木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

自信

2011年07月19日 | 日常雑感
自信がなくなるときって、誰にでもあるんだろうが、最近の自分は落ち込みの回数が多い。
何だが、自分が無力でちっぽけで、世の中のことなんか、本当はひとつも分かっていないんじゃ、と思うとき。
年をとってくると、人は実績だとか、経験などが増えて、自信も増加してくるものだけど、逆の場合もある。
願っても届かない夢だとか、目標に達しない場合、若いころと違って、時間がないんだという焦燥感もある。
自分が間違った道を歩んでいるのではないかとの迷いも生じる。
でも、今の時点で答えなんて誰も持っていない。
中途半端なことはせずに、信じた道を行くしかないんだろう。
それでも、潰れそうな時がある。

今、メンタルの分野で一番実践的なのは、スポーツ心理学かも知れない。
毎回毎回、目に見える形で戦績が現れ、結果が求められるスポーツ界。
ストレスやプレッシャーも大変なものがあるのだろう。
そんな選手をサポートするのが、スポーツ心理学である。

試合中にミスしたときや負けてしまったとき、あなたは心の中でどのような言い訳をしているだろうか。この言い訳を説明スタイルと呼ぶが、「自分の能力がないからだ」と思ってしまうのがマイナス暗示であり、これはさらに自分の自信をなくしてしまう一因になってしまう。ではマイナス暗示をかけないようにするにはどうすればいいのかというと、そういうときは「運が悪かった」などっと外的な要因のせいにすればいいのだ。自分の能力を否定する言葉は、声に出さなくても心の中で思うだけでもよくない。
逆に試合に勝ったり、ファインプレーをしたときの説明スタイルはどうだろうか。「ああ、運がよかった」と外的要因に求めていないか。一見良い説明スタイルに思えるが、これでは自分の能力を認めていないことになるのだ。この場合の正しい説明スタイルは「すべて自分の能力のおかげだ」という言葉である。失敗したときには原因を外的要因に求め、成功したときは自分の能力に求めることで、プラスの暗示が強化されていくのである。

スポーツ科学バイブル(高畑好秀監修)池田書店

何とも、自分勝手なようにも思えるが、厳しいスポーツ界ではこれくらい考えていないとダメなのだろう。
現実社会も特に厳しさを増している。楽天主義とは違う、自分の核を持っていないと、いけないのかも知れない。

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三叉路

2011年07月18日 | ポップマニア
前回、「時の徘徊」について書かさせていただいたが、もうひとつご紹介したバンドがある。
「三叉路」(さんさろ)である。

三叉路も、3ピースバンド。全員がギターを弾き、三人のハーモニーがきれいなグループだ。
コンセプトは「昭和のフォーク」。
「時の徘徊」ほどの縛りはないものの、独自なバンドとなっている。
そのコンセプトは詩を読むとよく分かる。

ふたり立つのがやっとの台所で
きみは冷たい水でコップを洗う
なにをするのも音となる距離で
きみとぼくは笑った(れんげ荘)


三叉路は結成が1999年。
2006年、NHKの「熱唱 オンエアバトル」でチャンピオンとなる。
2007年からは「みんなのうた」で「しあわせだいふく」が放映される。
こう書いてくると、順風満帆だったようだが、そうではない。
1999年から2006年までは、鳴かず飛ばずの状態だったらしい。
自分で思っている自信作が人に受け入れられないときほど、アーティストにとって辛い瞬間はないだろう。
そんな中で、三叉路はよくチャンスを掴んだと思う。
オンエアバトル優勝後、どう身を処していくか、考えていなかったら、ただの優勝で終わってしまったのではないか。
処世術というよりも、何が何でも歌で食っているという覚悟が、彼らを前進させたように思う。

甘い甘い甘い恋は
ゆっくりコトコト時間を掛けて
つらいつらいことを乗り越えて
味わい深い二人になる(コトコト)


一気に成功の階段を駆け上る人もいるけれど、じっくり一歩づつ上がって行く人もいる。
三叉路は、後者なのだろう。
三叉路には上っていかなければならない階段は、まだ残っている。
ぜひ、ゆっくりと、しかし、確実にステップアップして行ってもらいたいバンドである。

この辺りをリーダーの松井正道が自らのブログで正直な心境を書いている。

「諦めちゃ駄目だっ!!」
多分僕が今ミュージシャンをやってる事も、10年前の友達は「絶対無理」と思ってたろうし、身内なんかは特に鼻で笑う状態だった。強運の持ち主や、最初から環境の整ってる人も確かにいる。 順調に進んで苦労しないでも夢を叶える人もいる。それをうらやましいと思うのは当たり前だけど、現実僕にはコネも環境もなかったし運が強いとも言えなかった。
「悔しさをバネにする」なんてのは口で言うほど簡単じゃなくて、喜びなく悔しさが積もっていくうちにバランスの悪い長いバネになって変な方向へ飛んでってしまうんだな。
実際に僕も弱った。止まった。若い若いと思ってた時間がものすごいスピードで過ぎてってしまう。とにかく焦ってた。努力賞はいらない。結果 が欲しかった。
熱唱オンエアバトルでの優勝は、もがき続け、這いつくばって、がむしゃらギリギリ滑り込みセーフの夢つなぎとなった。スマートじゃないし美しくもない。泥臭いかもしれないけど僕ららしい音楽を届け続けたい。


P.S.8月20日にメンバーの川田氏の故郷でもある板橋でフリーライブが決定。近くの人はぜひ!

開催日 : 2011/08/20(Sat)
タイトル : 光が丘ゆりの木商店街夏祭り
会場 : 板橋区赤塚新町3-32-13
住所 : 板橋区赤塚新町3-32-13
連絡先 : 三叉路HP

三叉路HP
君がくれたものPV
れんげ荘(オンエアバトル)

P.S.(2012.11.19)
その後、三叉路は活動停止してしまった。
解散ではないとのことなので、再結成もあり得るが、今現在では分からない。
リードボーカルの松井氏は来春(2013年)に新アルバムを作成とのこと。
この11月にも岐阜でコンサートがあったんだなあ。
もう少し早く気づいていれば、ぜひ行きたかった。

松井正道氏HP

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時の徘徊(トキハイ)

2011年07月17日 | ポップマニア
マニアックな話題です。
かなり以前、「時の徘徊」というバンドがあった。
「時の徘徊」は3ピースバンド。ボーカルが抜群にうまい飯田牧人、作詞に長けたギターの池田省一、少し抜けキャラのキーボード小原俊也(ヤムチャ)。
その後、池田氏が抜け、新ギターに具志岳典を迎える。
バンド名も「トキハイ」と改名してそれなりにヒット作も出したのだが、今は開店休業の状態になっている。

もともと関西のバンドで、ライブハウスを中心に活動。
たまたまテレビから流れた「ずっと君を見ていた」を聴いたときわたしは、尾崎豊の「卒業」以来のショックを受けた。ギター二本とキーボードでここまで、充実した音が出るのか、と思った。すぐに明石で行われたフリーコンサートに行き、その後、ライブハウスにも通うようになった(当時は心斎橋の「ミューズ」が中心だった)。
バンドのコンセプトは、バンド名からも分かるように、少年時代の想い出が中心。

ある晴れた日の話 時は五月少年はこの街に来た
先生に紹介されて ぎこちない挨拶を終えて
君の席はあそこだから 教科書は隣の人に
きれいな黒髪 べっこう色のカチューシャ隣の少女(ずっと君を見ていた)

ドブ川沿いの空家の裏側 僕らの秘密基地があった
ビルが立つとか道路ができるとか 最近は驚かなくなったけど
秘密の基地にもコンビニが立つらしい(少年の唄)


売れるためには、人々の共感を得るのが最も大事。
だから、歌は恋愛の曲が多い。
けれど、恋愛の歌では目立たない。
恋愛以外をテーマにした曲は、ハイリターンであるけれど、ハイリスクでもあり、アーティストは普遍性とオリジナリティの中で揺れ動くものなのかもしれない。
「時の徘徊」は、そのハイリスクな道を選んだ。
その選択には運も必要だった。
いくつかの運にも恵まれたが、彼らがその運をうまく活用できたかというと疑問が残る。

色々、試行錯誤もあって、吉本新喜劇と接近したり(確かその時は、キングコングとセッションしていたような気がする)もしたのだけれど、結局、彼らはハイリスクを回避する。
すなわち、恋愛の歌へのシフトと、行動の場を東京に移すことである。
一番痛かったのは、池田氏と飯田氏の喧嘩別れである。
この別れによって、数々の名曲は封印されてしまった。
そして、バンドのコンセプトが非常に不明瞭になってしまった。

成功するには運が必要だという人がいる。
確かに、その通りだろう。
でも、運は誰にも訪れる。大事なのは、運が訪れたときに、タイムリーにその運をつかめるかどうかだ。
そして、運を待つ根気も必要だ。
待っている間にも、家賃は払わなければならないし、米も買わなければならない。
金持ちの道楽ではないのだから、アーティストは印税で食って行かなければならないのも事実。
「時の徘徊」は1995年結成だから、焦燥感もあったのだろう。
どんどん洗練されていった飯田氏と、「俺ってどなりながら歌っているだけかな」と変わらない池田氏。
方向性が異なったのは本当だろうが、もう一度、原点に戻って一緒に歌ってもらえないものだろうか。

僕等遠くまで行けるはずなのに
その全てを持っているはずなのに
心のたかぶりに歩きだしはするけれど
オーバーペースだ 歩き方を知らない
自信がある時ない時 ふくらんだりしぼんだり
こんなことじゃいけない
自信がない時だって歩き続けることはできるんだ
遠くを見つめろ
始めることはやり直すことはわりとたやすく
続けることが 続けることが難しい
(遠くへ歩き出せ)


トキハイ「放課後」PV

池田省一氏LIVE(10分後くらいから、時の徘徊オリジナル「町で一番大きなガソリンスタンド」を演奏しています)

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ある明治人の記録

2011年07月14日 | 江戸の幕末
旧会津藩士ながら、陸軍大将にまで登りつめた柴五郎が晩年に認めた書をまとめた「ある明治人の記録」。
もっとも有名な箇所は、下北半島陸奥国に封された五郎ら家族が、飢えのため、犬を食べる場面であろう。

武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らうて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てるよと、薩長の下郎どもに笑われるは、のちの世までの恥辱なり。

犬肉が喉につかえて、吐き気を催した五郎少年を父親が叱責する場面である。
カニの爪のように伸びた下北半島は両側を海に囲まれ、冬の寒さは、同じ北国である会津藩士の想定外のものだった。
会津藩士は、この地を希望を持って、斗南藩と名付けた。これより南はみな帝の地であるとの意である。しかし、陸奥の自然は、会津藩士の希望など吹き飛ばすほど過酷なものだった。
斗南藩への移転は政府の強制であったのだが、実は会津藩にはもうひとつの選択肢があった。旧領地である猪苗代への移封である。狭くて慣れた土地か、広いが辺境の地の、二者択一を迫られたのである。
そのとき、広沢安任の提言があった。

蝦夷より下北半島を通りて帰藩せる広沢安任、陸奥の国、広大にして開発の望みありとの意見に従い、陸奥を復興の地と定めて斗南藩に移れる次第なり。

敗戦の後遺症が強く残る猪苗代よりは、未知であっても可能性の残る陸奥へ行こうという気風があったと思われるが、広沢の進言により、背中を押された会津藩は、結局、自らの意思で下北半島への移住を決める。
その割には、リサーチが徹底的に不足していて、厳寒の地に赴くのに、あまりにも準備不足であった。

会津よりこの地に移封さるるとき、陸奥の地がかくも乏しき痩地なりとは知らず、希望を抱きてはるばる来つるものを、いまになりて嘆き怒りても甲斐なし、ただひたすらに堪えぬくばかりなり。

この驚くほどの無知さは、まだ幼かった五郎少年のものであるが、案外、藩士全体の共通認識だったかも知れない。
では、ものすごくリサーチが行きとどいていたら、猪苗代に行ったのかというとそれも疑問だ。与えられたのが順境でなく、逆境であっても、見事乗り越えるのが武士魂であるといった意地が会津藩士にあったからだ。

会津の士は正義の士であったとはよく聞く。
幕末の幕臣も、腹芸の下手な人物が多かった。
それに比べ、西軍には、策士が豊富だった。

正義の定義は状況により変わる。
会津兵は馬鹿が付くほど正直であったし、倒れ行く幕府を支えようとした幕臣の中にも正直な人間が多かった。
しかし、戦時には正直が必ずしも正義となるとは限らない。
嘘をつき、腹芸を使うのが、戦争回避となるならば、『嘘も方便』ではないだろうか。
戦争には、一方的な正義も、一方的な悪もない。
そして、戦争を回避できるのなら、卑怯と言われようと、卑屈と言われようと徹底的に避けるべきであるというのがわたしの考えである。
同じような考えを藤原帰一氏が端的に述べておられるので、引用する。

平和って、理想とかじゃないんです。平和は青年の若々しい理想だとぼくは思わない。暴力でガツンとやればなんとかなるっていうのが若者の理想なんですよ。そして、そんな思い上がった過信じゃなく、きたない取引や談合を繰り返すことで保たれるのが平和。この方がみんなにとって結局いい結論になるんだよ、年若い君にとっては納得できないだろうけれどもっていう、打算に満ちた老人の知恵みたいなものなんです。

近頃の軍人は、すぐ鉄砲を撃ちたがる、国の運命を賭ける戦というものは、そのようなものではない(柴五郎)

ある明治人の記録 石光真人編著 中公新書
正しい戦争は本当にあるのか 藤原帰一 ロッキン’オン

広沢安任については青森県総合社会教育センターHP


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