木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

清正橋

2014年07月30日 | 江戸の交通
小牧の近くに味鋺{あじま}という地名があり、味鋺神社がある。
その境内に移設されたのが、清正橋である。
清正橋は徳川家康が名古屋城を築城する際、豊臣秀吉に所縁の深い諸大名に重い荷役を負わせてところから始まる。
加藤清正は、家康の命があると率先して名古屋城築城に参加し、石の産地であった小牧の岩崎山近くの味鋺に、橋を架けさせた。
今見ると、ただ六枚の石が並べられているに過ぎないが、往時はこの倍くらいの規模であったらしく、中山道に到る参勤交代の行列も通ったと言う。
地元の人は、清正橋とは呼ばず、石橋と呼んでいたらしい。
清正が造らせたかどうかは別としても、歴史的に大変価値のある古い橋である。
ややこしいことに、この近くには年貢橋という橋もあり、年貢橋も清正橋と呼ばれている。
年貢橋も石橋も形状が酷似している。
形の似た橋が近くにあるという事実からすれば、清正が造らせたとの言い伝えも案外、本当なのかも知れない。

加藤清正は、強い反りを持たせ強度を高めた石垣を発明したことでも分かるように、築城の名人だった。
秀吉に大きな恩ある身でありながら、徳川政権になるや、家康にも真っ先に恭順の意を示している。
同じ築城の名人とされた藤堂高虎も素早く身の処し方を変えると言われたが、二人に共通しているのは、根本に誠実さがあることだろう。
単に権力に迎合していただけでなく、自分の信念に基づきリーダーの下にあっては誠心誠意尽くしたという点は評価に値するのではないだろうか。



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戦争資料館・愛知県~ピースあいち

2014年07月29日 | 日常雑感
ハーグ条約という戦争に関する国際条約がある。
この法律について知ったのは、愛知県にある「ピースあいち」に行ってからだ。
ハーグ条約では戦争に関する様々な取り決めが行われた。
捕虜に対する処遇などもある。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のマイケル・J・フォックス主演の「カジュアリティーズ」はベトナム戦争時の捕虜にした少女のレイプ問題を扱った映画だった。
マイケルは、レイプという犯罪行為を行った同僚を告発し、結果的には勝利を得る。
反戦映画に違いないのだが、「アメリカにも良心を持った軍人はいる」といった自己主張が見え隠れする。

B29がアメリカからやってきて日本全国を大空襲して行った。
ハーグ条約によると、空襲していいのは軍事基地および、軍事工場のみである。
東京に続き、名古屋も大空襲にあっている。
その際に名古屋城も炎上している。
名古屋城のすぐ近くに軍事工場はあったのか?
爆撃は三菱重工業の大幸工場を狙ったものとされるが、あまりにも広範囲にも及んでいる。

ハーグ条約からみると、アメリカ軍の空襲のほとんどが国際法違反だ。
捕虜のレイプを取り上げても、空襲違反を取り上げる映画はない。
地上何千キロだか知らないが、空の上の飛行機からでは原爆を落としたとしても、地上の悲鳴も、横たわる死体も目にしない。
考えてみれば、戦争になって国際法を守っている国などない。
違反しても裁く機関がないからだ。

何回も言っているように、幕末における幕府と西軍の戦いの中で正義はない。
国同士の間の戦争にあっても、正義などない。
自分の主張が通らなかったら、殴っても奪う。
それが戦争だ。

話がだいぶ脱線したが、「ピースあいち」の建設は当初、官主体で行われた。
長い話し合いのうち、官が提出したのは、おなじみの「資金不足」である。
ここで救世主が登場する。
加藤たづさん。
当時、80歳代だったたづさんは、土地と1億円の資金を寄付している。
ありあまっていたお金ではない。
あくまでも、有志の意見に賛同した上での振る舞いだった。

保守的とか、大企業的とか、なにかにしろ言われがちな名古屋だが、民意主導というのは、隠れた美徳に違いない。



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徳川宗春の墓と金網

2014年07月21日 | 江戸の人物
八代将軍・徳川吉宗と張り合った尾張徳川の徳川宗春は、吉宗との政争に敗れ、謹慎処分となった。
元文四年(1739年)のことである。ときに、宗春三十歳。
六十九歳で没するまで、宗春は政治と離れ、ひっそりと暮らす。
この辺りは最後の将軍であった徳川慶喜と似ているが、宗春の場合は外出も許されなかったから、籠の中の鳥として寂しく生き延びた。
政敵・吉宗は宝暦元年(1751年)死去。
吉宗の死去三年後の宝暦四年には、宗春は三の丸から下屋敷に移ることを許される。
その後、幾分か処置は緩和され、特別の場合の外出も許可された。
明和元年(1764年)、死去。
葬儀は尾張徳川の菩提寺である建中寺にて行われ、同寺に墓も建立された。
死後も謹慎処分を解かれていない宗春は、死してもなお墓に金網が被されたと言う。

ここで問題となるのは、墓の金網だ。
私も何の問題も持たずに、事実だと信じ込んでいたが、どうも事実というにはあやふやだ。
まず、宗春の墓に金網が被さっていたというのは、どこからの引用か判明していない。
確かな著書に事実が記されている訳ではない。

謹慎処分から三十年後の死去の際には、政敵・吉宗もこの世にいない。
誰が金網を被せるように指示したのだろうか。
将軍の座には、家重を経て、家治が就任している。
家治は吉宗の孫であり、吉宗の英才教育を受けている。
老中主座には、吉宗の頃から幕閣にいる松平武元。
この二人ならあり得る指示と思わせるが、家治と武元は田沼意次を重用している。
政策的には倹約から宗春が提唱した産業振興政策に移行しつつあった。
自分たちの政策を棚に置いて、過去の亡霊となった宗春に今さら構うのも、藪蛇になる恐れがある。
また、御三家筆頭にありながら、将軍を生み出していない尾張家を下手に刺激するのもどうかとの思惑もあったはずだ。

もともと金網とは罪人にの墓に被せるものだ。
たとえば、小塚原の回向院の例を見てみると、ねずみ小僧だとか、高橋お伝などの墓に金網が掛けられている。
こういった罪人と並んで、幕府が御三家筆頭の尾張元藩主の墓に金網を掛けるとは到底考え難い。

松平定信は老中主座になると、かつての政敵・田沼意次の墓を潰し、相良城を破壊した。
これは、相手との間にあきらかに力の差があるからであって、尾張家と将軍家の間にはそれほどの力差はない。

考えてみればみるほど、宗春の墓に金網説は怪しい。
清水の次郎長=大男説と同じ類なのかも知れない。

参考資料:徳川宗春(風媒社)北川宥智
     規制緩和に挑んだ「名君」(小学館)大石学



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山岡鉄舟と明治天皇

2014年07月20日 | 江戸の人物
山岡鉄舟は頑固一徹というか、信念の人だった。
剣豪と呼ばれながら、乱れた幕末の世にあって、ひとりも斬ることがなかった。
彼の根本にある思想は「剣禅一致」と「勤皇」である。
幕末、幕府側にありながら、常に勤皇の意思を持ち続け、明治になってからは、禅によって剣の極致を極めんと日夜努力した。
明治十三年、「天地の間には何物もないのだという心境」になって悟りをひらいた。
そんな鉄舟には興味深いエピソードが数限りなくある。
明治天皇と相撲を取った、という話も面白い。
鉄舟は、明治五年、西郷隆盛と岩倉具視らに求められて宮内省御用掛になった。
明治天皇二十一歳の時で、この後、天皇が三十歳になる血気盛んな十年間を傍に仕えた。
日時は詳らかでないが、ある日の晩餐で酒杯を重ねた天皇は法治国家の重要性を口にし、「道徳など何の役にも立たない」と極論した。
これに対し、酒席で議論が起こり、意見を求められた鉄舟は天皇に反論した。
天皇は俄かに厳しい形相となり、唐突に「相撲を取ろう」と言いだした。
鉄舟は座ったまま立とうとしない。
天皇は「ならば座り相撲だ」と言い、鉄舟を倒そうとするが、鉄舟はびくともしない。
しびれをきらした天皇は、目を突こうと飛び込んできたので、やむを得ず鉄舟は身体を僅かにそらした。
その拍子に天皇は前のめりに倒れて「無礼な奴だ」と怒る。
その後、別室で控えさせられた鉄舟は周囲に「謝罪せよ」と勧告されるが、固辞した。
「なぜ、わざとでも倒れなかったのか」との問いには「倒れれば、自分が陛下と相撲を取ったことになる。
君主に仕える身が君主と相撲を取るなど道に外れることだ」と論破。
「避けた拍子に陛下が転んだ」との指摘には、「酔った席で陛下が臣下の目を砕いたとあっては天下に暴君と呼ばれるであろう」と指摘。
開き直っているのではない。
「もし陛下がわたしの措置を不服とするのであれば、この場で腹を切る」と加え、別室に留まった。
陛下は休まれたので一旦帰れ、との侍従の言葉にも頑固として首を縦に振らず、端坐したまま夜を明かす。
翌朝、目覚めた天皇は、まっさきに「山岡はどうした」と尋ね、「別室にて控えております」との返事を得ると「朕が悪かったと伝えよ」との言葉を残した。
鉄舟は天皇の謝罪の言葉を聞いても満足せず、「実のあるところをお示しください」と要求。
ついに天皇は「以後、相撲と酒はやめる」との言葉を得た。
鉄舟はこの答えに落涙し、以後、自らの意思で自宅謹慎し、一ヶ月後にやっと出仕した。
その際には、ワイン1ダースを手にしていた。
天皇はワインを見て「禁酒のほうは、そろそろやめにしていいのか」と聞き、鉄舟が頷いたので、美味しそうにワインを口にしたとのことだ。
主従関係の在り方として、何ともいい話だ。

その鉄舟は明治二十一年七月十九日、九時十五分、座禅のまま五十三歳の短い生涯を閉じた。



鉄舟に手よる達磨の図

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モモンガの爪攻撃

2014年07月14日 | モモンガ
モモンガを部屋で遊ばせるときは危険物の少なそうな決まった部屋で行う。
キッチンのような場所で放すと危険なだけでなく、冷蔵庫の裏辺りが気に入って出て来なくなるときがある。
安全だと思っても、何があるか分からないので、目をはなさないようにしているのだが、ふといなくなってしまうときがある。
カーテンの裏辺りが怪しいと思ってめくると、エイリアンのように顔の向かって飛んでくる。
やめてくれよ、心臓に悪いから。

またあるときは、頭上からランボーのように背中に急速落下。
モモンガの爪は鋭く、服の上からでも十分に痛い。
厚着の冬はいいだろうと思っていると、服の裾から直接肌に侵入。
パジャマの下から侵入してきて、襟のところから、がばっと顔を出す。
またもや、エイリアンモード。
これを繰り返されると、肌に軽いミミズ腫れのような痕が残る。
痛むほど深いものではないが、少々痛痒い。
傷に気が付かずに、プールに行ってしまって、カッコ悪かった!



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