木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

二八蕎麦の謎

2013年10月20日 | 江戸の味
古典落語の「時そば」は有名な題目だ。
勘定のときに「いま、何どき?」と聞いて代金を誤魔化す話だが、その中に疑問に思う部分があった。
これから誤魔化そうとする客は店主に色々と世辞を言うのだが、「もう一杯と言いてえところだが、脇でまずい蕎麦を食って来たばかりだ。口直しって訳だから、一杯で勘弁してくれ」という下りだ。御世辞にしろ、二杯食べられなくて勘弁してくれというのは、言い過ぎのように思う。それとも、江戸時代では蕎麦は二杯食べるのが普通だったのだろうか。
二八蕎麦の語源もはっきりとしない。
よく知られるところとしては、
①価格説・・・2×8=16文であるから。
②材料説・・・蕎麦粉八割、小麦粉二割であるから。

江戸時代風俗の百科事典ともいえる「守貞謾考」をみると、
「またある書に云ふ、二八蕎麦は寛文四年(一六六四年)に始まる、云々。すなはち価十六銭を云うなり」と価格説を採用している。
だが価格説が定説かというと、江戸研究の大家・三田村鳶魚氏ですら、
「我等は、先輩の説に拘らず、二八蕎麦は代価からの称呼と解得したい。ただしたしかな証拠の出るまで」と歯切れが悪い。

面白いことに冒頭の私の疑問に答えてくれるような説を出している人もいる。
笠井俊彌氏で、「二八蕎麦とは二杯で十八文の蕎麦である」という従来になかった新仮説を打ち立てておられる。
笠井氏によれば、享保十一年(一七二六年)ごろに「二八即座けんどん」という看板が存在した。そして、しばらく途絶えたのち、明和(一七六四年~)あたりから頻出するようになり、弘化(一八四四年~)以降は急に見られなくなる。
蕎麦の値段は明和までは大体、七~八銭くらいで、明和になると五割増しの十二文に値上がりした。
「守貞謾考」の寛文四年を採るにしても、享保を採るにしても、一杯十六文では高過ぎるというのが笠井氏の説。
また材料説に関しては、三田村鳶魚も指摘しているように、二割の不純物(=小麦粉)が入っているということをわざわざ看板に挙げて喧伝するだろうかという点の他、蕎麦粉八割、小麦粉二割であれば八二蕎麦だという点、さらには、江戸時代はそもそも主原料十に対し、副原料二を足すという考え方だったから、二割八割という概念が存在しない(あえていえば十二蕎麦になるのだろうか)などを挙げて反対している。
これらの説は少し苦しいかも知れないが「二八うどん」の看板もあるという指摘は、材料説を否定するのに有力である。
江戸時代はよく十の位や百の位を略されたという例を挙げて笠井氏は「二八蕎麦の八は十八の十が省略された形」であるとし、「二杯十八文」の十が略されたとしている。
明和期に値上げに苦しんでいた蕎麦屋が苦肉の策として一杯=十二文から二杯=十八文という価格戦略を行った。
もともと江戸時代には一杯飯が嫌われる傾向があったから、この戦略は当たって、急速に広まった。
この頃、二六蕎麦という看板が見られるようになるが、これは2×6=十二文であり、二杯=十八文の本来の意味からはずれたものが、後に伝えれられるようになった。
以上が笠井氏の説の骨子である。
享保の時分に一杯七~八文であった蕎麦が二杯で十八文というのは割高過ぎる。
明和に一杯十二文に値上げしようとしていた蕎麦を九文(十八文÷2)で売るというのは、店側にとってかなり不利。
この二点が気になったが、どうであろうか?

二八さん、あるいは仁八さんが始めたから、「二八蕎麦」なのだと主張される方もおられる(名前由来説)。
大阪・上方の蕎麦

個人的には、何となく付けてしまったのではないか、と思う(語源不明説)。
「ラーメン二郎」は当時売れていたエースコックの「ラーメン太郎」を真似して付けた名前だという。
こんな話は後世には伝わりにくい。
もうひとつ例を引くと、家の近所に「バビュー」という喫茶店がある。名前の由来をきいたら、言葉自体に意味はなく、語感から何となく付けたという。
子供の名前にしても、漢字自体の意味よりも、語感を重視している傾向があるように思う。
たとえば、一八(かずや)さんが始めたイッパチそばという人気店があって、その店名を真似した人間がニッパチそばという屋号を考え付いた。
二八蕎麦は数字自体には意味がないのだが語感もいいし、まあいいか、といった感じで付けらたにかも知れない。

参考文献:蕎麦と江戸文化(雄山閣出版)笠井俊彌
       江戸の娯楽 江戸の食文化(中央文庫)三田村鳶魚
       近世風俗史(岩波文庫)喜多川守貞
       大阪・上方の蕎麦(HP)



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服部半蔵  ~ 幕末の半蔵はどこにいたか?

2013年10月05日 | 江戸の人物
服部半蔵というと、「忍者の頭領」のイメージが強いが、彼自身は忍者ではなかった。
半蔵というのは継承された俗称で、幕末まで12人の半蔵が存在した。
黒井宏光氏の説では半蔵の「半」は平家の「平」の分解であり、もともと服部家は平家に仕える武将であったという。
もっとも有名な半蔵は二代目半蔵正成である。
その正成でもっとも有名なエピソードは「伊賀越え」である。
伊賀越えについては詳細は省略するが、要点は次の通りだ。
本能寺の変で信長が斃されたとき、家康は少数の部下を伴って堺にいた。
信長と同盟関係にあった家康は包囲網は潜れないとと自決を決心したが、本多忠勝らの進言もあり、思いとどまり浜松まで戻ろうと決意する。
道中、困難を極めたのが柘植村(伊賀町)、鹿伏兎峠(加太峠)ら伊賀越えであった。
その際、活躍したのが服部半蔵正成や伊賀者・甲賀衆であり、家康はその働きにより、半蔵を長として伊賀者、甲賀衆を召し抱えた。
上記は広く伝わっている半蔵正成の華々しいエピソードだが、正成は岡崎生まれの岡崎育ち。地理に詳しい訳でもなく、実際は活躍したかどうか不明だといえる。
ただし、伊賀者ら土地の者が活躍したのは紛れもない事実で、海音寺潮五郎氏も指摘するように、伊賀越えの活躍云々は別にして、それまで功績もあり伊賀にも所縁のある半蔵が伊賀者の長に選ばれたのであろう。
正成は家康と同年齢で、いまも半蔵門に名を残すほど重用されたが、子供の代になると栄華は続かなかった。
嫡子である三代目半蔵正就{まさなり}は、家康の弟である松平定勝の娘を嫁に貰い、家康とも親戚関係となる。
正就にはもはや忍者の面影はひとかけらもなく、生まれながらの大身旗本としての姿しかない。戸部新十郎氏は「忍びの知識そのものも捨てたいと思ったかも知れず」とまで言っている。
とにかく正就は配下の伊賀同心を奴僕のように使い、指示に従わぬ者は扶持米を減らしたというが、正就は会社でいえば部長職であり、社長は将軍である。社員の給与を決定するのは会社であり社長である。減給処分は部長職の権限を逸脱している。
正就の振る舞いは部下のボイコットを招き、伊賀同心は新たに足軽大将大久保甚右衛門の配下となった。これを恨みに思った正就はボイコットの首謀者と思しき一人を一刀の下に斬り殺しているが、これが人間違い。正就は妻の実家である松平家へお預けとなった。降格だけに留まらず、転勤まで言い渡された訳だ。
再起を期した正就は大坂夏の陣に出陣するが、そこで行方不明になっている。奥瀬平七郎氏は「多分、旧配下の伊賀者に消されたのであろう」と書いているが、黒井宏光氏は、越後長岡に逃れ農民として75歳まで生きたと書いている。
一方、四代目半蔵を襲名した正成の次男・正重も手落ちがあり、旗本の地位を失っている。
正重は結局、松平定綱に召し抱えられ、代々服部半蔵は幕末まで桑名藩の家老職を勤めることとなった。
伊賀では半蔵正成の兄である服部保元の子である千賀地半蔵則直が服部半蔵系統の継承者となる。
則直の子である采女が藤堂姓を許され、伊賀上野城代となった。
服部家では、桑名藩の家老、津藩の出先である伊賀上野の城代を産んだわけである。
桑名藩は周知の通り最後まで西軍に徹底抗戦した藩、かたや藤堂采女は鳥羽伏見の戦いにおいて、山崎砲台で佐幕の立場から一気に倒幕に転じた際の最高指揮官であったのが興味深い。

参考図書:忍者の履歴書(朝日文庫)戸部新十郎
      煙の末(伊賀上野観光協会)黒井宏光
      忍術の歴史(上野市観光協会)奥瀬平七郎
      忍者と忍術(学研)
      桑名藩分限帳(桑名市教育委員会)


伊賀上野城

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