木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

白菜の花~白菜は浮気者

2012年07月28日 | 江戸の味
江戸時代、白菜は日本に伝わっていなかった、というのが通説である。
日清戦争、日露戦争により中国大陸に渡った兵士が見たことのない美味な野菜に接し、その種を持ち帰った。これが、白菜のルーツとされてきた。
手元の「野菜づくり大図鑑」(講談社)を見ても、「白菜が日本に伝わったのは明治8年である」と記されている。

江戸以前、白菜が日本で作られていなかったのは、とても不思議だと常々思っていた。
ヨーロッパ原産のキャベツですら宝栄・正徳年間(1704~1715年)には日本に伝えられていた。
中国の野菜であり、いかにも日本人好みの白菜がなぜ明治になるまで日本に定着しなかったのだろうか。
このヒントは菜の花にそっくりな白菜の花にある。

白菜は、同じアブラナ科のカブとチンゲンサイが交配してできた「牛肝菜」と呼ばれている野菜が先祖である。
キャベツもレタスも同じであるが、自然の白菜は非結球であった。牛肝菜も結球していない。
その後、品種改良が繰り返され、現在の結球した白菜が生まれる。

半結球の白菜は秀吉が朝鮮侵略の際に、日本に連れてきた陶工たちが持参して来たとも言われている。
白菜の仲間である広島菜や大阪白菜とも呼ばれるシロナが江戸時代から作られてきた事実も、この説を裏付ける。
ではなぜ本家の白菜は消えてしまったのだろう。

話は戻って、白菜が日本に伝えられたのは明治8年との記述を紹介した。
この明治8年というのは東京の博覧会に3株の山東白菜(結球白菜)が展示された年である。
そのうちの2株を愛知県栽培所が払い受け、栽培を続けた。
しかし、種を採って栽培しても結球せず、偶然のように結球したのは20年後の明治27、8年だと言う。
この結球白菜は、相当珍しかったらしく天皇陛下にも献上された。
当時は高価な中国産の種子が使われており、日本産の種子による結球白菜が栽培されるようになったのは、大正時代になってからであった。

日清、日露戦争帰りの兵士が蒔いた種によっても、結球白菜を育てることができたが、更にその白菜から種を採って蒔くと、結球しない。
当時、どこでも見られた菜の花、あるいはカブ、小松菜は白菜の親戚であるが、白菜が簡単にそれらの種と交配してしまうのが原因だった。
浮気者の白菜はすぐ他のアブラナ科の野菜と子を作ってしまったのである。
純粋な白菜は一代で姿を消し、二代目からはハーフになってしまう。
つまり、白菜は代を重ねるごとに日本に古くから伝わっていた野菜に変化していって、白菜ではなくなっていったのだ。
柔軟な適応能力と見るべきか、優柔不断ゆえの没個性と見るべきか。

結論としては、白菜は江戸時代以前にも日本には伝わっていたが、栽培できなかったというのが事実であろう。

余談になるが、現代農業で使われている種子は一代限りのもので、育った野菜から種を採って撒いても、二代目はうまく育たない。
いわば、ダビング防止加工が為されたCDのようなものだ。
農家が種子を買ってくれなければ種苗会社は経営が成り立たなくなるから当然なのかも知れないが、子孫を繁栄させられない種を作り出すというのは、自然の摂理からすると、異常には違いない。

参考:野菜学入門(相馬暁)三一書房



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吐瀉物を食べた山岡鉄舟~鉄舟流鍛錬方法

2012年07月19日 | 江戸の人物
今日、7月19日は山岡鉄舟が没した日。明治21年のことで、享年53歳。

山岡鉄舟は剣豪として名高いが、手元にある高校の教科書には名前が載っていない。
「鉄舟は何をした人?」と、改まって聞かれると、結構分からない人が多いのではないだろうか。
江戸城開城の際に、勝海舟の代理として駿府に滞在していた西郷隆盛のもとに赴き、交渉を成功させた。この件が歴史的には一番有名だが、そんな史実は鉄舟の人となりを語らない。

鉄舟を調べていくと、かなりの変人だという印象を強く持つ。
言い方を変えれば、自分が追い求める真実・真理追求のためには、誰が何と言おうと決して道を譲らない頑固者。偏屈と言ってもよい。
生活そのものが求道であり、生きるとは真理を見極めることに他ならなかった。
鉄舟を人は剣豪と呼ぶが、彼にとって剣も道を極めるための手段であったし、禅にしても同じだった。
このような表現をすると、鉄舟は山にこもって仙人のような生活をしていたかのように思われるかも知れないが、そうではない。

「最後のサムライ 山岡鉄舟」から鉄舟夫人・英(ふさ)の話を引用する。

二十四、五歳の頃から盛んに、飲む、買うというようになりました。もっとも一人の女に入れ揚げるというのではなく、なんでも日本中の商売女をなで斬りにするのだと同輩の者には語っていたようです

心配した親族が離縁するよう夫人に迫ると、鉄舟は「うるさい身内など、没交渉のほうが、面倒がなくてよい」と語ったので、怒った親族とは絶交となったと言う。
ストイックな印象の強い鉄舟だが、この行為は「まことに情欲を断ちたいと思うなら、今よりも更に進んで情欲の海に飛び込み、懸命に努力してその正体を見極めるしかない」という鉄舟の徹底した姿勢から出たものだった。
調子のいい話だと思った人もいるのではないだろうか。
その人たちには、次の強烈なエピソードを紹介したい。

無刀流を開いた明治十三年以降、鉄舟は毎年三月三十日に無礼講の宴会を開くのを常としていた。
ある年、一人の門人が鉄舟の前に手をついて何かを言おうとした瞬間、吐瀉してしまった。
鉄舟は、何を思ったか、門人が戻した汚物を片っ端から食べて、跡形もなくした。
これは、鉄舟の考える浄穢不二、つまり清いものと汚いものの区別を超越するための鍛錬だった。
弟子が「それにしても、体に毒でございましょう」と鉄舟の身を気遣うと、「畳の上の水連では役に立たない」と笑ったと言う。

このような徹底した鉄舟の態度をみると、先の色情を絶つために情欲の渦に飛び込む、という行為も鉄舟流の鍛錬に違いなかったことが分かる。
もうひとつ面白いエピソードがある。
酒席で夜中まで飲んでいると、健脚を誇る者がいる。成田山までの往復百四十キロを誰か、明日一緒に歩かないか、と豪語した。
酒席のことだから、流せばいいものを、鉄舟は「それがしが同行いたす」と受ける。それが今で言う午前一時。出発は四時。当然、言いだしっぺは起きることは起きたが、歩けもしない。
それでも、約束は約束、と鉄舟は一人で成田山まで歩き、その日の深夜にすり減った下駄の歯と共に帰って来た。

鉄舟は身の丈六尺(180cm)。頭脳も優秀で、体力にも恵まれていた。親の死に別れにより、若い頃は金銭的には恵まれていなかったが、自己を肯定する気持ちはかなり強かったに違いない。
成田山の話にしても、笑って済ませばいいのに、信念があったのだろうが、非常に頑固で融通の利かない行為である。
買色の話にしても、夫人にも周囲にも何一つ説明がないし、文句を言う親族は邪魔とばかりに切り捨てる。
吐瀉物の話にしても、思いつきの域を出ない。
それでも、私は鉄舟の行為には憧れに似た気持ちを抱く。

人は行為によって地位を得る。
地位によって、己を証明したいと願う。

「優秀だから、出世した。だから俺は偉い」
「私は努力した。その結果、マラソンでこれだけ速い記録を残せた。だから、わたしは凄い」

鉄舟は全く逆で、自分自身が満足できる境地に辿り着ければ、名誉も金もいらなかった。
そんな鉄舟の周りには自然と人が集まってきたし、地位も得た。
時代がよかった、と片づけてしまうのは簡単だが、精神の綺麗さ、潔さというものを思わずにはいられない。
鉄舟は頑固で無骨者であったが、驚くほど素直な性格の持ち主だった。周囲の人間も、時には鉄舟の言動に振り回されながらも、彼の魅力に惹きつけられたのだろう。

華族にするとの知らせを聞いたときに詠んだ句が鉄舟らしい。

「食ふてねて 働きもせぬ御褒美に 蚊(華)族となりて 又も血を吸ふ」



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清水の次郎長とSONY

2012年07月14日 | 江戸の人物
マックスバリュ清水三保店は、「清水の歴史」という小冊子を作って無料配布している。手作りながら、レイアウトの綺麗な非常によくできた小冊子である。
当然、地元の名士である清水の次郎長にも触れている。

もしも次郎長が単なるゴロツキの集まりの大将であったなら、天下の大親分なんて決して言われなかったであろう。(略)
次郎長の前半生を「義理の人」とするならば後半生はまさに「人情の人」と言えよう。(略)
人情もろくて義理がたい。おっちょこちょいだがノンビリ屋。言葉は汚いが、気持ちはきれい。ちょびちょびおせっかいをやきたがる。


任侠の世界にどっぷりと浸かっていた次郎長はまさしく、斬った張ったの世界の住人で、江戸時代が平和のまま続いていたなら、決して陽の当たる道を歩けない人物だった。
幕末の混乱は、次郎長に味方した。新政府(いわゆる官軍)の要人にしたところで、暗殺やテロの経験者だったから、殺人や殺人ほう助犯であっても、任侠の世界での罪は混乱に乗じて帳消しになった。
もうひとつ幸いしただったのは、次郎長が助けたのが新政府ではなく、旧幕軍であったことだ。
次郎長が幕軍に付いたのは、駿府という土地柄もあるのだろうが、その選択が正解だったのは、次郎長のライバル、黒駒勝蔵の命運を見れば分かる。

勝蔵は甲州に縄張りを持つ親分。
清水の次郎長と甲州の黒駒勝蔵との抗争の背後には、清水港から甲州に運ばれる「甲州行塩」問題があった。
清水港に上がった塩を清水の商人はなんだかんだと値を上げ、甲州の商人に高値で売っていた歴史がある。
また米は逆で、甲州から清水に運ばれたが、ここでも荷役等をどう分割するかで問題が起こっていた。
このことから、自然に清水と甲州は、ライバル関係にあった。

次郎長と勝蔵は血で血を洗う抗争を繰り広げて行くのだが、時代は江戸時代から明治時代に移行しようとしていた。
この時期、勝蔵は赤報隊に入隊する。
勝蔵が官軍サイドの赤報隊に入ったのは、勝蔵が幕軍と敵対する仲であったからだ。
新島を島抜けした博徒の親分「ども安」こと武居の安次郎を勝蔵が匿っていたことがあり、勝蔵は幕府から「指名手配」される身であった。
ども安は勝蔵の親分であったが、島抜けという大罪を犯したども安も捕えられ、幕府の手によって処罰される。勝蔵は、これ以来、幕府には反感を持ち、官軍寄りの赤報隊に入った。
赤報隊は、政府にいいように使われ、邪魔となったらポイと捨てられている。
勝蔵は赤報隊沈没時の渦からは身をかわし、その後、官軍の徴兵七番隊に池田数馬の偽名で入隊する。
錦の御旗を振って駒を進めている頃はよかったが、勝蔵は明治四年十月に突然、処刑されている。
詳細な理由は分からないが、赤報隊と同じく、「邪魔になったら、即切り離す」方針はいかにも新政府らしいやり方である。
一方の次郎長は咸臨丸の件から、ぐっと幕軍に近い存在となったが、これまた幸いなことに、駿府は山岡鉄舟、関口隆吉、松岡萬など幕府の関係者が政治の中心に就いた。

「清水の歴史」によると、次郎長は、

有度山(静岡市)の開発、三保(清水市)の新田開拓、巴川(清水市)の架橋などの地元事業のほかに、遠州相良(榛原郡相良町)で油田の発掘事業にも携わったり、鉄舟の勧めで富士の裾野(現富士市大淵次郎長町あたり)の開墾に着手。

とある。

土建事業は今も昔も旨味の多い商売である。利権を政府から正式に与えられていた次郎長は、もはやアウトローに身をやつす必要など何もない。
若い頃は武力を以て商売敵を蹴散らす必要があったが、政府からのお墨付きがあるからには、好々爺を演じていればよかったし、倣いが本当の性格になっていったのかも知れない。
次郎長が偉人であったとか、善人であったなどという話にはどうにも疑問符を付けざるを得ないが、清水の大物実業家であり、実力者であったのは間違いない。

明治八年二月、清水に「中泉現金店」が開業した。この店は知多半田港で醸造業を営む中埜又左衛門と盛田久左衛門が共同で販路を広げるために作られた。この際には、清水の有力店「松本屋」に対してM&Aが行われたが、この話を纏めたのが、次郎長である。次郎長は面倒な交渉事もおこないうる実力を有するようになっていたのである。
ちなみに、この盛田家からは後にSONYを興す盛田昭夫が出る。

あまりに理不尽な勝蔵の最期と、成功した次郎長の晩年を思うと、運命の不思議さを感じる。
次郎長の成功は、人脈に恵まれた点が大きい。
大政、小政、相撲常吉など多数の個性豊かな子分。
鉄舟など旧幕軍の支持。
次郎長の運は強かったに違いないが、人脈を捉えて離さない人間的な魅力が次郎長にあったのだろう。

鉄舟に「これからは理学が必要だ」と言われた次郎長は急いで本屋に飛び込み、「理学の本を見せてくれ」と頼んだ。すると主人は山のように本を並べ出した。文盲の次郎長は「とてもこんなに多くては駄目だ」とほうほうのていで逃げ出したという。
次郎長にはこの手の話が多い。
もしかすると、次郎長の演出ではないか、と思えるが、なんとも人間臭い話だ。
「実業家」になっても次郎長は任侠時代の暗い影を忘れていなかったし、ふんぞり返っていた訳でもないように思える。
こういった次郎長の性格に運が味方したのも知れない。



次郎長の子分、小政の写真。冷血な殺人マシンだっと伝えられる。次郎長が「実業家」に転身してからも素行が改まらず、浜松で獄中死している。



大政の写真。尾張出身。身体が大きく、槍の遣い手。次郎長一家で一番のインテリだったとされる。

梅?寺HP

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戦友? 松任谷由美

2012年07月10日 | ポップマニア
私が学生時代、西武系のスキー場に行くと、お約束のようにかかっていたのが松任谷由美だった。
彼女のファンは怒るかも知れないが、私はユーミンが大嫌いで、西武系のスキー場(特に苗場)に行くのは意識的に避けていた。
とにかく歌が下手で、高音部ともなると、思わずこちらが穴に入りたい気持ちになった。

その松任谷由美の歌を久しぶりに聞いた。
久しぶりに聞いても、松任谷由美は、相変わらず歌が下手だった。

それでも、昔ほど悪い感情は抱かなかった。
もともと、ユーミンの作詞の才能というのは凄いと思っていた。
シンガーソングプレーヤーとしての才能には疑問符が三つも四つも付いたのであるが。

当時は中島みゆきと比較されることが多かったが、今となっては後世に残る歌、と言う点では中島みゆきに軍配が上がるのだろうか。
死ぬまでヒット作を書き続ける小説家は少なくないが、死ぬまでヒット作を飛ばす歌手は稀である。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった、松任谷由美の昨今の活動振りを見るにつけ、なんとなく戦友にも近い感情を抱いてしまう。

どんな急斜面も向こう見ずな気持ちだけで飛び跳ねていたあの頃。
怪我をしたって、その時はその時と思っていた。
決して勇気がある感情ではなくて、ただ向こう見ずだっただけ。
明日、仕事があると分かっていても暴飲していたあの頃。

今ではそんな行為はしない。
多分、進化したのだろう。
でも、もしかしたた老化したのかも知れない。
永遠のロッカーでありたいと思っているのだが。

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次郎長の身長と幕末史実

2012年07月07日 | 江戸の話
清水の次郎長こと山本長五郎は、幕末から明治に掛けて名高かった任侠の人である。その次郎長に関して、次のような記述がある。

生来の大男で腕力が人一倍強く、相撲をとっても誰にも負けたことのなかった長五郎は、押し入った四人組の盗賊に臆することもなく、刀を振り回して立ち向かった。
東海遊侠伝


次郎長は色は赤黒で、髪は柔らかいせいかそれ程の白さでもなく、少しザンギリ頭で、見上げるような大男で、手は団扇のように大きく、そしてささくれていた。
細田美三郎氏の回想談
(引用はいずれも、「梅蔭寺 清水次郎長伝」より)


清水の次郎長は大男というのが通説となっている。
ではどれくらいだったかというと、「我れ生じて二十三歳、六尺男子なり」の表現が東海遊侠伝で具体的に述べられている箇所があり、180cmと分かる。

現在、清水市には次郎長の生家と、次郎長が経営していた船宿「末廣」を再現した施設がある。
末廣に入ると、すぐ右手に次郎長の実物大のフィギュアが置いてある。そのフィギュアは、ずいぶん小さく見える。
説明を見ると、「次郎長の身長は五尺二寸だった」とあるから、156cmである。当時としては平均身長だったのかも知れないが、少なくとも大男とは呼べない。
生家のほうにも、次郎長の身長に関する説明があり、同じように五尺二寸とある。
末廣に電話をしてなぜ、このような食い違いが起こったか聞いてみると、「浪曲として興業された際、大男のほうが親分として受けがよかったのだろう」という説明だった。これは十分に考えられる話で、また、東海遊侠伝を表したのは次郎長の義理の息子である天田五郎であるから、身贔屓もあって確信犯的に脚色を加えたのであろう。

次郎長は山岡鉄舟とも深い親交を結んでいたが、ふたりの出会いについてもはっきりとは分からない。

①勝・西郷会談の下地交渉の使者として駿府に向かった鉄舟を次郎長が護衛したことから始まる。
《慶応四年(1868年)3月》「図説・幕末志士199」

②東海道を急ぎ西上、駿府を目指す鉄舟が由比の望嶽亭主松永氏、興津水口屋の縁から次郎長に道案内を依頼したという伝承は十分肯ける。
《慶応四年3月》「清水次郎長」

③(清水港の)死体を、駿府藩は官軍の目を気にして放置していたのであるが、「死んで仏になれば、官軍も賊軍もない」ということで次郎長が子分に埋葬させたところ、駿府藩の取り調べを受けるに及び、次郎長は鉄舟と出会うことになる。
《慶応四年10月》「山岡鉄舟」


④次郎長と会った松岡(松岡萬・新番組隊長並)は、その人物に心服し、山岡鉄舟が駿府に着任するのを待って次郎長を紹介した。明治元年(1868年)も終わりに近い頃だった。
「梅蔭寺 清水次郎長伝」


①②の説は有名であるが、鉄舟は薩摩の益満休之助とともに駿府に向かい、「益満を前に出してわたしは後ろに従い、薩州藩と名乗って急ぐに、全く阻む者はいなかった」と自ら語っているし、信憑性は薄いように思う。個人的な考えだけ述べるには④の説が事実だと考える。

だが、身長などという数値化できることすら、すり替えられてしまうのが歴史だとすれば、本当のことなど、後になってしまえば、どうにも変えられるというのが、一番の真実なのかも知れない。

田沼意次が松平定信の喧伝によって、一点の曇りもない悪人に仕立て上げられ、昭和も第二次大戦後まで、意次=悪人説が信じられて来たのは、恐るべき情報操作である。
現在伝えられている幕末の史実というのも、多くが勝者である西軍(官軍というべきか)の都合の良い説には違いない。

参考資料
梅蔭寺 清水次郎長伝(田口英爾) みずうみ書房
清水次郎長(高橋敏)岩波新書
山岡鉄舟 教育評論社
図説・幕末志士199 学研


清水次郎長


次郎長の生家

末 廣

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加賀百万石って幾ら?

2012年07月01日 | 江戸の話
先日、能登半島を旅行していて、同僚に「加賀百万石って今の金額にしたらどの位かな」と聞かれた。
ここで滔々と歴史談義を始めてしまう人間は嫌われる。
答だけを言うと、「350億円位」となる。

歴史にあまり興味がない人はそれで満足なのだろうが、このブログでは理由を「滔々と」述べたいと思う。

まず、100万石であるが、1石=150kgであるから、15万トンとなる。
つまり金沢藩の領地内では米の年間生産量が15万トンあった、ということだ。

江戸時代の通貨を現在の価格にして幾らか、というのは何を基準にするかによって全く異なってしまう。
ただ、加賀百万石の場合は米の話をしているのだから、現在の米価と連動するのがいいと思われる。

最近の日本国内の米の収穫高は約850万トン。
生産者市場規模は1兆7950億円。
このことから単純に計算すると、米価は211円/kg。
だが、この単価は加工米等が含まれている。
主食用米価としては、平成22年で234円という数字が出ている。
この234円を石川県の生産量に掛けると目安の金額が出る。
現在の石川県の生産量は約14万トンで、江戸の数値と近似しているため比較しやすい。

14万トン×234円/kg≒328億円

江戸時代の15万トンを掛けると、約351億円。

金沢藩の取り分は、まるまる百万石ではなかったなどという話は次に回すとして、加賀の米の生産量を現代価格に換算すると、冒頭の350億円という数字が出る。

さらに、余談になるが、1石を10万円と換算する、との表現を時折見受けるが、この場合だと、666円/kgの計算となる。
あるいは、幕末期、100石が20両くらいだった、との記述がある(幕末の水戸藩:山川菊栄)。この場合は、1両(あるいは、1文)を幾らと計算するかでかなり変わってくる。

100石=15,000kg
20両=80,000文

であるから、1kg5.3文。

仮に1文を30円とする(かけ蕎麦16文=500円説)と、米の価格は159円/kg。

加賀100万石を計算するときに1石10万円を採ると、666億円。
1文30円を採ると、239億円。

どれが正しいのかなど正解はないのかも知れないが、自分には350億円説がしっくり来る。




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