木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

イタリア村

2009年05月12日 | 私的名古屋考
愛地球博が開催されたのと同じ年の4月、名古屋港に新しい施設が誕生した。
イタリア村である。
イタリア村ができて最初のGWには、万博とセットで訪れる人も多く、とにかくすごい人出だった。
車で行こうものなら、停めるだけでも何時間待ちという状態。
当初は無料であったが、4月後半からは入場料代わりのチケットクーポンを買うことが義務づけられた。
これは土日に限ったもので当初は500円だったが、途中から1000円に値上げされた(記憶のよると、その後、500円に戻り、最後は無料になった)。
このクーポン券は村内での飲食には使えず、全く「使えない」券であった。
イタリア村自体がバブリーで、中にごく短い運河が流れていて、有料で乗れるゴンドラが浮かんでたりした。中に入っているテナントも聞いたことのない店が多いにもかかわらず、とにかく値段が高い。
イタリア村が倒産して、在庫一掃セールを行った時、50%OFFとか、70%OFFになってもまだ高いと思うような値段設定のものが多かった。
最終セールでは、文房具が捨て売りされており、無駄な装飾の入った鉛筆(装飾の分、とにかく重い!)などが20本100円とかすごい値段になっていたので、100本くらい買った覚えがある。

イタリア村で面白かったのは、セントレアから直行のフェリーを出していたこと。
なかなかいい考えだとは思うが、万博の終了とともに、この施設にも秋風が吹き始めた。
最初は笑いが止まらなかっただろうイタリア村であるが、この設備ではリピーターがある訳もない。
倒産は当然の結果と言えるが、その途端、違法建築、外国人の不法就業などずさんな経営が露呈した。

僕はここのメール会員というのになっていて、イタリア村倒産のニュースが流れた時、かなり真面目な謝罪のメールが来たのを覚えている。
経営陣はいい加減でも、社員の中には頑張っている人もいたのだ。
こういう経営陣には、本当に腹が立つ。



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愛地球博って?

2009年05月11日 | 私的名古屋考
本日の日経にこの夏のボーナスの中間集計が掲載されていた。
多くの企業が前年比割れで、なかには二桁減のところもある。
こうしてみてくると、昨年夏までは、なんだかんだと言っても、経済はましだったのだな、と思う。
ITバブル崩壊、サブプライムローン問題と色々あったが、日本経済はなんとか踏ん張っていたが、今考えると、その踏ん張りの正体も甚だ怪しい。
機能の優れた最新型パソコンだとか、ステイタスとしての高級車だとか、本当に必要かと言えば、そうでない物を押しつけて売っていたに過ぎない。
押しつけていた、というよりも、買うほうが、喜んで買っていた節もある。
携帯電話だって、最新型がすぐに古くなる。
電池の寿命が来ると買い換える人も多い。
ITバブルは、金こそ正義だ、という厚顔な人物を作り上げたが、まだその後遺症を引きずっていたのかも知れない。
そんな中、2005年に愛知地球博が開かれた。
地元では、トヨタ博とも呼ばれたこのイベントは、もろにバブリーっぽいものであった。
最初の頃は入りが悪かったが、あれよあれよという間に、日夜超満員。
会場の長久手というのは、結構不便な場所にあるのだが、そんなデメリットなどものともせず、人があふれかえった。
最終日には、化粧をぐちょぐちょにしながら、大泣きのコンパニオンが続出し、もらい泣きをする客が出たというすごい光景も見られた。
名古屋地区でフリーターが多いというのも、このような場でスタッフを勤め、妙な感動を味わってしまった者が多いから、とも言われる。
それにしても、愛地球博はバブリーであった。




上記の写真はスイス館に付属のレストランのメニュー。上が2000円、下が3000円。一番高いのは3700円というのもあった。こんな機内食の出来損ないのようなものでこの値段はぼったくりだとは思うが、当時はみなにこにこしながら、これらのメニューを食べていた。二人で行って、一万円を支払うといおつりがほとんど出ないような客が多かったように思う。

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愛知県の語源

2009年02月04日 | 私的名古屋考
現在、愛知県は、西三河、東三河、尾張という分け方をされることが多い。
江戸時代、尾張は御三家の藩であったが、三河は細分化されていた。
このふたつの地域が短期間でひとつになるには、かなりの混乱があった。
明治4年7月、廃藩置県が行われた際には、尾張には名古屋と犬山の二県、三河には豊橋、岡崎、西尾など十県が存在した。
このころの郡制はめまぐるしく変わり、同年11月15日には、尾張は犬山を名古屋に編入、三河も額田県ひとつに集約した。
明治5年4月2日に名古屋県は愛知県に改称。
当時、県庁は名古屋城のある愛知郡に位置していたので、名古屋県を改称する際に、愛知県としたのである。
さらに、明治5年11月27日、額田県を愛知県に組み込み、現在の愛知県が誕生した。
ちなみに、このころ、現在の県域を整えていたのは、東京、山梨、山口、秋田、和歌山など数県に過ぎず、大型合併の走りといえる。

このように、愛知県の名前が使われ出したのは新しいが、その語源は古い。
「あいち」は、もとは「あゆち」から来たと言われる。古語で書くと「あゆち」は、年魚市(万葉集)、年魚道、吾湯市(日本書記)、相津(古事記)、愛智(和名抄)などと書かれてきた。
「あゆ」を古語辞典で引いてみると、「(北陸方言)「あゆのかぜ」とも。東(正しくは北東)の方向から吹いてくる風。東風」(学研「新・古語辞典」)とある。
この「あゆの風」がよく吹いていたのが、熱田神宮の東に広がっていた年魚市潟で、現在の名古屋市南区、呼続台地や笠寺台地から見下ろす西側一帯だった。
「各駅停車 全国歴史散歩 愛知県」から引用する。

かつて、この台地は伊勢の海に突き出た半島であった。西側の呼続町から星崎町にかけては遠浅の沿岸で、年魚市潟(あゆちがた)とよばれていた。また東側は鳴海潟とよばれて、知多の浦へとつながっていた。八世紀、「万葉集」が編まれたころ、年魚市潟から鳴海潟にかけては、絶景の海岸線だったという。
年魚市潟 潮干にけらし
知多の浦に
朝こぐ舟も 沖に寄る見ゆ  (作者不詳)
潮が引けば遠浅の海は干潟をあらわし、漁をする小舟もはるかな沖へ遠ざかってしまう。といった景観が、万葉人たちの歌心をそそったのだ。(一部略)


ここでは、あゆちから、東風という意味は取り払われ、はるか海の向こうから吹いてくる風、といった意味で「あゆの風」は使用された。
これが愛知県の語源となったと言う。

愛知県の公式な見解としても、HPを見ると、

「あいち」の地名は、万葉集巻三の高市黒人の歌「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」に詠まれている「年魚市潟(あゆちがた)」に由来するといわれ、「あゆち」が「あいち」に転じ、愛智(郡)の郡名もここから生まれました。
 廃藩置県後、県庁が愛知郡の名古屋城内に置かれたところから県名に採用されました。


と、示されている。
異説もあるようだが、まず順当なところと言っていいのではないだろうか。

県外の人には、三河も尾張も具体的にはどこを言うのか分からないだろうが、境川をボーダーラインとして、西岸が尾張、東岸が三河と呼ばれる。江戸時代、尾張は、終始一貫して尾張徳川家の支配下にあったのに対し、三河は吉田藩や西尾藩、岡崎藩など10藩のほか、旗本領、幕府直轄地などに細分化されていた。
そのせいもあるのか、三河人と尾張人は気質も違う。
17世紀に書かれた「人国記」によると、尾張人は「進走の気強くて、善を見れば善に進み、悪に成れば悪にそむ」とされ、三河人は「偏屈にて我言を先とし、人の述る処またずして是を談じ、命を終わる族多し」とされている。
どちらが、現在の愛知県人気質を言い表しているだろうか。

ところで、愛知県を二分する境川であるが、水源は豊田市三好町にある長田池を水源としている。
この辺りは、天下のトヨタの工場がある場所である。
やはり、愛知を二分するのは、トヨタなのであろうか。

各駅停車 全国歴史散歩 愛知県 河出書房
愛知県の歴史散歩 山川出版社
愛知県の歴史 山川出版社
愛知県HP


名古屋市南区岩戸町の白毫寺(びゃくごうじ)。この辺りの寺は、今や住宅地に囲まれ、行き方が分かりにくくなっている。鎌倉街道とは名ばかり立派な細い道を登った高台に位置する。


白毫寺内の石碑。高台にあるこの位置からかつては、北西の湾が一望できたのであろう。どこか海の見える場所はないかと探したが、今ではマンションやビルが立ち並び、展望を得られる場所はない。
白毫寺の場所は、ここ


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(H25.3.9改稿)

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名古屋のラーメン

2008年06月04日 | 私的名古屋考
名古屋には、名古屋にしかない食べ物がある。しかし、名古屋の人は、それらが全国区であると思っていることが多く、味噌煮込みも味噌カツも北海道でも九州でも普通に食べられると思っている。普通にそう思っているから、自分たちの食べているものの特殊性に気づかず、風評もしていないので、名古屋の食べ物は人知れず、変わっている。その中で、個人的に一番好きなのは、台湾ラーメンである。確かに名古屋にずっと住んでいると、台湾ラーメンが大阪や東京で滅多に見られないことが不思議にさえ思える。台湾ラーメンは辛口の醤油ラーメンに挽肉が乗っている、というのが基本パターンで、今池の味仙が有名。個人的には、瀬戸線沿線の江楽というラーメン屋さんの台湾ラーメン辛口が好きであるが、これは相当に辛い。一時期、台湾ラーメンと並んでブームになりかけたベトコンラーメンというものもある。これは、新京というラーメン屋さんが始めたもので、ベストコンディションラーメンの略だとか。にんにくをごろごろと入れた濃いめのラーメンは癖になる。だが、台湾ラーメンのようなポピュラリティは獲得できなかったようである。ただし、ベトコンラーメンは大阪や東京でたまに見かけることがある。名古屋の人は、昼にボリュームを求めるので、ラーメンにも量を求める。名古屋での人気店本郷亭もかなりボリュームのあるラーメンに昼はごはんが無料である。そのご飯も自分で自由にとっていいので、多くの人は丼にとって食べている。漬け物もただなので、ラーメンが来る前にサラダでも食べるかのように丼飯を食べる名古屋人の胃袋には脱帽。個人的に、コストパフォーマンスがとれていて、最も好きなのは、ラーメン福である。もやし多めと言うと、これでもか、というくらいの大盛りで登場。とにかく、名古屋の昼は量が多い。

味仙の台湾ラーメン

名古屋考⑤

2008年06月02日 | 私的名古屋考
名古屋は公園が多い。そして、緑に囲まれている。東山動物園という市民に人気の動物園があるのだが、ここなども観覧車に乗って上から眺めてみると、森の中の動物園という感じだ。この中にも小さな遊園地があるのだが、特筆すべきは、乗り物の安さ。ジェットコースターが300円であるだけで、後は200円。回数券は2000円で24枚綴りだから、2000円使えば家族4人で3つの乗り物に乗れることになる。愛知には、こうした格安の公園がたくさんある。岡崎市営南公園堀内公園、刈谷交通公園など、小学生低学年向けではあるが、格安の遊園地がたくさんある。その他にも尾張旭にある森林公園など、200円(中学生以下無料)を払って植物園のほうへ行くと、見たこともないような立派かつ広大な芝生で横になれる。こと、公園、遊園地では、名古屋、愛知は、かなり恵まれている。
ところで、冒頭の東山動物園は、東京の上野動物園に続いて、永らく入場者数日本2位の地位を占めていたが、近年北海道の旭川動物園にその座をとって代わられた。名古屋人にはショックなニュースで、すぐさま再生プランを制定したところは、負けず嫌いの名古屋人らしい。ちなみに、この動物園に来る人も車で来る人が多く、動物園近くの駐車場は朝早くから車の行列となっている。

名古屋考④

2008年05月30日 | 私的名古屋考
名古屋の一部の道路にはバスレーンというゾーンがある。分かりやすいよう赤っぽい色で舗装されていて、建前はバス専用の道路だ。片道3車線あると、一番真ん中に近い部分に設けてある。バス停も道の真ん中にあるのだが、その部分は広島と同様に屋根付きの停車場が出来ている。バスレーンは、その停車場がある関係上、完全にまっすぐという訳でなく、ぐにゃぐにゃと曲がっている。バスレーンには、一般車も平気で通っていて、しかもスピードを出して飛ばしている車が多い。よそ者がこのバスレーンに入ると恐怖である。普通に走っていると、バス停付近で、バスレーンは急に曲がり、そのまま普通に直進していると、対抗のバスレーンに入ってしまいそうになる。おまけにゆっくり走っていると、後ろから煽られる。恐怖というとバスレーンがある道路での右折も怖い。片道3車線だと、中央から順に、バスレーン、右折レーン、直進レーンとなる。右折車は、曲がろうと停車している時に、左右から抜かれていく。信号に右折の青信号が出ても、対向車だけでなく、右レーンの直進車にも気を付けなければならないのである。バスレーンには、極力入りたくない。

名古屋考③

2008年05月29日 | 私的名古屋考
名古屋には、平和公園という147ヘクタールにも及ぶ広い公園がある。ロケーションは市中心部とは言えないものの、それでも、名古屋駅からでも地下鉄に乗って17分。近くには人気のある街、星ヶ丘も近く、十分に都市部である。この公園は桜などでも有名だが、何と言っても凄いのは、19万基とも言われる墓が集中していることだ。墓地としての歴史は浅く、名古屋市内に点在していた墓をここに引っ越しさせたのは、昭和22年から32年のことだという。278カ所にあった墓を半ば強制的に移動したというから、その意気込みは凄い。名古屋では、現在、緑が丘公園というところにも、36000基の墓を建てており、集中させるのが好きなようだ。都市部にこれだけの数の墓が一カ所に集中しているというのは、珍しいことでなないだろうか。

名古屋考②

2008年05月28日 | 私的名古屋考
名古屋の地下鉄に乗っていて不思議に感じることがある。改札横の駅員事務室にマイクがあることだ。気を付けていると、改札を入る、出るたびに、駅員さんがマイクを通して「ありがとうございます」と挨拶をしている。サービス?がいいようだが、爽やかな駅員さんだけでなく「ありゃあます」(と聞こえる)と、低く呟くように言う駅員さんもいて、あまり愉快な気分になれない時もある。地下鉄に乗ると、網棚がない車両(正確に言うと、ごく一部しかない)があったり、カーテンが付いている車両もある。ホームに降りると、表示が不親切なのは、関西と同様。トイレに行こうとすると、改札の外に出なくてはならないことが多い。首都圏や関西は、トイレが改札内にあることが多いのに、名古屋地下鉄は改札外にあるのがほとんどだ。なんとなく不思議な気分になる。


名古屋考①

2008年05月15日 | 私的名古屋考
名鉄線で職場まで通っている。最近、面白いことに気が付いた。満員電車なのに、反対側の扉付近では悠々と新聞を読む人がいる。これはどういうことであろうか。この名鉄線は、途中のほとんどの駅で片側しか扉が開かない。開かないほうの扉付近に立っている人はかなり初期の段階から乗っている人であろう。その人たちを扉一列目とすると、二列目頭上に吊革がある。その吊革に掴まっている人は、どういうわけか、吊革を死守している。すると、後ろからどんどん乗客が押し寄せても、二列目の人が1列目のナイトよろしく後ろをブロックしているような格好になって、1列目の人は悠々なのである。片側しか開かないこの名鉄線に限った現象なのかもしれないが、なんともへんてこりんな現象である。2列目のナイトの中には、ターミナル駅で大量に人が降りる時にも、吊革を離さない人がいる。困った人たちである。