木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

ナゴヤレプタイルズワールド2010に行ってきました

2010年09月26日 | 日常雑感
9月25日、26日、名古屋の吹上で「ナゴヤ レプタイルズ ワールド 2010」なるイベントが開催された。
レプタイルとは、爬虫類のこと。
トカゲやヘビ、カエルなど、ダメな人は全くダメであろう、マニアの世界だ。
私も爬虫類好きではないので、まさか行かないだろうと思っていたが、なぜか行く羽目に。

さほど広くはない会場は、かなりの人でごった返していた。
そして、ヘビ、ヘビ、ヘビ。
トカゲ、トカゲ、トカゲ。
カエル、カエル、カエル。
カメ、カメ、カメ。
それらが、デパ地下のデリカで売っているサラダのように、ペラペラのプラスチックに入って山積みにされている。
価格は、1500円とか、3000円とか。
と、思ってよくみたら、15,000円、30,000円だった。
なかには何十万円もするヘビがいたりして、マニアの世界。
聞くところによると、このイベントは出展者もお祭りだと思っているので、かなり値引き価格になっているとのこと。

なぜか、フクロウが売っていたり、ペンギンが展示されていたり。
コウモリの顔が意外なくらい可愛いことに気付いたり、おなじみのフェレットに心なごませ、相変わらず価格の高いプレーリーを横目で見ていると人だかりが。
首を突っ込むと、モモンガの販売だった。
レプタイルの「こわもて」連中の中にいるせいか、今日のモモンガはひときわ可愛い。
目が合った店員さんが、触らせてくれる。
もうこうなってしまったら、モモンガから逃れるのは難しい。
結局、連れて帰ることになった次第。

今日はお疲れだろうから、そっとしておくことにする。
明日、かまってもらおう、っと。



(出展者リスト)
サムライジャパンレプタイルズ
Shine Ship(072-677-1111)
ZICRA CORPORATION
レップフォレスト
伊豆アンディランド
富城物産
ペットショップ不二屋
爬虫類倶楽部
ダイワ(06-6383-3645)
ドラゴンハープタイルジャパン
DIZZY POINT
シルクサービス
月夜野ファーム(ハリネズミ販売あり・0278-72-3708)
Herptile Lovers
ワイルドモンスター
ジェックス
猛禽屋
aLive
マニアックレプタイルズ
ビジネスベンチャージャパン
Dift Wood&亀平
ペットショップ サウリア
オーナーズフィッシュ&レプタイルズ
名古屋コミュニケーションアート専門学校
あわしまマリンパーク
名東水園リミックス ペポニ
みどり商会
塚田動物病院
富士ターザン
トップクリエイト
誠文堂新光社
カメロク屋
ラクーダー
花とカエル雑貨 rana
トリオコーポレーション
神畑養魚/キョーリン
ズーメッドジャパン
アトリエバニラ
ハープライフ
クリーパー社
エムピージェー
アニマルメイト

2011年名古屋レプタイルズワールドHP

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壮士の墓~咸臨丸の災難・清水港

2010年09月15日 | 江戸の幕末
菅VS小沢の勝負は菅総理の勝利をもって終結したが、敗れた小沢氏も表面上は、にこやかな笑みを絶やさないでいた。
話し合いや選挙で結果が得られるところが民主主義のよいところだ。
江戸幕府から明治政府への移行も一部の反乱軍を除いて、平和裏に成されたという表現を多々見受けるが、決してそんな綺麗事で済まされるものではなかった。

先日、静岡の清水港の近くを走っていると「壮士の墓」という文字がナビに現れた。
さっそく車を走らせると、その墓は咸臨丸の船員のものであった。
事の経緯は、こうだ。

慶応四年八月一九日夜半、榎本武揚は品川港を出航し、箱館を目指した。開陽、回天、蟠竜、千代田形の軍艦四隻、神速丸、長鯨丸、咸臨丸、美加保丸の運送艦四隻の榎本艦隊である。艦隊は品川から房総沖を通って仙台へ向かう予定であった。
出航の際には悪天候が予想されたが、翌日は晴れ間が見えた。その艦隊には、松平定敬、元陸軍奉行の松平太郎、渋沢成一郎以下、彰義隊の残党、伊庭八郎率いる遊撃隊、新選組など二千余人が乗船していた。中には澤太郎左衛門、松岡磐吉のように長崎の元海軍伝習所生も混じっていた。
しかし、艦隊が犬吠埼に差しかかる頃、猛烈な嵐に遭遇し、美加保丸は鹿島灘に沈没、咸臨丸は救助の蟠竜丸に伴われて下田から清水港に回り、修理を行っていた。
清水港に回ったのは徳川宗家のいる駿府に行き、降伏するためだったとも言われている。
一方、咸臨丸が下田から清水方面に向かったと方を受けた政府軍は艦隊を進め、清水港に着く。
咸臨丸の副館長・春山弁蔵は白旗を揚げて降伏を試みる。船員は多くが上陸していたし、咸臨丸はマストを折って、自力航海不能となったときから、交戦の意図を失っていた。
乗り組んだ政府軍は榎本隊の意思を無視して、そのほとんどを斬殺してしまう。
さらにひどいのは、海中に投げ捨てた死体の引き上げ、埋葬を禁じたことである。
江戸時代、死罪に処せられた罪人が埋葬を禁止されたのと同じ理屈であり、上野の彰義隊の死体も当初は投げ捨てであった。
もっとも、この禁止令には異論もあって、徳川側が政府に遠慮して自粛したという説もある。

この死体を自らの危険を冒して埋葬したのが清水の次郎長である。
次郎長が引き揚げたのは、副館長であり、長崎海軍教習所の一期生でもあった春山弁蔵と鉱蔵の兄弟、加藤常次郎、今井幾之助、長谷川清四郎、高橋与三郎、長谷川得蔵の七人。
後日、次郎長の功をねぎらい、墓の文字を書いたのが山岡鉄舟であった。

榎本艦隊は反対勢力には違いなく、その中には薩長からすれば、憎き会津藩士や新選組隊員なども含まれる。
けれども、日本古来の美徳とされてきた思いやりや武士道と言われてきたものは、この状況からは全く消え失せてしまった。
政府の裁断とはいえ、あまりにもひどい仕打ちである。
それゆえに、次郎長の行為が美談として伝承されたのであるが、勝敗がついてもノーサイドとならないのが戦争である。
繰り返して言うようだが、幕末~明治は決して無血革命などではなかった。



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タイフェスタ 名古屋 2010

2010年09月07日 | 日常雑感
この前の日曜、栄で行われたタイフェスに行って来た。
いつもは春に行われていたのだが、今年はまだくそ暑いこの時期に変更となった。
夕方から行ったが、とにかく暑い。
お目当てはフリーライブ。
タイではかなり人気のアーティストが開放的な雰囲気の中、無料で観れるとあって、このところ毎年行っている。

今年は、TINA(ティナ)とTIK SHIRO(ティック・シロー)の二人。
両アーティストとも知らないのだが、ティナは、タタ・ヤンを狙うシンガーとあって、期待が高まる。
シローは、三四郎から芸名をとったということで、こちらも面白そう。

6時15分からのスタート。
オープニングアクトはティナ。
可愛らしい顔立ちで、曲に恵まれれば、ヒットしそう。
個人的には、今年も代々木のタイフェスタに出演したPUNCH(パンチ)の方が音的には好み。

続いて登場したシローには、思わず目が点になってしまった。
チャゲのような格好をして、吉幾三のような声のオジサンがマイケル・ジャクソンのような踊り(もっとヘンテコだけど)をしている。
会場はかなりのフィーバー振り(特に私の周り)で、一気にタイ色が高まる。
このシローというのは、80年代にヒットを飛ばし、その後、長い低迷期に入ったが、最近、リバイバルしたという苦労人らしい。
だけど、最近はお笑い番組への出演が多かったらしく、踊りもかなりコミカル。
聴いているときは「なんだこれは」と思ったけど、妙なくらい歌のフレーズが耳からこびりついて離れない。

来年はぜひ、個人的にタイの歌姫だと思っているPARN(パーン)に名古屋に来てもらいたいものだ。



ステージ慣れしたパフォーマンスを見せたTINA。


とにかく存在感はあったTIK SHIRO。

TINA のシングルカット曲

TIK SHIIRO Chai Yo 
シローのチャイ・ヨーというフレーズが耳から離れない。80年代頃のヒットらしい。

TIK SHIRO ラック・マイ・ヨーム・プリーアンペーン
どこかエルトン・ジョンの匂いのする名バラードなのだろうが、妙な振りつけがとても気になってしまう。タイフェスにはこの格好で登場。

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唐人お吉の悲劇

2010年09月03日 | 江戸の人物
愛知県知多の内海海岸に唐人お吉の像が建っている。

お吉というと米国領事ハリスと愛人契約を結び、その後はすさんだ人生を歩んだ下田の、あの「お吉」のことであろうが、なぜ、この内海海岸に像が?
郷土史によると、お吉は内海に生まれ、四歳のときに、家族とともに下田に移り住んだとされている。
像の前にある「白砂の湯」のフロントに尋ねると、お吉の年表も置いてあって、お吉が内海生まれであることを説明してくれた。
文献を当たってみると、これは昭和14年に名古屋の尾崎久弥氏が西岸寺の過去帳や明治初期の戸籍台帳から調べた結果である。
しかし、西岸寺の過去帳説を信じ、年代別に並べると、お吉の母である、きわはお吉が生まれる数十年前に死亡しているなど時系列的に解決できない矛盾点も出てくる。過去帳の人物は同名別人である可能性も高い。
これは簡単には結論付けられないし、お吉の生誕地が本題ではないので、とりあえず保留。

では、本題。
お吉はなぜ入水自殺しなければならなかったのか?

その前に、簡単にお吉の生涯について言及したい。

日米通商条約締結のため日本に来ていた総領事タウゼント・ハリスは下田に滞在中、看護婦を幕府に要請。
看護婦を妾と勘違いした幕府は船大工の娘、お吉に白羽の矢を立てた。
当時、鶴松という恋人のあったお吉だが、組頭伊佐新次郎の説得に、涙ながら同意し、ハリスのもとに出向く。
3日間という短期間で、お払い箱になってしまったお吉であったが、その後は異人に肌を許したということで、誰からも白い目を向けられ、次第に自暴自棄になり酒に溺れていく。
14年後、ふとしたことで鶴松と再会したお吉は、鶴松と所帯を持つが、4年後に破局。
それからは、お吉はさらに酒乱の度合いを濃くし、最晩年には物乞いのような境遇になりながら、入水自殺した。

このような悲劇のヒロインに仕立てたのは、昭和初期の小説家十一谷義三郎で、「時の敗者・唐人お吉」の題で都新聞(現在の東京新聞)に連載するや、大ベストセラーとなった。
このヒットに目をつけたのが東海汽船で、一万冊を購入し、乗船客に配った。
さらに歌舞伎で取り上げられるや、ますますヒット。
それまでは秘境だった下田が一気に東京の奥座敷と呼ばれるようになった。

上に挙げたお吉の説明は、半分は脚色されたものであろうが、大まかなところは事実である。
お吉と同時期、ハリスの通訳であるヒュースケンには、お福という15歳の娘が「看護婦」として遣わされている。
そのとき、名主が彼女らを諭した古文書が残っているが、それによると、「妊娠したときはすぐに伝えるように」という露骨な項目もあり、目的は明らかである。
ハリスに仕えた女性はお吉を含め3人、ヒュースケンには4人である。
お吉以外の6人は小説にはならず、お吉だけにスポットライトが当たったのは、最期が哀れだったからであろう。

お吉はなかなか商才があったらしく、そこそこ小さな成功を手にするが、酒によってその成功をフイにしてしまう。
お吉を酒色に駆り立てたのは、ハリスとの一件であったのは想像に難くない。
確かに、当時とすれば現代からは想像もできない悲惨なことだったのかも知れない。
大きな挫折だっただろう。

異人に仕えた人間は、明治を迎えれば飛躍的に多くなった。
その中にあっても、お吉は一回の失敗に固執した。
自分は特別だと思う自尊心と、挫折感が複雑に交差していたと思う。
その感情ゆえ、彼女は酒におぼれ、物乞いに身をやつし、入水自殺をせざるを得なかった。
きっと、生真面目な性格だったのではないかと思うが、少し息を抜いて、発想転換できればここまで悲劇にはならなかったはずだ。
言うのは易く、行うのは難いのだけれど。


(参考文献)
ハリスとヒュースケン 唐人お吉(下田開国博物館)・尾形征己著
幕末開港の町 下田 (下田開国博物館)・肥田実著
静岡県茶産地史 (農文協) 大石貞男著
幕末・明治の写真(ちくま学芸文庫) 小沢健志著


内海海岸のお吉像


アップにしてみました


お吉19歳の写真と言われるが、残念ながら別人である

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