江戸時代、白菜は日本に伝わっていなかった、というのが通説である。
日清戦争、日露戦争により中国大陸に渡った兵士が見たことのない美味な野菜に接し、その種を持ち帰った。これが、白菜のルーツとされてきた。
手元の「野菜づくり大図鑑」(講談社)を見ても、「白菜が日本に伝わったのは明治8年である」と記されている。
江戸以前、白菜が日本で作られていなかったのは、とても不思議だと常々思っていた。
ヨーロッパ原産のキャベツですら宝栄・正徳年間(1704~1715年)には日本に伝えられていた。
中国の野菜であり、いかにも日本人好みの白菜がなぜ明治になるまで日本に定着しなかったのだろうか。
このヒントは菜の花にそっくりな白菜の花にある。
白菜は、同じアブラナ科のカブとチンゲンサイが交配してできた「牛肝菜」と呼ばれている野菜が先祖である。
キャベツもレタスも同じであるが、自然の白菜は非結球であった。牛肝菜も結球していない。
その後、品種改良が繰り返され、現在の結球した白菜が生まれる。
半結球の白菜は秀吉が朝鮮侵略の際に、日本に連れてきた陶工たちが持参して来たとも言われている。
白菜の仲間である広島菜や大阪白菜とも呼ばれるシロナが江戸時代から作られてきた事実も、この説を裏付ける。
ではなぜ本家の白菜は消えてしまったのだろう。
話は戻って、白菜が日本に伝えられたのは明治8年との記述を紹介した。
この明治8年というのは東京の博覧会に3株の山東白菜(結球白菜)が展示された年である。
そのうちの2株を愛知県栽培所が払い受け、栽培を続けた。
しかし、種を採って栽培しても結球せず、偶然のように結球したのは20年後の明治27、8年だと言う。
この結球白菜は、相当珍しかったらしく天皇陛下にも献上された。
当時は高価な中国産の種子が使われており、日本産の種子による結球白菜が栽培されるようになったのは、大正時代になってからであった。
日清、日露戦争帰りの兵士が蒔いた種によっても、結球白菜を育てることができたが、更にその白菜から種を採って蒔くと、結球しない。
当時、どこでも見られた菜の花、あるいはカブ、小松菜は白菜の親戚であるが、白菜が簡単にそれらの種と交配してしまうのが原因だった。
浮気者の白菜はすぐ他のアブラナ科の野菜と子を作ってしまったのである。
純粋な白菜は一代で姿を消し、二代目からはハーフになってしまう。
つまり、白菜は代を重ねるごとに日本に古くから伝わっていた野菜に変化していって、白菜ではなくなっていったのだ。
柔軟な適応能力と見るべきか、優柔不断ゆえの没個性と見るべきか。
結論としては、白菜は江戸時代以前にも日本には伝わっていたが、栽培できなかったというのが事実であろう。
余談になるが、現代農業で使われている種子は一代限りのもので、育った野菜から種を採って撒いても、二代目はうまく育たない。
いわば、ダビング防止加工が為されたCDのようなものだ。
農家が種子を買ってくれなければ種苗会社は経営が成り立たなくなるから当然なのかも知れないが、子孫を繁栄させられない種を作り出すというのは、自然の摂理からすると、異常には違いない。
参考:野菜学入門(相馬暁)三一書房
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日清戦争、日露戦争により中国大陸に渡った兵士が見たことのない美味な野菜に接し、その種を持ち帰った。これが、白菜のルーツとされてきた。
手元の「野菜づくり大図鑑」(講談社)を見ても、「白菜が日本に伝わったのは明治8年である」と記されている。
江戸以前、白菜が日本で作られていなかったのは、とても不思議だと常々思っていた。
ヨーロッパ原産のキャベツですら宝栄・正徳年間(1704~1715年)には日本に伝えられていた。
中国の野菜であり、いかにも日本人好みの白菜がなぜ明治になるまで日本に定着しなかったのだろうか。
このヒントは菜の花にそっくりな白菜の花にある。
白菜は、同じアブラナ科のカブとチンゲンサイが交配してできた「牛肝菜」と呼ばれている野菜が先祖である。
キャベツもレタスも同じであるが、自然の白菜は非結球であった。牛肝菜も結球していない。
その後、品種改良が繰り返され、現在の結球した白菜が生まれる。
半結球の白菜は秀吉が朝鮮侵略の際に、日本に連れてきた陶工たちが持参して来たとも言われている。
白菜の仲間である広島菜や大阪白菜とも呼ばれるシロナが江戸時代から作られてきた事実も、この説を裏付ける。
ではなぜ本家の白菜は消えてしまったのだろう。
話は戻って、白菜が日本に伝えられたのは明治8年との記述を紹介した。
この明治8年というのは東京の博覧会に3株の山東白菜(結球白菜)が展示された年である。
そのうちの2株を愛知県栽培所が払い受け、栽培を続けた。
しかし、種を採って栽培しても結球せず、偶然のように結球したのは20年後の明治27、8年だと言う。
この結球白菜は、相当珍しかったらしく天皇陛下にも献上された。
当時は高価な中国産の種子が使われており、日本産の種子による結球白菜が栽培されるようになったのは、大正時代になってからであった。
日清、日露戦争帰りの兵士が蒔いた種によっても、結球白菜を育てることができたが、更にその白菜から種を採って蒔くと、結球しない。
当時、どこでも見られた菜の花、あるいはカブ、小松菜は白菜の親戚であるが、白菜が簡単にそれらの種と交配してしまうのが原因だった。
浮気者の白菜はすぐ他のアブラナ科の野菜と子を作ってしまったのである。
純粋な白菜は一代で姿を消し、二代目からはハーフになってしまう。
つまり、白菜は代を重ねるごとに日本に古くから伝わっていた野菜に変化していって、白菜ではなくなっていったのだ。
柔軟な適応能力と見るべきか、優柔不断ゆえの没個性と見るべきか。
結論としては、白菜は江戸時代以前にも日本には伝わっていたが、栽培できなかったというのが事実であろう。
余談になるが、現代農業で使われている種子は一代限りのもので、育った野菜から種を採って撒いても、二代目はうまく育たない。
いわば、ダビング防止加工が為されたCDのようなものだ。
農家が種子を買ってくれなければ種苗会社は経営が成り立たなくなるから当然なのかも知れないが、子孫を繁栄させられない種を作り出すというのは、自然の摂理からすると、異常には違いない。
参考:野菜学入門(相馬暁)三一書房
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