木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

黄身返し①

2006年06月29日 | 江戸の味
ちょっと固い話が続いたので、今回は柔らかい話。

先日、「大江戸奇術考」という本を読んだが、なかなか興味深かった。
元禄時代には初めての奇術書である「神仙戯術」が発刊された(1690年)が、現代でも行われている手品が既にこの頃から発明されていたという記述を読んでびっくりした。
寛保二年(1742年)には、「神仙秘事睫(まつげ)」が、安永八年(1779年)には、「天狗通」などの本が次々と発刊されいく。
この頃になると、現在、市販されている入門用手品セットに入っている内容はほとんど網羅されている。
コインマジックや、手の中で豆(現代ではスポンジかな)が増えたりする手品、カードもの、チャイニーズリングと呼ばれる鉄製の輪がつながったり、外れたりする手品などである。中には、箱抜けの大がかりな舞台マジックも紹介されており、原理的には今日のものと変わらない。
ただ玉石混合で、化け物を作る法などは、愛嬌である。

化け物を作る法・・・・二枚の銅貨に紐を通し、めがねのようにかける。そして、口にはツゲ櫛をくわえて、白い着物を頭からかぶって、奥座敷にじっと座っておく。
暗いところでは怖かったのだろうが、いくら当時の人だって、表題のおどろおどろしさと、子供だましな内容を読んで、にやっとしたに違いない。

さて、今回のテーマである、「黄身返し」。
原典は江戸中期に発行された「万宝珍書」である。
原文が、「大江戸奇術考」に載せられているので引用する。

なまたまこを、ぬかみそへ半ときつけておき、のちゆでるなり。かわをとりてもちゆべし、いれかはることめうなり

ある手順で普通の玉子を茹でると、白身が中で、黄身が外という驚くべき玉子ができあがるという。
この本の作者の泡坂氏は、この記述を読んでさっさく試したというが、

どきどきしながら殻を剥いたのだが、なんのことはない。ただ、少ししょっぱい茹で玉子ができあがっただけであった

と、がっかりしている。
氏の苦労はその後も記されている。
氏は仲間から、事前に玉子に細い釘をさしておかないとだめと言われて再挑戦するが、NG。
昔の玉子は有精卵だったから、こんなことができたと言われ、諦める。
その後、TV「伊藤家の食卓」で偶然この黄身返しをやっていたのを見て、またまたチャレンジしている。

私も、実際にチャレンジしてみることにした。
手順としては、画鋲などで玉子に穴を開け、適当に伸ばしたゼムクリップをその穴に差し込み、中身を攪拌する。
あとは普通に茹でるだけで、黄身返しができると言う。
下記写真がその経過である。
果たして、これで夢の黄身返しができたのでしょうか?

無理に引っ張るつもりはなかったのですが、レイアウト上、その結果は、次回のお楽しみってことで。

大江戸奇術考  泡坂妻夫 平凡社新書




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時刻のはなし①

2006年06月23日 | 武士道の話
江戸時代の時間は、現代人と感覚があまりに違うので、現代では、一刻(イットキ)=2時間という説明が一般的である。
これは単純に24時間を12で割ったからに過ぎない。
大体、小説でも、
六ツ(夕方6時頃)
などと括弧書きで説明が入れられている。

一覧にしてみると、

(現代)  (江戸時代)     
 0時・・・九ツ       
 2時・・・八ツ
 4時・・・七ツ
 6時・・・明六ツ ・・・日の出
 8時・・・五ツ
10時・・・四ツ
12時・・・九ツ
14時・・・八ツ
16時・・・七ツ
18時・・・暮六ツ ・・・日の入り
20時・・・五ツ
22時・・・四ツ

と、なる。

昼と夜がそれぞれ6つに分割されていた。
明六ツから、暮六ツが昼の部で、暮六ツから明六ツまでが夜の部。
深夜0時と正午12時を九ツとし、夜の部は九ツから始まって四ツへと逆に数えていく。
四ツの次はまた九ツにもどって、逆算していく。
一~三までは時刻に存在しなかった。
実にへんてこりんであるが、そう決まっていた以上、現代人がいまさら文句を言うわけにもいくまい。

この時間の特徴は日照時間によって、昼と夜の一刻の長さが変化していく点である。
現代だって、
「夜って何時から?」
と、聞かれたら、
「夏と冬では違うからなあ」
と、思う。
その感覚である。

ここで、東京の夏至と冬至の時間を見てみる。

夏至 昼14時間35分  夜  9時間25分
冬至 昼 9時間45分  夜 14時間15分

これをそれぞれ6で割ってみると、江戸時代の一刻と近似した時間が得られる。

夏至 昼2時間25分 夜1時間34分   
冬至 昼1時間38分 夜2時間23分   

実際には、江戸時代では下記のようになっていた。

夏至 昼2時間40分  夜1時間20分
冬至 昼1時間50分  夜2時間10分


夏と冬では昼間の一刻が50分も違う。
これによると、夏至は暮六ツが19時38分であるのに対し、冬至では17時7分になる。
同じ暮六ツでも、かなり違うと思いませんか?
暮六ツ=18時頃
という説明に無理があることがお分かり頂けたかと思います。

このややこしい不定時法であるが、江戸の人も多くの利点があったから採用していた。

第一にこの方法だと太陽の位置で大体の時間が分かる。
江戸の人はよほどでない限り時計など持っていなかったので、お日様の位置で時間が分かるのは大層便利だったのである。
時の鐘もあったし、分刻みのスケジュールを余儀なくされる現代人とは違うから、それで十分だったのである。
第二に、照明器具の乏しいこの時代は、太陽の明るさを利用しないと生活できなかった。日照時間により、昼間の長さを変化させることは非常に大事だったのである。
現代では24時間、昼間と変わらない光を持ち得たが、その代償として、24時間仕事をなし得る環境となってしまった。
どちらが、いいのだろうか・・・・。

大江戸生活体験事情 石川英輔・田中優子 講談社文庫
時代小説が書きたい  鈴木輝一郎 河出書房新書
江戸深川資料館 パンフレット
 

サムライ 真剣勝負②

2006年06月15日 | 武士道の話
前回の池波正太郎の曾祖母と全く同じことを言った人がいる。
渡辺誠氏は、著書の中で箱根の古老が伝聞した話を紹介している。
幕末。
伊庭の小天狗こと、心形刀流の伊庭八郎と小田原藩鏡信一刀流の高橋藤太郎の一騎打ち。

それは映画などで見るようなものとは、なかなかわけが違ったといいます。旧道の幅が二間(3.6m)から二間半あるその端と端に立って、こう向かい合って、気合ばかりでちっとも接近しない。汗びっしょりだ。それからチャリンと音がしたかと思ったら、伊庭八郎の手首が切り落とされていた。高橋のほうは首筋を斬られて即死だったそうです

二人とも当時、かなりの遣い手であったということであるが、その二人をもってしても、真剣勝負は、このようなものだった。
また、渡辺氏は、井伊直弼を襲撃した水戸浪士の蓮田市五郎の「憂国筆記」も引用している。

  刀を抜きてからは間合いも確かに知らず、眼はほのか暗くこころは夢中なり、試合稽古とは又一段格別なり。
 こう記しています。抜刀するや眼前が暗くなり夢でも見ているような心持ちになったかれは、味方の増田金八という者と知らずに戦っていたといいますが、この急撃ではいわゆる同士討で疵を負う者が甚だ多かったということです


いくら動転しているとはいえ、味方同士で戦うまで、我を失うとは、真剣を持っての斬り合いは、想像を絶するものだったに違いない。
池波正太郎の話も渡辺氏の話も時代が幕末近くになってからのもので、武士のDNAも戦国時代とは大きく変化しているのは事実であろう。
集団闘争と1対1では、精神状態も全然違うのだろう。
飛び道具とは違い、相手の肉体に触れ得れば相手を即死させる殺傷能力を持ちながら、相手の息を感じるほどに接近し、刀と刀を接触させて戦う日本刀という武器の独自性がこれほどまでの緊張感を生むのかも知れない。

江戸時代ともなると真剣勝負の当事者となった武士というのはごく少数だったに違いない。
幕末百話は、辻斬りが趣味だった武士の話で始まっているが、実際に人を斬ったことのある武士は少なく、切捨て御免などということは、長い江戸時代でもほとんど実例がなかったそうである。

田沼意次が没落する原因となった実子意知が佐野善左衛門に城内で殺害されたのは、天明四年(1784年)。
江戸中期のことである。
意知は、同僚3人の後から、桔梗の間に入ったが、そこで佐野善左衛門に襲撃されている。
驚いた同僚は腰も抜けんばかりにほうほうの体で、その場を逃げ出した。
大勢の者が桔梗の間に駆けつけたが、みな呆然と立ち尽くすばかりであった。
善左衛門は這って逃げようとする意知を更に二度ほど突き刺した。
やがて、大目付の松平対馬守忠郷が駆けつけ、善左衛門を羽交い絞めにした。
対馬守は70歳の高齢であった。
この件により、善左衛門はもちろん切腹、対馬守は二百石の加増、その場に居合わせながら止められなかったものは、多くが厳しく処罰されている。
武士といっても、刃物を持った者は怖かった。
この事件を見る限り、武士もさほど現代人の感覚と変わらないような気がする。

刀と真剣勝負  渡辺誠   KKベストセラーズ
田沼の改革   関根徳男 郁朋社

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サムライ 真剣勝負①

2006年06月13日 | 武士道の話
水戸黄門では、8時40分くらいになると、角さん、助さんが敵?をバッタバッタと斬り倒している。
あれだけの敵を相手にしては、峰打ちも難しそうだし、一体彼らは一週間に何人殺すのだろう?
しかも、相手は、「それ行け!」と悪代官に命令されただけの罪のない侍たちである。

時代劇のチャンバラが架空であるということはよく言われている。
日本刀では、そんなに何人も斬れないとか、日本刀の性能面から見て言われる。

ハードはともかく、江戸時代の武士の意識はどうだったのだろう?

第二次世界大戦中、日本軍の精神的スローガンにされてしまった「葉隠」の冒頭の一説、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
は、あまりにも有名だ。
「葉隠」は江戸中期(享保元年頃)、肥前佐賀藩士山本常朝が著した書である。
この一説を読み、
「やはり、武士というのは主君や、理あるところには命をなげうって殉職も厭わない人たちだったのだろう」
と思うのは早計かも知れない。
戦国時代や乱世の余韻の治まりきらなかった江戸初期はともかく、江戸時代も中期以降になってくると、泰平の空気が武士にも伝わり、武士は戦闘員としての性格を弱めていく。
さきほどの「葉隠」の中にも、敵に向かったとき、目の前がまっくらになるが、少し心をしずめるとおぼろ月夜くらいの明るさをとりもどす、
ということを述べている箇所がある。

池波正太郎も、自著の中で曾祖母から聞いた話をユーモアを交えて紹介している。

時代劇の剣戟シーンになると、
「ちがう。ちがう」
つぶやきながら、しきりにくびを振った。
「塚原朴伝のような名人ならともかく、ふつうの侍の切り合いは、あんなものじゃない。よくおぼえておおき」
曾祖母は、松平家に奉公をしていたとき、実際に、侍の切り合いを見ている。
維新戦争で、上野の山に彰義隊がたてこもり、新政府軍がこれを攻めたとき、
「私たちは、みんな長刀を掻い込み、鉢巻をしめて、殿さまをおまもりしたのだよ」
と、曾祖母は、カビが生えた梅干みたいな顔に血をのぼらせて、
「そのとき、彰義隊が一人、御屋敷の御庭に逃げ込んで来た。官軍が一人、これを追いかけて来てね、御庭の築山のところで、一騎打ちがはじまった」
それを、目撃したのである。
二人は刀を構え、長い間、睨みあったまま、動かなくなってしまったという。
それは気が遠くなるほどに長い、長い時間だったそうな。
そのうちに、二人が、ちょっと動いたとおもったら、官軍のほうが、
「大きな口を開けたかとおもったら・・・・」
うつぶせに倒れてしまった。
曾祖母のはなし半分にしても、おそらく、
そんなものだったろう。


以下②へ・・・

葉隠 教育社   松永義弘訳
江戸切絵図散歩 池波正太郎 新潮社

手裏剣

2006年06月12日 | 江戸の武器
先日、「RED SHADOW 赤影」というDVDを借りて来た。
「仮面の忍者 赤影」のリメイク版である。
30分もしないうちに、観るのをやめてしまった。
時代劇コメディという内容も内容だが、あまりの時代考証のめちゃくちゃさに、これでは忍者も浮かばれないだろう、と思ったのである。
とはいえ、忍者に確たる時代考証があるわけではない。
陰の者の使う忍術は当然秘伝であり、詳細については残されていない部分がほとんどだ。
だが、手裏剣については、後世に術が伝え残されている。
手裏剣は、武士にも奨励されていた時期があったからだ。
しかし、手裏剣と武士はイメージが結びつかない。

徳川幕府では、攻撃力の強い手裏剣を邪道と位置づけ疎んじ、一般には禁じていた。
それが江戸も末期になり、政治状況も混沌としてきた中、手裏剣に注目する藩も現れてきた。
代表が御三家のひとつ水戸藩で、九代藩主水戸斉昭が息女を仙台藩主に嫁がせたことから、東北地方に伝承されていた願立流手裏剣術が水戸藩内に知られることとなる。
その系統から根岸流をうち立てた根岸松齢という人物が出現する。
それ以前にも天真白井流剣術の流祖、白井亨義謙による白井流があり、その他にも明府真影流が伝えられている。
話は少しそれるが、最後の徳川家将軍となった慶喜は、手裏剣の名手として名高く、慶喜が実際に使用されたと言われる手裏剣も現存している。

一般に手裏剣というと、星形をした車剣(四方手裏剣)を思い浮かべる人が多いと思うが、実際は棒手裏剣と呼ばれる棒型のものがよく使われた。
まず、車剣であるが、投げると、うなりを上げて飛ぶので、敵を心理的に威嚇する効果が大きかった。
刃の形状にかえしを入れることにより、殺傷力をアップすることもできた。
大きさは15cm、重さ200gくらいのものが多く、実際に見てみると、意外なほど大きく感じるし、実際の重量もかなり重い。
この形状は空気抵抗も大きく、軽すぎると目標への的中率が落ちるためである。

車剣には、欠点もある。
一枚の鋼にたくさんの刃を付けるという加工は高度な技術で量産できなかったし、コスト面でも高くついた。
また、刃がたくさんついているため、投げるときに自分の手を切ってしまう可能性があった。重いので携帯に不向きでもある。
機動力が命の忍者にとって、携帯に向かない武器は致命的だ。
だから、忍者は少量の車剣と、携帯に便利な棒手裏剣を併用していたと思われる。

棒手裏剣は、長さが12~18cm、重さは60gくらいのものが多かった。
空気抵抗の少ない棒手裏剣は、車剣よりずっと軽量であったので、携帯に適した。
(ちなみにダーツの矢は25gくらいであるから、それよりはずっと重い)
丸い鉛筆状のものが多かったが、四角や三角のものもあった。
投げ型は、車剣も棒手裏剣も基本的には、野球で言うオーバーハンド。
正面に振りかぶって、投げおろす格好だ。
棒手裏剣は、連続して投げることも比較的容易で、流派によってはフェイントをかけながら投げる型もあった。
二本、三本の手裏剣を同時に投げることもできた。
熟練者は複数の手裏剣を同じ所に刺すこともできたし、持ち方を変え複数の敵を一度に倒すこともできた。
手裏剣は、元来、鎧兜に身を包んだ武者の唯一の弱点である目を狙うことを主眼としたのであるが、状況いかんでは、遠隔地の敵に対し、弓矢以上に効力を発揮したという。


剣技・剣術二 牧秀彦 新紀元社
手裏剣普及協会公式サイト

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湯屋のはなし②

2006年06月05日 | 江戸の風俗
前回の続き。

篠田鉱造という人がいる。
1871年(明治4年)、廃藩置県が行われた年の生まれである。
記者として報知新聞に勤務のかたわら、「幕末百話」、「明治百話」、「幕末明治女百話」の3部作を表した。
どれも見聞した話を肩の凝らないエッセイ風に記述したもので、当世の貴重な記録となっている。
その中の「明治百話」の中に湯屋についての面白い記述があるので引用したい。

男女混浴は勿論やかましかったものですが、ズット以前、明治初年までは、男女の風呂が、湯板一枚で仕切ってあったといいます。で男湯から女湯へ潜ってきたなんとかという悪戯が行われて、後はその間に間隔ができてどうにもならなくなったといいます。(中略)陸湯(おかゆ)即ちあがり湯といって、湯から上がる時、拭くまえまたは体をながすための湯が、三尺四方に仕切った、底のある三尺くらいのたまりへ、湯が一杯あります。ソノ陸湯は男女兼用ですから、両方から桶を突っ込んで、小桶の鉢合はしょっちゅうで、ソコで知った同士
「オイ春さんじゃァないの」
「オオ秋さんか、おめかしだね」
「冗談いっちゃあいやよ、今来たばかりさ」
板仕切から覗き上げて、
「ばァ」
「アラいやだ」
「このごろは太ったね」
「食べ物がいいからサ」
「ひじきに油揚げか。乳首が黒ずんだね」
「よしておくれッ」


と、こんな会話を同じ町内会の男女の間で交わされている。
しかも、若い男女の間においてである。
そこで、前回の私の疑問(若い男女が混浴で恥ずかしくなかったのか?)である。
長屋では隣のおならの音が聞こえたという。そんなプライバシーというものがない江戸時代においては、個人の裸というもの関しても、今とは比較にならない感覚のズレがあったものと思われる。
年頃の娘とは言え、浴槽では暗いし、少しくらい見られたって、大丈夫、という感覚だったのではないだろうか?
このような状況を目にした外国人はどのような感想を持ったのであろうか?
日米和親条約のために来日したアメリカ人ペリーは概ね日本人に対しては好意的だが、混浴にはおおいに困惑している。
裸体をも頓着せずに男女混浴をしているある公衆浴場の光景は、住民の道徳に関して、おおいに好意ある見解を抱き得るような印象をアメリカ人に与えるとは思われなかった「日本遠征記」

その様子は伊豆下田の湯屋として一葉の写真が残されている。

さきほどの「明治百話」、男性風呂の描写も面白いので、再び引用したい。

じゃくろ口(洗い場と浴槽を仕切る板)があるため、風呂の中は薄暗がりで、湯気もうもう誰が誰だか分からない。だから義太夫でも清元でも、都々逸、トリリトン、下手くそでも唄って、顔を見られない。(中略)女湯は外が賑やかで、風呂の中が静かなもの、男湯は外が静かで、風呂の中が大賑わい習い立ての三勝半七や、歯の浮く嵯峨やお室の花盛りだからたまりません。(中略)賑やかなのを通り越して騒々しかった。(中略)その筋のお達しで、不潔なのと騒々しいのとで、取り払いとなったら最初は変でした。あんまりアケスコで寒いような間の抜けたような、裸同志がつかっていると、キマリの悪いといった風でした。恐慌したのは下手糞太夫で、開放しでは声上げて唄えなくなったものです

とあります。
こうして見ると、江戸時代の人が夜でも電気が煌々とついた現代の銭湯に入れと言われたら、とまどうかも知れない。



追記 インターネットでHPを調べていたら、東京都浴場組合で、銭湯の壁紙(富士山とか山中湖だとかが描かれているやつです)が売っていた。欲しい!
http://www.1010.or.jp/fix/wall/index.html

篠田鉱造 「明治百話(上)」 岩波文庫
http://www.1010.or.jp/main/index.shtml 東京都浴場組合

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