伊能忠敬。
日本測量史に燦然たる輝きを残した人物であり、現在も知名度は極めて高い。
高橋東岡。
本名、高橋作左衛門至時。大坂奉行所の同心の息子として生まれ、後に暦学者として第一の地位を占めるようになった人物である。
この東岡の下に忠敬が弟子入りしたのは寛政七年(一七九五年)。
歴史に詳しい方ならば、忠敬はかなり年下の師匠に弟子入りしたと覚えておられるかも知れない。その師匠が東岡である。
東岡の息子は高橋景保という。
景保は、シーボルトに御禁制の日本地図を渡した咎により、牢獄に繋がれ獄中死した。いわゆるシーボルト事件であるが、この事件で記憶されている方もおられるだろう。
東岡の名は忘れられ、息子の景保は本人の意思とは無関係な場所で歴史に名を刻んでしまった。
歴史的な観点からは、正確な日本地図を作った忠敬は偉大であり、寛政暦を作った東岡の名は後世にあまり伝えられていない。
忠敬が江戸にいる景保の下に弟子入りしたのが五一歳のとき。景保はまだ三十二歳に過ぎない。二十歳近く年の差ががあったが、忠敬は全く気にしなかった。
もともと平均寿命が今よりも短い江戸時代にあって、五十歳から新しいことを始めようと決意するのは容易なことではなかった。
容易でない事柄を成そうと決意した忠敬は年齢とか世間体などはどうでもいいことだったのだろう。
忠敬は十七年の永きに亘り、日本国中を測量し、詳細な日本国地図を完成させる。
その際、幕府に忠敬の登用を強く推薦したのが東岡である。
測量によって学者としての忠敬の地位は不動のものとなったが、その地位は東岡の働きかけなしには築けなかった。
東岡は忠敬よりもかなり年下であったのに、忠敬より早世した。
東岡が亡くなってから、忠敬は江戸にいれば毎日、東岡の墓である源空寺に足を向け、地方にあっては江戸の方角に礼拝するのであった。
そして、最期は遺言により、東岡の墓の隣に埋葬して貰ったのである。
忠敬の考え方は、江戸時代の封建思想に基づいた抹香臭い考え方なのであろうか。
スポーツ界を見ていると思うのだが、現代では師弟関係はビジネスになってしまった。
師匠は見込のない弟子はすぐに見捨てるし、弟子も師匠を見限る。
もちろん、そうでない関係もあるのだろうが、日本の師弟関係は浪花節的な考えから、欧米流の契約社会的な考えに移行しているように思う。
師は弟子の能力を伸ばすことを約束し代償を得る。
弟子は約束が契約通り履行されているかどうか確認し、不履行の場合は、契約を破棄する。
忠敬は自らの努力もあり、師匠の東岡の実績を抜いた。
契約社会的な発想であれば、契約は履行されたということになる。
それは、なんと冷たい考え方であろう。
恩という言葉が封建的で古臭い感じがするのは否めない。
だが恩は契約の中で生まれるものではない。新しいとか、古い、といった観点で見るのではなく、日本人に備わった美徳であると考えるほうがいいのではないだろうか。
与えられた恩は忘れず、自分が受けた恩を誰か別の者に返していく。
恩とは他人だけのものではなく、自分自身のものでもある。
与えられた恩を回していくと、運気も向上するはずだ。
東岡にまつわるエピソードとして次のようなものがある。
東岡の家は貧しく、季節になると庭になった柿を売って家計の足しとした。
夜中になると悪ガキたちが来て、その柿の実を盗んで行ってしまう。
東岡は屋根に登り、天体を観測しているのだが、悪ガキが柿を盗みに来ないか、再三にわたり庭をも気にしていなければならないので、気が散って仕方なかった。
ある日、外出から帰ってくると、柿の木が根本からばっさりと切られている。
妻に問うと「切ったのは私です。あなたは屋根に登っても空と下を交互に気にしておられます。そんな学問の邪魔をする木は、切ってしまったのです」
と答える。
東岡は妻の意気に感謝し、その後、ますます精進して、学者としての地位を築いた。
何か、いい話だ。
師を敬い続けた忠敬も、東岡も人間的な魅力に満ちていた人物だったに違いない。
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日本測量史に燦然たる輝きを残した人物であり、現在も知名度は極めて高い。
高橋東岡。
本名、高橋作左衛門至時。大坂奉行所の同心の息子として生まれ、後に暦学者として第一の地位を占めるようになった人物である。
この東岡の下に忠敬が弟子入りしたのは寛政七年(一七九五年)。
歴史に詳しい方ならば、忠敬はかなり年下の師匠に弟子入りしたと覚えておられるかも知れない。その師匠が東岡である。
東岡の息子は高橋景保という。
景保は、シーボルトに御禁制の日本地図を渡した咎により、牢獄に繋がれ獄中死した。いわゆるシーボルト事件であるが、この事件で記憶されている方もおられるだろう。
東岡の名は忘れられ、息子の景保は本人の意思とは無関係な場所で歴史に名を刻んでしまった。
歴史的な観点からは、正確な日本地図を作った忠敬は偉大であり、寛政暦を作った東岡の名は後世にあまり伝えられていない。
忠敬が江戸にいる景保の下に弟子入りしたのが五一歳のとき。景保はまだ三十二歳に過ぎない。二十歳近く年の差ががあったが、忠敬は全く気にしなかった。
もともと平均寿命が今よりも短い江戸時代にあって、五十歳から新しいことを始めようと決意するのは容易なことではなかった。
容易でない事柄を成そうと決意した忠敬は年齢とか世間体などはどうでもいいことだったのだろう。
忠敬は十七年の永きに亘り、日本国中を測量し、詳細な日本国地図を完成させる。
その際、幕府に忠敬の登用を強く推薦したのが東岡である。
測量によって学者としての忠敬の地位は不動のものとなったが、その地位は東岡の働きかけなしには築けなかった。
東岡は忠敬よりもかなり年下であったのに、忠敬より早世した。
東岡が亡くなってから、忠敬は江戸にいれば毎日、東岡の墓である源空寺に足を向け、地方にあっては江戸の方角に礼拝するのであった。
そして、最期は遺言により、東岡の墓の隣に埋葬して貰ったのである。
忠敬の考え方は、江戸時代の封建思想に基づいた抹香臭い考え方なのであろうか。
スポーツ界を見ていると思うのだが、現代では師弟関係はビジネスになってしまった。
師匠は見込のない弟子はすぐに見捨てるし、弟子も師匠を見限る。
もちろん、そうでない関係もあるのだろうが、日本の師弟関係は浪花節的な考えから、欧米流の契約社会的な考えに移行しているように思う。
師は弟子の能力を伸ばすことを約束し代償を得る。
弟子は約束が契約通り履行されているかどうか確認し、不履行の場合は、契約を破棄する。
忠敬は自らの努力もあり、師匠の東岡の実績を抜いた。
契約社会的な発想であれば、契約は履行されたということになる。
それは、なんと冷たい考え方であろう。
恩という言葉が封建的で古臭い感じがするのは否めない。
だが恩は契約の中で生まれるものではない。新しいとか、古い、といった観点で見るのではなく、日本人に備わった美徳であると考えるほうがいいのではないだろうか。
与えられた恩は忘れず、自分が受けた恩を誰か別の者に返していく。
恩とは他人だけのものではなく、自分自身のものでもある。
与えられた恩を回していくと、運気も向上するはずだ。
東岡にまつわるエピソードとして次のようなものがある。
東岡の家は貧しく、季節になると庭になった柿を売って家計の足しとした。
夜中になると悪ガキたちが来て、その柿の実を盗んで行ってしまう。
東岡は屋根に登り、天体を観測しているのだが、悪ガキが柿を盗みに来ないか、再三にわたり庭をも気にしていなければならないので、気が散って仕方なかった。
ある日、外出から帰ってくると、柿の木が根本からばっさりと切られている。
妻に問うと「切ったのは私です。あなたは屋根に登っても空と下を交互に気にしておられます。そんな学問の邪魔をする木は、切ってしまったのです」
と答える。
東岡は妻の意気に感謝し、その後、ますます精進して、学者としての地位を築いた。
何か、いい話だ。
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