木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

広瀬元恭と戊申戦争

2009年07月02日 | 江戸の学問
前回取り上げた梁川星厳も、今では知る人も少なくなってしまったが、広瀬元恭となると、知っている人はもっと少ないのではないだろうか。

広瀬元恭は、山梨の生まれで、江戸に出て蘭学を学んだ後に京に引っ越している。
この元恭は、梁川星厳とは江戸にいる頃からの知り合いであったが、京にあって親交の度を深めた。
元恭は、星厳とは奇妙な共通点があった。
星厳と同じく元恭の妻・イネもハモから感染したと思われるコレラに罹って死んだ点である。
逆に言うと、幕末の京阪では、ハモから罹病してしまうコレラが多かったのであろう。

元恭の門下生としては、東芝の創業者となる田中久重や日本赤十字社を設立する佐野常民などがいる。
蘭学者であり、医者でもあった元恭は、種痘を日本に伝えた人物としても有名である。
しかし、当時の元恭の名を有名にしていたのは、むしろ蘭学者としてよりも兵法家としての実績からである。
津藩は元恭の学識に注目し、何度も依頼して、やっとのことで藩講師になってもらっている。

津藩といえば、戊申戦争で山崎関門を守っていたことで有名であるが、この関門の設計を行ったのが、元恭である。
山崎関門は勝海舟の建議によって設立された。
有事の際、大坂港から入った異国船が京を目指す場合、淀川を上ってこの場所を通る。
両岸から挟撃できるこの場において、敵を叩こうと作られたのが山崎関門である。
高浜、神内に砲台場が設けられ、24ポンドカノン砲が据えられた。
戊申戦争ではアームストロング砲の威力がことさらに喧伝されるが、このカノン砲も威力があった。

「要塞砲としては最大射程を持つといわれている二十四ポンド加農(カノン)砲でさえ二千八百米を飛ばすのがやっとであるのに、このアームストロング砲ならこのちっぽけな砲でらくらくと四、五千米飛ばすことができるという」
『アームストロング砲』(司馬遼太郎)


上記の表現からみると、射程距離ではアームストロング砲のほうが優れているが、アームストロング砲は弾詰りも多く、爆発事故も起きている。その点、カノン砲のほうが安定していた。
川幅900mの淀川の対岸には若狭・小浜藩の守る樟葉砲台があったが、火力の差は歴然としていて、津藩の死者は一人、怪我人10名にとどまったのに対し、幕府軍の死傷者は300名を越えた。
ここまで差が出たのは、高浜の砲台に援軍に来た長州兵の腕の確かさなどもあるのだろうが、元恭の設計がよかった点も大きいと思われる。
戊申戦争のターニングポイントとして、山崎関門での津藩の幕府軍への攻撃がクローズアップされるが、その攻撃も元恭の力なしには成されなかったのである。


「京都時習堂~幕末の蘭医 広瀬元恭の生涯」 鬼丸智彦 アーカイブス出版
「アームストロング砲」 司馬遼太郎 講談社文庫
「幕末維新戦記」 横山高治 創元社

鬼丸智彦氏のHP

東芝と広瀬元恭の関係はこのHP
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梁川星巌の肖像画

2009年06月30日 | 江戸の学問
中原中也は、帽子を被った写真が有名である。中也というと大抵の人が頭の中に思い浮かべる例の写真である。
この写真は非常に写りがいい。いかにも「汚れちまった悲しみに」を書きそうな純真な青年に見える。
もし、この写真がなかったら、中也の人気はこれほどのものにならなかったかも知れない。

梁川星厳。妻、紅蘭。
まるで中国歌劇俳優の名前のようであるが、れっきとした日本人である。名前の持つ語感から、美男美女を想像する人もいるかも知れない。
しかし、今に残る二人の肖像画は、もう少しどうにかならなかったのか、と思ってしまう代物である。
中国への憧れがあり、多分に唐化された絵であるとしても、あまりにも、という絵だ。
当時と今では美的感覚に大きすぎるずれがあるのだろうか。
妻の紅蘭の絵もひど過ぎる。
せっかくの肖像画なのだから、もう少し何とかならなかったのだろうか、などと思ってしまう。

梁川星厳。
寛政元年(1789年)に大垣に生まれ、安政の大獄がまさに吹き荒れようとする安政五年(1859年)に70歳で亡くなっている。記念館は、星厳生誕の地に建てられている。
幕末当時、星厳は詩の世界において、非常に有名であった。
吉田松陰や頼山陽とも親交が深く、尊皇思想のPR塔のような役割も果たした。
その知名度が今では低いのは、当時星厳が名を成した七言絶句などの詩が現代では全くマイナーな分野になってしまったからでもある。

星厳が著名であったのは、津の『有造館』督学(校長)も経験した土井贅牙と弟子との会話でも分かる。
あるとき、九州の広瀬淡窓が津藩にやってきた。
その際に、門人が贅牙に向かって「先生は淡窓に会いに行くのですか」と質問したが、贅牙は次のように答えた。
「余は、昨年に梁川星巌が来た際も会わなかった。星巌にすら会わなかったのだらから、淡窓などに会う訳がない」
非常にプライドの高さを感じさせる発言であるが、別の捉え方をすると、梁川星巌の評判はそれほど高かったのだという裏付けにもなる。

星巌は、奇人であることがことさらに強調されがちであるが、作風や思想を見ると、奇をてらわず、むしろ正統派といってもいいものであることが分かる。
彼が考えていた代表的な考えとしては『三教由来同一源』というものがある。
これは「その教えの源を遡っていけば、儒・仏・道の三教相違ならず」というもので、合理的な考え方である。

しかし、行動をみると、やはり奇人としての行いも多い。
新婚後まもなく、さしたる理由もなく家を出てしまい、二年間もの間、留守にしたこともあった。
妻の紅蘭もよくその奇行に耐えた。というよりも、むしろ奇行に自ら参加している、といったほうがいいのかも知れない。

星厳は、美食家であった。
大坂に旅した折り、時季はハモの頃。
当時、大坂ではコロリ(コレラ)が流行っており、ハモを食べるとコロリに感染すると言われていた。要するに生ものに菌が付着していたのであろう。
ハモが食べたくなった星厳は、友人からコロリへの感染が心配なので食べないように言われるが、星厳はどうしてもハモが食べたくなって、食したところコロリに罹ってしまったというのである。
なんとも人間臭い話である。

梁川星厳記念館 大垣市曽根町1-772 華渓寺境内  0584-81-7535
           (入館無料。会館時間などは問い合わせたほうがよい)
 



記念館裏手にある曽根城公園内にある星厳と紅蘭の像。ふたりとも「普通の」顔をしている。


星厳肖像画。まるで伝説の仙人といった趣。


なんか意地悪そうな顔の紅蘭。紅蘭は旧名を景と言い、星厳の又従兄弟であり、生徒でもあった。一回りも年の違う紅蘭は夫をよく理解した。夫唱婦随と言われ、5年の間、西国を中心に諸国を漫遊した。二人の肖像が美男美女に描かれていたら、JTBあたりの旅行会社のCFに出ていたかも知れない。

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川本幸民と蛋白質

2009年04月04日 | 江戸の学問
タンパク質を漢字で書くと、蛋白質となる。
この蚤(のみ)にも似た蛋という字の意味はトリの卵である。
以前から、分かりにくい言葉だと思っていた。
なぜ、このような見慣れない漢字が使われるのだろう?

オランダ語では、eiwit で、ei は卵、 wit は白であるので、本来は「卵白」と約すのが普通だ。

この語を初めて日本に紹介したのは川本幸民。
文久元年(1861年)に『化学新書』を著した幸民は、蛋白の他に、葡萄(ぶどう)糖、乳剤、尿素などの語も紹介している。
「化学」という言葉を使用したのも幸民が初めてで、それまでは「舎密」(せいみ)と言っていた。

「卵」には、象形文字で「男性性器」の意味もあると言う。
これを幸民は知っていて、わざと「卵白体」とせず、「蛋白体」という表現を使った。
そのせいで、確かに意味が分かりづらくはなってしまった。

幸民は、そのほかに日本で初めてビールやマッチを作ったりもした。
これらを事業に結び付けていれば、金銭的な成功を得られたのではないかと思うが、幸民は学者肌であったようだ。

ただ、幸民には人間臭いエピソードも多い。
酒席で上司を刀で斬り付け、謹慎処分になったり、マッチの発明では、軽い愛想のつもりで「マッチなどという便利なものができたら50両支払いましょう」と言った人物に、きっちりと金を支払わせもした。

幸民は、今ではあまり知名度がないが、故郷の兵庫県三田市では、幸民を軸として町おこしを狙うプロジェクトまでできている。(詳細は、ここ

幕末から明治初期にかけて、化学の地位は低かった。
その実用性が認識されていなかったからである。
その中で、宇田川榕菴、川本幸民、あるいは、上野彦馬といった日本人と、ポンペ、ワグネル、ハラマタといったオランダ人教師たちが細々とながら、現在に脈々と繋がる日本の化学の基礎を築いた。
その道は、一朝一夕に成ったものではなく、凸凹な悪路ではあったが、未来への夢が見える道であっただろう。
今、化学の道は出来上がり、立派なものとなったが、果たしてその先に夢は見えているのだろうか。

(参考文献)
日本の化学の開拓者たち (裳華房) 芝哲夫

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埋もれた偉人ワグネルと島津製作所

2009年03月31日 | 江戸の学問
明治8年(1875年)の今日、京都に島津製作所が誕生した。
創業者の島津源蔵は、もとは家業の仏具屋を継いでいたが、京都舎密(化学)局が開設されたことが大きな契機になった。
舎密局の校長は、明石博高(ひろあきら)であったが、明石は、舎密局が単なる学問の場になるだけでなく、地場産業振興をも目的にした。
そのせいもあり、門戸は広く解放され、源蔵は舎密局に足繁く通うようになった。
このとき、既に来日していたドイツ人学者ゴッドフリード・ワグネルが招かれた。
ワグネルは、七宝焼きや有田焼など日本の伝統工芸の発展にも尽力したのであるが、源蔵には足踏み式の旋盤などを贈り、使い方を指導した。
これが、島津製作所の創立に繋がっていく。

幕末、長崎に海軍伝習所ができたが、その際、教師陣の中にオランダの若き軍医ポンペの姿も見られた。
ポンペは医学を教授したが、彼は、医学は広範囲な学問に繋がるもの、として物理学や化学なども必修科目に加え、自ら講義した。
彼は、教科書を使わなかったが、授業の際に毎回、手製のメモを用意した。
そのメモの底本となったのが、ワグネルの著書であったと言われる。

2002年、島津製作所の社員である田中耕一氏がノーベル化学賞をとって話題となった。
島津製作所なくしては、田中氏もあり得ず、ワグネルなくしては、島津製作所もなかったかもしれない。
ワグネルは、その後、東京大学や東京工業大学で教鞭をとることになる。多くの外国人教師が、任期を終え母国に帰国していったのに対し、ワグネルは、37歳で来日し、61歳で没する24年の間、日本に滞在し続けた。墓地は青山霊園にある。

ワグネルは、今日ではあまり知名度がないが、明治以来、綿々と繋がっている化学の脈流の真ん中にどっかりと腰を降ろしていることには変わりない。

足踏み式旋盤については、こちらを(展示室のご案内→第一展示室の順にクリック)

参考文献
日本の化学の開拓者たち (裳華堂) 芝哲夫

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