えなかった。

本物の坐漁荘は明治村に移され現存しているが、興津にはレプリカが建設されている。
レプリカではあるが、細部まで凝った造りで、本物に酷似している。
この辺りには公望や、同地に長者荘を建てた井上馨に所縁のある方々が今も住んでおられて、運営を手伝っておられる。
そのせいで、愛情のこもった施設になっている。

坐漁荘での公望の楽しみは、好みのパンを食べることだった。
興津は田舎だが、一方では清水港を目の前に持ち国際的な面も持ち合わせていた。
その当時としては洒落た乾物屋もあり、公望はその乾物屋に東京から毎日パンを取り寄せさせていた。
またアイスクリームが好物であった。
坐漁荘にはアイスクリームの輸送用容器(魔法瓶のようなもの)が残されている。
併せて栄太郎飴の缶も残されているから、甘党だったのだろう。
明治の元老がアイスクリームに目をほそめている姿は想像するとほほえましい。
公望はアイスクリームを食べながら、若き日に留学したパリの匂いを嗅いでいたのだろうか。
ブランデーにもこだわりを持ち、酒席には持参することもあった。

公望ほどのこだわりでなくても、ある程度の年齢以上になったら、食にもこだわりを持ちたい。
いい大人がカップラーメンばかり食べているのはみっともない。
今の日本は若者と年寄りばかりが金持ちで中年が貧乏という構図もある。
居酒屋で必死に安いメニューを探すお父さんが多いのも事実。
バイキングでのドカ食いがストレス解消になるのは若者であって、中年になったら工夫したい。
安い素材でも自分で調理し、いろいろ工夫を加えれば御馳走になる。
高い食材は買えなくとも、調理にこだわりを持てば、食材に対するこだわりと同様、立派なこだわりだ。
調味料にこだわりを持つのもいいかも知れない。
お金がなければ頭を使えというところか。
かく言う自分も反省。


若き日の西園寺公望。浪士風の髪型はとても公家には見えない。反骨心というか、少し風変りな印象を感じる。


決して広くはない坐漁荘。贅沢って何だろうと考えさせる。


アイスクリーム輸送容器。案外、贅沢はこの中にあるのかも知れない。

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ヴォーリズと同志社カレッジソングとカレーライス~2

2013年07月31日 | 人物伝
二宮尊徳は「経済なき道徳は寝言である」と言った。
金原明善は「汚ない金もきれいなことに使えばきれいな金だ。きれいな金も汚ないことに使えば汚ない金だ」と喝破した。
ヴォーリズはメンソレータムで儲けた金を私欲のためには使わなかった。
サナトリウムを建て、学校を建て、社会活動に使った。
聖書の一説、

わたしたちは何も持たずに生まれ、世を去るときは何も持っていくことができない。食べるものと着る物があればわたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根源です。
(テモテⅠ 六・・・六~一〇)


をヴォーリズは忠実に実践したと言う。その考えは当時の近江兄弟社の給料制度にもよく現れている。
岩崎侑氏の「青い目の近江商人」を引用する。

管理職と雑役の従業員との給料に差はない。給料は相対的能力によるものではなく、相対的必要性によって決まる。例えば、独身者は十人の家族を抱える人物ほどには金を必要とはしない。(中略)給料を個人や家族のニーズに合わせるということだ。

個人の固有財産を持つことは禁じられていないものの、認められてはいない。

ヴォーリズ夫妻は衣類以外には何も持っていない。彼らは銀行に1ドルたりとも持っていない。彼らのサラリーは残ったら分配される。実際、近江兄弟社のメンバーはすべてこの上なく幸福で、無一文の状態なのである。


こうして書くと、なんだかカルト宗教のような印象を持つ人もいるかも知れないが、近江兄弟社は宗教団体ではない。
ただし、若き日のヴォーリズが雷に打たれたように感じとった使命(キリスト教の伝道)からすると、宗教団体っぽくなるのは当然の帰結である。
近江兄弟社の社綱領の第一条には、

近江兄弟社は近江の国において教派に関係なく、基督の福音を宣伝実践する事をもって、目的とする。

と明言している。
また、社綱領の第六条には、

近江兄弟社は、禁酒、禁煙、貞潔、思想の向上、冠婚葬祭・慣習の合理化実践、体育衛生・社会文化の向上進歩に努力し、青少年教育、社会風致の改善に従事する。


とあり、社員は禁酒、禁煙を求められる。
何かやはり固い印象を持つが、近江兄弟社が今も統一理念を「信仰と事業の両立による社会奉仕活動の実践」としている以上、当然なのであろう。
大事業を成し得ても、禁酒、禁煙、資産もなしという生き方を窮屈なものと捉える人もいるだろうが、何かを得るためには、何かを手放さなければならない。
幸福とは、何を手放し、何を得るか、の取捨選択に掛かっていると言っても過言ではない。
ヴォーリズが手放したものは多かったが、得たものはもっと多かったに違いない。

ただし、ヴォーリズがただの慈善家、「ひとのいいおじさん」だったかというと、そうではない。
ヴォーリズは、ときには厳しい商人でもあった。
ヴォーリズは語っている。

ビジネスは商人にとって教育や医療や伝道などの活動と同じように、社会奉仕であり、公共の利益のために取引者相互が尽くすべき一つの信頼であって、自己の利益を得るための戦いではない。

良心的で優れた仕事を成したあとには、正当な報酬を得なければならない。冒頭の二宮尊徳や金原明善にも繋がる考え方である。
理想の前には、しっかりとした暮らしがなくてはならない。
暮らしを支えるのは、しっかりとした仕事である。
熱心な基督信者であったヴォーリズが熱心な商人であったのは、ちっとも矛盾しなかったのである。

今津のヴォーリズ資料館に行くと、昼にはカレーライスが食べられる。
価格は、なんと300円。
肉は使わず、地元野菜を使った優しい味で、米は黒米(炊くと桜色になる)を選ぶこともできる(黒米の場合は330円)。
また、ヴォーリズセット300円もある。こちらはライスに漬物と野菜のみそ汁というシンプルなセットだが、この味噌汁が野菜たっぷりで素晴らしい。
どちらも、「御馳走」というよりは寺で頂く精進料理のような感じで、ほっとする味だ。

また調べていると、同志社大学のカレッジソングはヴォーリズが詩を付けたという文に出くわした。
意外なところで意外な事実があるものだ。





ヴォーリズ資料館:滋賀県高島市今津町今津175番地 0740-22-0981 
休館日:月曜、年始年末

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参考資料
青い目の近江商人~ヴォーリズ外伝(文芸社)岩原侑


ヴォーリズと同志社カレッジソングとカレーライス~1

2013年07月29日 | 人物伝
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880年10月28日~1964年5月7日)。
アメリカ合衆国カンザス州に生まれ、日本に帰化した人物。
建築家、実業家にして熱心なプロテスタントの布教家。
彼の設計した建築物には関西学院、神戸女学院、大丸心斎橋店などが今も現存する。
と、ここまで書いてもピンと来ない人が多いと思うが、ヴォーリズの興した会社が近江兄弟社だと言ったら、ある年代以上の人には分かるかも知れない。
近江兄弟社はメンソレータムを製造・販売していた会社だ。
現在、メンソレータムはロートが販売権を持ち、近江兄弟社はメンタムを販売している。
ヴォーリズの名前は知らなくとも、メンソレータムなら大概の日本人は知っている。
近江兄弟社という会社名を風変わりな社名と捉えた人も多いのではないだろうか。わたしもそうだった。
兄弟が経営していた会社なのだろうか?
社名も変わっているし、そもそもヴォーリズとはどのような人物だったのであろう。

コロラド大学で建築学を学んでいたヴォーリズ青年は、一方でYMCA活動を熱心に行っていた。
カナダのトロントで開かれたYMCAの世界大会に参加したヴォーリズは、大会開催中に行われた講演会で中国で殉死した少年の話を聞き、天の啓示を受ける。
「お前はそこで何をしているのか」とキリストが直接語って来たかのように思った、と後にヴォーリズは回顧している。
講演会を境に、ヴォーリズは建築家としての道を捨て、宣教師への道を選ぶ。
1904年(明治38年)2月に26歳で滋賀県近江八幡市に英語の高校教師として来日。
彼が日本を選んだのは、殉教に困難な地を選んだからだという。
高校教師として生徒の信望も上々であったが、ヴォーリズの熱心な布教活動が保守的な田舎での反発を招く。
ときは、日露戦争のころである。
二年後の1906年には教職を解雇される。
不運であったが、この苦い経験が後の幸運に繋がる。

ヴォーリズは支援者の力を借りながらも京都に設計事務所を設立。
その後、シカゴでメンソレータム社の創業者A・A・ハイド氏と知り合い、日本でのメンソレータムの販売権を認められる。
ヴォーリズ合名会社を設立して実業家の道を歩むともに、近江ミッションという布教団体を創設し、近江八幡を中心とした布教活動にも力を入れる。

ヴォーリズの会社が一層の発展を遂げるのは、1920年、メンソレータムを販売するようになってからである。
近江セールズ株式会社を設立し、設計とメンソレータムの販売を二本の柱とする。
ヴォーリズがメンソレータムの販売権を得てから、日本での販売が10年もの日数を要したのは、設計の仕事、布教活動に多忙を極めた点と、メンソレータムが日本の風土に受け入れられるかはっきりと分からなかったからであろう。
実際、売りだした当時はまったく売れなかった。
価格も12g入りが現在の価格に換算して千円程度で、現在のメンタムの定価の3倍以上だった。
この価格で売れれば、ボロ儲けといってもいいくらいの高収益である。
当初は売れなかったメンソレータムは、次第に売れ行きを伸ばし、国内生産しなければ間に合わないほどになった。
ヴォーリズは、事業によって得たこの収益を何に使っていたのだろうか。
ヴォーリズが会社で得た収益を何に使っていたかを知ることが、近江兄弟社の社名の由来や、彼の考え方に繋がる。

~続く


大正12年に建てられた今津にある旧百三十国立銀行(現・滋賀銀行)。現在はヴォーリズ資料館として一般開放されている。

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与謝野晶子と写真

2012年12月07日 | 人物伝
私が繰り返し観た映画で一番回数が多いのは「ブラックレイン」だと思う。
マイケル・ダグラス、高倉健、アンディ・ガルシア、松田優作といった俳優陣の名演技、脚本の確かさ、日本を舞台にした親近感などもあるのだろうが、なんといっても、音楽がいい。
この音楽を担当したのは、ハンス・ジマー。
「クール・ランニング」「グラディエーター」「ブラックホークダウン」など数多くの映画の中にとてもいい音楽を提供している。

いきなり映画の話から入ってしまったが、歴史上の人物でも、人気の高い人には、いい写真が付きものだ。
以前にも書いたが、たとえば、松平容保。
一番有名な例の烏帽子姿の写真は、悲劇の主人公としての容保をすべて表している。
坂本龍馬の懐手をしながら立っている写真もしかり。
寝起きを起こされて眠かっただけとも伝えられているし、近眼せいもあったようだが、目を細めて立つ姿は未来を予見しようとしている姿にも見える。

逆の例もある。
「汚れちまった悲しみに」の中原中也はあの詩のように純真無垢な青年ではなかったと思うのだが、これまた例の帽子を被った写真によって、名声を高めたような気がする。

与謝野晶子、詩人、堺生まれ。明治11年(1878年)12月7日~昭和17年(1942年)5月29日。
今日、12月7日は与謝野晶子の生まれた日である。

晶子はバイタリティの人である。
12人の子供を産み、残した詩は5万首以上。
お茶ノ水にある専門学校・文化学院の創始者の一人でもある。

晶子は先に述べた人たちのような代表的な「これ」といった一葉がなかった。
今でも人気のある晶子であるが、「ベストショット」があったら、もっと人気があったに違いない。
なにしろ、

柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君

と詠む晶子である。
中原中也ばりの写真が残っていたら、男として「何か」を思わない人間は少数派だと思う。

ちなみに、夫・与謝野鉄幹は下戸に近かった。
晶子はかなり強かった。
「飲んでも酔わないし、旨くないもから、酒は飲まない」と言っていたそうだ。
なんとなく、与謝野家の位置関係を暗示しているような気がする言葉だ。

三田村鳶魚の本を読んでいたら、偶然、晶子の話が出てきた。
東京に出てきた晶子は、セイロに乗ったザルそばの食べ方が分からず、汁を蕎麦の上に全部掛けてしまった。
当然、下から汁が漏れて困ったそうだ。
当惑して「ワヤやわ」と関西弁で叫んでいる晶子の姿が目に浮かぶようだ。


出回っているのが、この写真だったら、まだいいような気がする。

文化学院による「与謝野晶子の履歴書」

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野口英世とメリー・ダージス

2012年11月25日 | 人物伝
己に自信のある者ほど、他人を頼らない。
けれども自信と劣等感は表裏一体である。
豪放磊落であるように見える人が、実は繊細な神経の持ち主だったという例などはよく聞くところだ。

野口英世。
この人ほど、自信と劣等感の中で揺れ動いた人もいないのではないだろうか。
心の叫びがまるまる外に聞こえてしまうような人だったと思う。
有名なところでは幼児の時に囲炉裏に手を突っ込んでしまい、火傷のせいで左手の指が全てくっ付いた状態になってしまった。
周囲からは「手ん棒」とからかわれた。
成人後、指を離す手術を行って貰ったことから、英世は医学への道を歩もうとするが、途中から細菌学者としての道を歩む。

化学しろ、細菌学にしろ、気が遠くなるような失敗の上に、ごくごく少ない成功が得られる分野だ。
猪苗代出身の野口英世には、粘り強い東北の血が伝わっていたのだろう。
「ヒデヨはいつ寝ているんだろう」
と周囲に言われるほど、寸暇を惜しんで行った地道な試験の後に、英世はアメリカで学者としての名声を轟かせていく。

英世の妻はメリー・ロレッタ・ダージス。通称、メージー。貧しいアイリッシュ系の移民の娘であった。
メージーには悪妻説も付きまとった。ひどいものになると、娼婦だったなどという噂も飛び交う。
だが、英世がアフリカに行き、黄熱病に罹った英世の手紙によって、メージーが悪妻であったかどうか分かる。

1928年4月5日
しばらく手紙が来ないので心配している。
どうしているか、すぐに電報で知らせてほしい(後略)。

1928年4月7日
今、満月だ。研究所から帰りながらあなたのことを思って。とても悲しい。でも、それも、もう終わり。心配しないで(後略)。


1928年4月10日
あなたの電報と手紙が届いて、とても嬉しかった。あなたが元気でアンディと一緒なのが嬉しい。彼もあなたも十分気をつけてもらいたい。仕事は難しいが、元気だ。五月中頃まで、ここにいるだろう。


夫がこんな手紙を出す相手が悪妻である訳がない。
もしかしたら、世間の言うところの『良妻』とはズレがあったかもしれない。
それでも、世間の『良妻』が自分にとっての『良妻』とは限らない。
人生の最期に「いいパートナーだった」と素直に言えるなら、その夫婦は素晴らしい関係にあったと思う。

野口英世は聖人君子ではなかった。
若い頃には放蕩もしたし、ロックフェラー研究場では助手との不倫も噂された。
助手の名は、エブリン・ティルディン。
後にノースウエスタン大学医学部の教授となり、一生を独身を通した女性だ。
不倫の噂の真偽はさておき、背の高いマサチューセッツ生まれのアメリカ娘は、英世に心酔した。

メリーも英世の死後は、悲しみのあまり、常軌を逸したような行動をとっている。
東洋の小男のどこにこんなに西欧女性を夢中にさせる魅力があったのだろう。
外見的魅力ではない。
仕事に集中して取り組む姿勢、生き方そのものにカリスマ的な魅力があったに違いない。


メリー・ロレッタ・ダージス

参考:野口英世とメリー・ダージス 飯沼信子 (水曜社)


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金原明善~少年の眼差し

2012年10月21日 | 人物伝
司馬遼太郎の作品を読んでいていつも思うことがある。
司馬作品に出てくる主人公は大概が生まれつきのように自分に自信があって、迷わず自分の道を突き進むような人間が多い。
迷いも葛藤もなく、自分の道を邁進するような人間だ。
すかっとするものの、私が自信なき人間であるせいか、何か違和感を感じてしまう。

金原明善(1832年・天保三年~1932年・大正12年)、浜松安間生まれ。
金原の一生は司馬遼太郎の主人公のように、何の迷いもぶれもない。

本物ほどシンプルになっていくものであるが、人間も一言で言い表せる者ほど本物だ。
金原は、その一言で言い表せる数少ない人間である。
一生を賭けて何を行ったかというと「天竜川の治水」に他ならない。
「あばれ天竜」と呼ばれた天竜川の治水の必要性を痛切に感じた金原は、天竜川の治水事業に取り組む。
更に「水害は山から来る」との考えから天竜川の上流に植林し、金原林を造った。
天竜川を治めるためであったら個人の財産も道楽も要らなかった。
明治10年には、天竜川の治水のために全財産63,517円を政府に寄付している(加藤鎮毅氏の計算では現在の1億7410万円)。

この金原明善とはどのような人間なのであろう。
あまりにも私心がなさ過ぎて、胡散臭い。
いくら難事業のためとはいえ、ポンと全財産を寄付してしまう人間がいるのだろうか。
そんな疑問をもとに、いろいろ当たって行くと、松本清張の「対談 昭和史発掘」(文春新書)という本に辿り着いた。
この本では、「政治の妖雲・隠田の行者」の項で日本のラスプーチンと呼ばれた飯野吉三郎を取り上げている。
飯野はかなり怪しい人物である。その中で金原の名前が出てくる。
読んでみると「飯野は儲けた金を金原と組んで満州に投資してさらに大儲けした」と書いてあり、金原に関しては「政商」と記している。
私には特に「政商」という文字が引っかかった。
金原は財産を全額寄付した後もたびたび多額の寄付をしている。
一文無しになったはずの金原がなぜ多額の寄付ができたのだろう。
この疑問に答えてくれるのが「政商」の二文字である。
財産全額寄付は当時内務卿の地位にあった大久保利通を通じて行われている。
地方の有力資産家が中央への確固たるポストを得るために「財産全額寄付」という一か八かの派手なパフォーマンスを行ったのではないか。
実際、寄付の後、金原の名は中央界に知れ渡った。
この試みは成功し、金原は政府とのパイプの下、後日、金原銀行を経営するなど安定した地位を築くことができた。

ここまでの推論は先の「対談 昭和発掘史」と「金原明善伝」「あばれ天竜を恵みの流れに」の三書を読んだ時点でのものである。
その推論が根底から覆されたのは、浜松の明善記念館に行ってからである。
金原の肖像は描かれたものしか見ていなかったのであるが、頑固そうな唇に、意思は強いが意地悪そうな目付きのものであった。
しかし、その肖像の元である写真を見て、びっくりした。
金原の目は少年のように純粋にきらきら光っていたからである。
私はここまで雄弁に人格を語りかけてくる写真を見た覚えがない。
この目の持ち主なら無私の人であってもおかしくない。
私の考えは180度変わった。

「金原明善の一生」(三戸岡道夫著)を読むとかなり明善の考えが分かってきた。
三戸岡氏は色々な金原の言葉を紹介している。

また明善は「慢損謙得」という訓えを説いている。その意味は、
(傲慢であれば、必ず何かで損をし、謙遜であれば、いつか利益を受ける)
という、実践道徳を説いたものである。

家訓の柱は、次の六カ条であった。
一.君国を重んずること
二.財産を重んずること
三.衣食住に制限を設くること
四.人はみな、その力に食むべきこと
五.家計は一定の年額を設くべきこと
六.家伝二宝のこと

第六条の「家伝二宝のこと」とは、金原家に永遠に伝えるべき『二つの宝』を規定したものである。二つの宝とは、
一は、よく忍ぶこと
二は、嗜むことなし
という二つの教訓である。


そしてこの六カ条全体を通して、
(行いを先にして、言を後にすべし)
と強調したのである。すなわち、議論ばかりしていても駄目だ、行動を先にしろということである。

わしは国家宗だから、一向に国家につくすことを考えている

私心一絶万成功
私心がなければ万功は成るが、これに反して少しでも私心があると万功は望むべきもない


不足をがまんして、他人が困っているのを救うのが真の慈善である。美しい着物を着て、うまい物を食い、美しい家に住み、そして余った金を世に施すのは、真の慈善ではない。それは単なる名分にすぎない。

わたしの社会事業は一種の道楽といってもいいでしょう。その道楽が人のためになり、しかもわたしの名前が残る、こんな結構なことはないではありませんか。span>


それまで、天竜川の治水に一生を懸けようとした金原の動機が不明だった。
ひどいものになると、「青年期に不治の病に罹ったが、天竜川の水を飲んだら完治した。その恩義に対するため」などという的外な説明があったりする。
金原明善というキーワードをひも解いていくと、金原にとって天竜川とは自らを表現するキャンパスに過ぎなかったと分かる。
天竜川の近くに住んでいなかったなら、金原は何か別の難事業を見つけ、そのために一生涯を懸けたであろう。

当初に飯野との関連を述べ、トンチンカンな考えを披歴してしまった私であるが、100%間違っているのではない。
二宮尊徳は「経済なき道徳は寝言である」との考えを示したが、金原の考えも同様である。
金原には金儲けに対して天性の才能があった。
「町で儲けた金を田舎で使う」とも言っていたが、この考えを具体的に示している本がある。
「幸せの風を求めて」(西まさる著)だ。
知多に榊原弱者救済所を作った榊原亀三郎を描いたノンフィクションである。
間接的にではあるが、榊原に弱者救済所の設立を示唆したのが金原である。
次の一語が金原の考えを端的に示している。

汚い金でも善いことに使われれば、それは善い金だ。どんなにきれいな金でも悪いことに使われれば、それは悪い金だ

目的と手段が明確に分かれているのであるが、不正をしてまで金を稼いだ訳ではない。
ただ、金原は清濁あわせ持つ器量であったのだろう。

金原は「こいつだったら出来る」と思った相手には放任主義を取る。
弱者救済所が開設後、危機的な状況に陥っても、金原はたいした援助もしない、激励に訪問にも行かない。
それでいながら、目の端ではしっかりと動きを捉えて、影では支援している。

西氏が紹介するエピソードは人間臭い、いかにも金原らしいものである。
弱者救済所一〇周年となったある日、榊原は金原の訪問を受ける。榊原はいいところを見せようとして、ことさら倹約を強調してみせたり、節制の度合いを自慢する。
布団も二人で一枚だと告げ、板の間に金原を寝せる。深夜になって榊原は、金原に呼ばれ、話をしてやるから布団に入れと告げられる。布団に入った榊原はいきなり金玉を鷲掴みにされた。驚く榊原に「人間、急所を掴まれると他愛ないものだ」と笑った金原は続けて、

「亀三郎、きょうのお前を見ていると、わしに勝とう勝とうとしているのが見える。わしに勝つのが目的か、それとも救済事業の成就が目的か。わしに勝つのが目的ならすぐに負けてやるぞ。そうじゃないだろう。慈善事業にたずさわる者は、そんな勝気じゃよろしくない。人の本質が見えなくなる」

と説教したそうである。
なんとも人間臭い金原の人間操縦術である。

金原は勲章を与えると言われた時も強硬に固辞した。金原の前には金も名誉も必要なかった。
偉人には間違いないが、規格外の偉人である。
その生き方を見ると、誰もが人より優れている、人には負けていない、ということばかりに汲々となっている我々に清々しい風を感じさせてくれる。

最後にまた引用。

「お前さんは強がって見栄をはって生きている。強がって肩をはるから疲れるだろう。でも、その割に満足は少ないはずだ。そんなに虚勢を張らねば生きていけないとは、まことに気の毒なことだ」(幸せの風を感じて)





(参考資料)
対談 昭和発掘史(文春新書)松本清張
あばら天竜を恵みの流れに(PHP)赤座憲久
金原明善伝(タンハマ編集部)御手洗清著・加藤鎮毅監修
金原明善の一生(栄光出版社)三戸岡道夫
幸せの風を求めて(新葉館出版)西まさる
明善記念館パンフレット

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ニコライ祭

2011年02月16日 | 人物伝
今日はニコライ祭が行われる日である。

東京のお茶の水にニコライ堂という教会がある。
設計は、ジョサイア・コンドル。
日本でも人気の高い設計家の手による教会は建物としての認知度が高いが、冠となったニコライの名を知る人は少なくなった。
このニコライは幕末から明治にかけてキリスト教の一派である正教会の教えを広めるために来日したロシアの宗教家である。
ニコライが初来日したのは、1861年。江戸時代が終焉する7年前。まさに、幕末の混乱期である。
ニコライは、鋭い観察眼と正確な情報処理能力を持っていた。
日本人の宗教観などについても、正鵠を得た意見を述べており、徳川政権下における一般市民についての考察も興味深い。


「これが専制政治と言えるだろうか? 一切抗言できぬ服従と盲従はどこにあるのだろう? 試みにこの国のさまざまな階層の人々と話を交わしてみるがよい。片田舎の農民を訪ねてみるがよい。政府について民衆が持っている考えの健全かつ自主的であることに、諸君は一驚することだろう」

「民衆について言うならば、日本の民衆は、ヨーロッパの多くの国民に比べてはるかに条件はよく、自分たちに市民的権利があることに気がついてよいはずだった。ところが、これらの諸々の事実にもかかわらず、民衆は、自分たちの間に行われていた秩序になおはなはだ不満だったと言うのだ! 商人はあれやこれやの税のことで不満を言い(実際にはそおの税は決して重くはないのだ)、農民は年貢の取り立てで愚痴を言う。また、誰もかれもが役人を軽蔑していて、「連中ときたら、どいつもこいつも袖の下を取る。やつらは禄でなしだ」と言っている。
 そして民衆はおしなべてこの国の貧しさの責任は政府にあると、口をそろえて非難している。そうしたことを聞くのはなかなか興味深いことであった。それでいて、この国には乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも、毎夜、歓楽街は楽と踊りとで賑わいにあふれているのである」


このニコライの論文は1869年(明治二年)に書かれたものである。その当時、ニコライが滞在していたのは、函館であったが、北の地にあって、日本を見る目は驚くほど正確である。
上に引用した文も、現在でも通用する部分の多い日本人論ではないだろうか。

幕末から明治にかけて、日本に来た外国人は、多くがキラキラと輝くような使命感を持っていた。
物事が始まる黎明期の、ワクワク感が満ちていたのである。
日本における文化面の向上は、ニコライのような外国人の力が大きかった。
日本人も使命感の他に大きすぎる野心を持った人間が多かったが、それでも明治は活況に満ちていた時代ということができよう。
明治に比べて、現代日本の閉塞感はいったい、何なんだろう。

正教伝道の使命に燃えたニコライは、母国ロシアが日本と抗戦している間も日本に留まり、明治最後の年となった明治45年(=大正元年・1912年)の今日、永眠し、谷中墓地に葬られた。

ニコライの見た幕末日本 ニコライ(中村健之助訳) 講談社学術文庫

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水野忠邦②~十組問屋の解散

2008年11月23日 | 人物伝
徳川の江戸時代は独裁政治だったと思っている人もいるかも知れないが、幕府の力は独裁を行えるほどは強固でなかった。武家社会においても藩の移封や改易は幕府が自由自在に行えるものではなく、他人が納得しうる理由付けが必要であった。商人に対して行われた棄捐令の類は問答無用の踏み倒しであるが、貸すほうにしても、そのリスクはある程度計算済みであっただろう。
支配者層と被支配者層という二元的な捉え方をするならば、この両者の利害はまったく対立する。戦国時代であるならばともかく、泰平の世が続いた江戸時代においては、商人にとって支配者層である武士は利用すべき存在に成り下がっていた。
支配者層というプライドがあるから、武士層も商人の力を肌で感じていても、その力を積極的に評価することができなかった。
水野忠邦にしても、同様である。
忠邦は、分限を越えた贅沢、奢侈が風俗の廃頽、物価の騰貴など諸悪の根源であるという信念を持っていた。
天保期に入ると、地震や火山の噴火などの天災が相次いで起きたが、とりわけ天保四年から続いた農産物の不作は、大規模な飢饉を招き、物価上昇を引き起こした。更には天保八年に大坂で起きた大塩平八郎の乱が、物価上昇に拍車を掛けた。
天保十二年十二月、忠邦は水戸徳川斉昭の意見を取り入れて、江戸の日用品を扱う株仲間である十組問屋を解散させた。
それまでも、忠邦は再三にわたって、諸価格の値下げを商人に命じていたが、商人たちが要請に耳を応じなかったためである。
幕府としても株仲間から入る冥加金には未練が残ったが、背に腹は代えられなかったのである。
(以下次回)
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