木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

近藤勇と白粉

2009年02月24日 | 江戸の写真
司馬遼太郎の「燃えよ剣」に白粉を顔に塗りたくった近藤勇が出てくる。
それを土方歳三が、「何事か」と嘆息をつく。
近藤勇は、「ホトグラヒーだ」とうそぶく。
歳三は、そう言われても何のことだか分からない。
写真の黎明期の一場面であるが、時代考証的には難がある。
この頃、日本の写真は初期のダゲレオタイプから、第二期とも呼べるコロジオンタイプに移行していた。
このコロジオンタイプというのは、コロジオン液というものをガラス板に塗り、液が乾かないうちに撮影するもので、湿板法とも呼ばれる。
この頃の写真技術は、現在のIT産業のように日進月歩で、技術の進化が目覚ましかった。
コロジオンも初期の頃は、レンズの解放値がF16くらいで、現在のフイルムに相当する板の感度がとにかく鈍かった。
西方の写真黎明期の立役者、上野彦馬が長崎でホトグラヒーをロッシュに習い、悪戦苦闘している時は、まさにこの頃の露出時間を長く取らなければならない代物であった。その頃の露出時間は、何分もじっとしていなければならいくらい。
しかし、時代が下った後のカメラは、20~40秒くらいに露出時間が短縮されている。l
この頃の写真撮影には、もはや白粉は必要がなくなっていた。
近藤勇が写真を撮った頃には、白粉を塗らなくてもよかったのである。
強面の近藤が白粉を顔に塗った姿は想像としては、面白いが、実際は時代が合わないのである。

↓よろしかったらクリックをお願いします。


七里の渡し・桑名編

2009年02月18日 | 江戸の交通
東海道で宮から桑名へ行くには海上便が使われた。
この経緯については、以前にも書いたが、このルートだと関ヶ原を通らない。
参勤交代の外様大名が関ヶ原を通らないように、このようなルートにしたという説があるが、信憑性がある。

このルートで私が勘違いしていたことがある。
舟は名古屋港の岸からさほど遠くないところを通る。「渡し」という語感からは川を想像させるが、名古屋港を通るという先入観があるから、舟は港から港へ行ったのだと思っていた。今で言う「クルーズ」という趣き。
だが、現地に行ってみると、どちらも川から発着することが分かる。
宮の方は、堀川であり、桑名側は揖斐川である。
桑名の渡し跡に立っても、海は見えない。
今は大層のんびりした場所で、側を通る道路に車さえ通らなければ、まったく物音もしない不思議な空間である。
昭和34年の伊勢湾台風以来、七里の渡しと川の間には堤防ができたため、景観はすっかり変わってしまったと言う。
もちろん、今では港としての機能も全くない。
この場所に鳥居があるのは、伊勢神宮の一の鳥居である。桑名は、もう伊勢神宮の入り口であった。
旅人はこの鳥居を見て、旅情を高ぶらせたであろう。
同じく、この地にあったのが、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)である。
これは、交通安全の意味合いもあったのだろうが、七里の渡しのシンボル的存在であった。
今でも夜にライトアップされたこの櫓は見応えがある。
その後、この藩が、幕末に佐幕派として凄惨な目に遭うとは、江戸時代の旅人も誰も思わなかったに違いない。


今でも威風がある伊勢神宮の一の鳥居

カップルがまったりとした時間を過ごしていた。

蟠龍櫓。時間帯によっては、中に入ることができる。

櫓の二階に登り、揖斐川を眺めた。

よろしかったらクリックお願いします。


愛知県の語源

2009年02月04日 | 私的名古屋考
現在、愛知県は、西三河、東三河、尾張という分け方をされることが多い。
江戸時代、尾張は御三家の藩であったが、三河は細分化されていた。
このふたつの地域が短期間でひとつになるには、かなりの混乱があった。
明治4年7月、廃藩置県が行われた際には、尾張には名古屋と犬山の二県、三河には豊橋、岡崎、西尾など十県が存在した。
このころの郡制はめまぐるしく変わり、同年11月15日には、尾張は犬山を名古屋に編入、三河も額田県ひとつに集約した。
明治5年4月2日に名古屋県は愛知県に改称。
当時、県庁は名古屋城のある愛知郡に位置していたので、名古屋県を改称する際に、愛知県としたのである。
さらに、明治5年11月27日、額田県を愛知県に組み込み、現在の愛知県が誕生した。
ちなみに、このころ、現在の県域を整えていたのは、東京、山梨、山口、秋田、和歌山など数県に過ぎず、大型合併の走りといえる。

このように、愛知県の名前が使われ出したのは新しいが、その語源は古い。
「あいち」は、もとは「あゆち」から来たと言われる。古語で書くと「あゆち」は、年魚市(万葉集)、年魚道、吾湯市(日本書記)、相津(古事記)、愛智(和名抄)などと書かれてきた。
「あゆ」を古語辞典で引いてみると、「(北陸方言)「あゆのかぜ」とも。東(正しくは北東)の方向から吹いてくる風。東風」(学研「新・古語辞典」)とある。
この「あゆの風」がよく吹いていたのが、熱田神宮の東に広がっていた年魚市潟で、現在の名古屋市南区、呼続台地や笠寺台地から見下ろす西側一帯だった。
「各駅停車 全国歴史散歩 愛知県」から引用する。

かつて、この台地は伊勢の海に突き出た半島であった。西側の呼続町から星崎町にかけては遠浅の沿岸で、年魚市潟(あゆちがた)とよばれていた。また東側は鳴海潟とよばれて、知多の浦へとつながっていた。八世紀、「万葉集」が編まれたころ、年魚市潟から鳴海潟にかけては、絶景の海岸線だったという。
年魚市潟 潮干にけらし
知多の浦に
朝こぐ舟も 沖に寄る見ゆ  (作者不詳)
潮が引けば遠浅の海は干潟をあらわし、漁をする小舟もはるかな沖へ遠ざかってしまう。といった景観が、万葉人たちの歌心をそそったのだ。(一部略)


ここでは、あゆちから、東風という意味は取り払われ、はるか海の向こうから吹いてくる風、といった意味で「あゆの風」は使用された。
これが愛知県の語源となったと言う。

愛知県の公式な見解としても、HPを見ると、

「あいち」の地名は、万葉集巻三の高市黒人の歌「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」に詠まれている「年魚市潟(あゆちがた)」に由来するといわれ、「あゆち」が「あいち」に転じ、愛智(郡)の郡名もここから生まれました。
 廃藩置県後、県庁が愛知郡の名古屋城内に置かれたところから県名に採用されました。


と、示されている。
異説もあるようだが、まず順当なところと言っていいのではないだろうか。

県外の人には、三河も尾張も具体的にはどこを言うのか分からないだろうが、境川をボーダーラインとして、西岸が尾張、東岸が三河と呼ばれる。江戸時代、尾張は、終始一貫して尾張徳川家の支配下にあったのに対し、三河は吉田藩や西尾藩、岡崎藩など10藩のほか、旗本領、幕府直轄地などに細分化されていた。
そのせいもあるのか、三河人と尾張人は気質も違う。
17世紀に書かれた「人国記」によると、尾張人は「進走の気強くて、善を見れば善に進み、悪に成れば悪にそむ」とされ、三河人は「偏屈にて我言を先とし、人の述る処またずして是を談じ、命を終わる族多し」とされている。
どちらが、現在の愛知県人気質を言い表しているだろうか。

ところで、愛知県を二分する境川であるが、水源は豊田市三好町にある長田池を水源としている。
この辺りは、天下のトヨタの工場がある場所である。
やはり、愛知を二分するのは、トヨタなのであろうか。

各駅停車 全国歴史散歩 愛知県 河出書房
愛知県の歴史散歩 山川出版社
愛知県の歴史 山川出版社
愛知県HP


名古屋市南区岩戸町の白毫寺(びゃくごうじ)。この辺りの寺は、今や住宅地に囲まれ、行き方が分かりにくくなっている。鎌倉街道とは名ばかり立派な細い道を登った高台に位置する。


白毫寺内の石碑。高台にあるこの位置からかつては、北西の湾が一望できたのであろう。どこか海の見える場所はないかと探したが、今ではマンションやビルが立ち並び、展望を得られる場所はない。
白毫寺の場所は、ここ


よろしかったら、クリックお願いします。

(H25.3.9改稿)

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=tadious-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4634232308&ref=tf_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>