毛利元就が三本の矢を示し、一本では折れやすい矢も三本束ねると折れにくい、だから、兄弟も力を合わせるように、と子供たちを諭した話は有名である。
実際に元就が、子供たちを前にしてこのようなデモンストレーションをしたとは思いにくいのだが、この話の素となるような書を元就は残している。
山口県の毛利博物館に残されている「毛利元就三子教訓状」と呼ばれているものである。
この書は、弘治三年(1575年)に表されたもので、元就をして「これまで山々申したいと思っていたことは、これで言い終わった」と言わしめるものであった。
元就と言うと、勇将のイメージがあるが、この書を読むと、まず文頭で「この書状の中にも誤字もしくは『てにをは』の誤りもあろうからご推量願いたい」と実に細かい断りを入れていることに驚かされる。
また、「元就は意外にもこれまで多数の人命を失ったから、この因果は必ずあると心ひそかに痛く悲しく思っている」などと書き、別の項では、「朝日を拝んで念仏を十遍づつ唱える」、「元就は不思議に思うほど、厳島神社を大切に思う心があって、長年の間信仰してきている」と信心のほどをのぞかせている。
三本の矢に準じたことはしばしば述べられているが、「事新しく申すまでもなく、三人の間柄が少しでも疎隔することがあれば、三家は必ず共に滅亡するものと思われたい」と書かれた辺りに元就の気持ちが凝縮している。
三矢とは、隆元(毛利)、隆景(小早川)、元春(吉川)の三兄弟であるが、元就には、この三人のほかにも、六人、全員で九人の子供がいた。
この文書が書かれた弘治三年には、まだ元治、元康、秀包の三人は生まれていなかったので、この当時は、六人兄弟である。
元就は、三兄弟以下の三人についても、ちゃんと書いている。
以下に記す。
「ただいま元就には虫けらにも似た分別のない庶子がいる。すなわち七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶(もととも)などである。これらの内で、将来知能も完全に人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ何方の遠境になりとも封ぜられたい。しかし大抵は愚鈍で無力の者であろうから、左様な者に対しては如何様に処置をとられても、それは勝手であって何の異存はない」
あまりにひどいような……。
原文で見ても「唯今虫けらのやうなる子ともとも候」と間違いなく、虫けらなどと言われている。
人情としては、虫けらと呼ばれた庶子がどう成長したか調べてみたくなる。
元清 ・・・ 備中猿掛城・三村氏の一族穂井田元資の養子となり、数々の武功を挙げ、広島城の構築にも活躍。享年四十七歳。
元秋 ・・・ 月山富田城(島根県安来)の城主となる。享年三十四歳。
元倶 ・・・ 石見国出羽元祐の養子となるも、十七歳で夭逝。
ちなみに、三兄弟の享年を見てみると、
隆元(六十四歳)、隆景(六十五歳)、元春(五十七歳)と「虫けら」と呼ばれた庶子よりも高齢である。
しかし、一番高齢まで生きたのは、元就で、七十五歳の歳に没している。
いずれにせよ、元就の実子たちは、関ケ原の戦いの翌年までには全員が没し、その後は初代長州藩主となった元輝ら、元就の孫たちの時代となる。
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