木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

虫聴き

2012年05月30日 | 江戸の文化
虫聴きという言葉を知ったのはもう随分前で、東京は墨田区にある向島百花園に行った時だった。向島百花園は以前から夏から秋にかけて虫聴きの会を行っている。
だが、江戸時代、虫聴きの場所として名高かったのは道灌山である。
道灌山は現代に残っていない地名であるが、JRの日暮里から田端の線路の辺りである。
感じとしては、京浜東北線の田端から赤羽に向かっていく左手に見える丘が道灌山のようにも思えるが、その感覚は半ば当たっていて、古くは日暮里から赤羽の丘をも道灌山と言ったらしい。
確かに日暮里の辺りは高台であり、江戸時代には日光、筑波の山並み、下総の国府台などが見え、近隣も一望できた。

さて、虫聴きであるが、花見のように、虫聴きは酒の口実で、実際のところは酒を飲みたかっただけのようにも勘ぐることができるが、「詞人吟客ここに来りて終夜その清音を珍重す」と江戸名所図会にもある通り、主役は酒ではなく、あくまでも虫の声だったようだ。
下の絵は江戸名所図会からの抜粋だが、三人の男が思い思いに虫の声を楽しんでいる。酒を飲んではいるようだが、何とも風流な光景だ。今の花見のように、カラオケやラジカセを持ちこんでドンチャンというのとはえらく違う。江戸の夜は本当に暗く、静かだったから、このような場所に来たら、場合によっては一晩をここで明かしたのかも知れない。
江戸の町内に住んでいる人は現代で言うキャンプのような感覚で虫聴きを楽しんでいたのだろうか。
男三人で、虫の声を聴きながら酒を飲む、というのは、やはり風流だ。
現代の感覚からすると、どんなイベントが近いのだろう。いずれにせよ、気が合う友人というのは、有り難い。
年齢を重ねてくると、若いときとは違って段々、ものの考え方が狭まってきてしまうものだが、価値観が似通った友人は何事にも代えがたい財産である。

虫売りも江戸の町には存在した。
飼っている間は、虫の声を楽しみ、盆に放してやるのが一般的だったので、6月上旬から7月盆までがピークの商売で、盆以降は売り上げが減った。
虫の種類としては、ホタル、コオロギ、松虫、クツワムシ、玉虫、ヒグラシなど多くの種類がいた。
生き物商売だからか、棒手振りのような行商よりも、固定店舗(といっても屋台のようなものが多かった)での販売が多かったという。
現代では、鳴かなく外来種のカブトムシだとかクワガタが人気だが、これも時代なのだろう。
カブトムシやクワガタも悪くないが、少なくとも風流ではない。

そういえば、虫の声を楽しむのは日本人だけだ、といった内容を耳にしたことがあるので調べてみると、ドイツではこおろぎの声を楽しむためにカゴを用意していたらしい。
ただ、多くの種類の虫を聴き分けるというのは、繊細な日本人ならではの感覚のようだ。
インターネットを調べていて、ドイツ人はチョコレートコーティングしたコオロギを食べる、というサイトを発見したのだが本当だろうか。もっとも、コオロギはフリーズドライした原型を留めないもので、ジュリア・ロバーツも愛食していると言う。一種の健康食のカテゴリーなのだろう。
日本人はもっとワイルドでイナゴだとか、タガメだとか、ザザムシを食べて来たのだから、驚くには足らない。イナゴの唐揚げだけは食べた経験があるし、また食べていいと思うのだが、残りは食べる気がしない。もっとも、イナゴだとかタガメなどは、残留農薬のほうが心配だ。

おまけとして、虫の声を聴けるサイトを発見した(real playerが必要)ので載せて置きます。

参考: 江戸名所図会を読む(東京堂出版) 川田壽著



鈴虫の販売をしている松井スズ虫研究所
(以前、何回もここからスズムシを買っていました。懐かしい!)

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丁稚・手代・番頭~商人のドレスコード

2012年05月29日 | 江戸の暮らし
今はすたれてしまった感のあるスキー。
その昔は服装によりそのスキーヤーの腕前(足前?)が分かった。
それがいつの頃か、服装だけではスキルが分からなくなってしまった。
考えてみると今は、会社でも部長よりも新入社員のほうがいい背広を着ているかも知れないし、逆にベンチャー企業では若い社長がポロシャツで出勤している。
見た目では階級が分かりにくくなっている。名刺を見ても、管理職はみな「マネージャー」と括っている企業もある。ますます、誰が偉いのか分からない。
その点、江戸時代はきっちりとした身分社会であったから、商人であっても、例外ではなかった。
のんびりとした印象のある江戸時代、大店と呼ばれる店においては、過酷な出世レースが繰り広げられた。
たとえば、京都に本店のある「白木屋」だと、10歳から12歳くらいの寺子屋で成績優秀な子供が採用され、江戸に送られた。
いわゆる丁稚である。
この丁稚が初めて故郷に帰ることを許されるのは、なんと9年後である。これを初登りと言った。
その間は当然、一回も故郷には帰れない。思春期にも満たない年端の子供には辛い修業に違いない。
丁稚が成人すると若衆と呼ばれるようになるが、初登り後、再び江戸に戻った奉公人は手代へと昇進する。
その後は、平手代から小頭役年寄役(組頭役)支配役と役は進むが、椅子取りゲームになっていくのは現代と変わらない。
小頭役以上は、毎年進退伺いをすることになっていた。
現代でいえば、一年ごとに契約更新する役員のようなものであろう。
支配役になっても店に住み込んで暮らしている以上は結婚もできなかった。
30歳くらいに、結婚を機に退職し、第二の人生を送る者も多かったらしい。

話は冒頭の服装に戻る。
白木屋では、身分の違いにより、着用する服が厳密に区分されていた。

木綿格・・・・入店八年目までは木綿しか着ることができない。
五年目までは仕着せ(店からの支給品・袷は松坂産藍色縦縞)しか着用できない。
青梅格・・・・九年目の初登りの後、冬小袖・袷羽織に青梅藍縞が許された。
太織格・・・・一二年目以降。太織無地紋付の冬小袖などが許された。
紬格・・・・・・一五年目以降。冬小袖に黒紬紋付がゆるされた。
絹格・・・・・・一八年目以降。冬小袖に絹郡内紋付、本上田縞、越後紬縞が許された。


なんとも細かく規定している。

名前でも大体のところが分かる。
丁稚は名前に「」「」が付けられ、本名の一字に付け加えられた。たとえば、「豊吉」「豊蔵」。
手代は、「」が付けられた。
番頭となると、「」が付いた。
例外もあるが、原則としてはこのような名になっていた。

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参考文献


写真は、くすりの博物館(岐阜県)


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江戸時代の温泉

2012年05月28日 | 江戸の風俗
江戸時代も温泉は今と同じで人気があった。
いや、旅行が気楽でなかっただけに、今以上の人気だったに違いない。
現代では秘湯への旅も比較的容易になり、驚くような数の温泉に入っている人がいるが、さすがに江戸にあっては多数の温泉に入っている人はごく少数で、多くの庶民は憧れに近い目で遠隔地の温泉を見ていたのだろう。
江戸時代には色んなものに番付を付けることが流行ったが、温泉番付も発行されている。
江戸後期に発行された「諸国温泉功能鑑」もその一例である。
この番付によると、行司役に「紀州 龍神の湯」「伊豆 熱海の湯」「上州 さわたりノ湯」(沢渡温泉)「津軽 大鰐の湯」が並び、勧進元は「紀州熊野 本宮の湯」、差配人(副主催者)として「同所 新宮の湯」とある。今の那智勝浦温泉である。
気になる番付であるが、東の大関は「瘡{そう}どく三病諸病ニよし 上州草津温泉」。瘡毒とは梅毒、三病とはハンセン病、てんかん、うつ病であるから万病に効くということである。
草津温泉は初夏から晩秋までの半年だけ営業し、寒い期間は旅館も閉鎖した。山中とはいえ、新鮮な川魚のあらいが食べられ、一流の芸人の芸が観られた。
関脇は「諸病ニよし 野州那須湯」。余談ではあるが、個人的に好きな湯である。
小結は「眼病ひつひぜんニよし 信州諏訪湯」。ひつとは、江戸訛りで「しつ」のこと。湿瘡である。ひぜんとは皮癬で、いずれも皮膚病である。
前頭「切り傷 打ち身ニよし 豆州湯河原」、前頭二枚目「しつひぜんによし 相州 足の湯」(箱根・芦ノ湯温泉)、三枚目「瘡毒諸病によし 陸奥嶽の湯」。
西を見ると、大関として「諸病ニよし 名泉あり 摂州有馬湯」。
関脇「万病ニよし 但馬城ノ崎湯」(兵庫県)。
小結「諸病ニよし 豫州 道後温泉」(愛媛県松山市)、前頭筆頭は「加州山中湯」(石川県)、二枚目に「しつひぜんニよし 肥後阿蘇湯」、三枚目には「諸病ニよし 肥後温泉湯」(長崎県・雲仙温泉)と続く。
皮膚病はともかくも、梅毒などに効くと宣伝しているのをみると、江戸時代はよほど梅毒患者が多かったのだろうか。
それはさておき、江戸時代の庶民はこのような番付を見ながら、まだ見ぬ温泉に思いを馳せたに違いない。



参考:大江戸番付づくし 石川英輔 (実業之日本社)

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闘夢

2012年05月27日 | 日常雑感
僕らは生きている。
少なくとも、今、文を書いている私も、今、文を読んでいるあなたも。
しかし、先の事は分からない。
私の方があなたより長生きするかも知れないし、あなたの方が長生きかも知れない。
あなたがとても若くっても、油断はならない。
死は不平等だ。
幼児の年で死ぬ人もいるし、百歳以上生きる人もいる。
若いというのは、死なない理由にはならない。
ひとつだけ断言できるのは、誰の命も有限であるということ。
動物は明日を思い患わない。
フェレットのシオン君は瀕死の状態でも、好物のフェレットバイトを食べることを生きがいとしていて、迫りくる死の影など、全く気にしていなかった。
それに引き換え人間は、今幸せでも、明日もこの幸せが続くのか、と不安になり、明日を思い心配になる。
眠れない夜の登場である。
だが明日を思うのは悪いことばかりじゃない。
今日叶わなかった夢が、明日叶うかも知れないと努力することもできる。
動物は努力しない。
夢なんてばかげた考えであり、蜃気楼のようなものだと言う人もいるだろう。
けれども、夢のために努力するのは、宝くじを買う行為とは違う。
消えては現れる絶望のせいで消えかかってしまいそうになる光を必死に信じ求めて、全てを投げ出したくなる欲望を抑えて努力する。
闘病という言葉がある。
病に対しては戦うという言葉がぴったり来る。
夢とは戦うのではないのかも知れない。
けれども、あえて闘夢と言いたい。
夢には憧れや華やかな面があるが、厳しい顔を持っているのも事実である。
病と違って、夢は誰彼に強制されたものではない。
自分で選んだ道ならば、愚痴を言わず、突き進んでい行くしかない。
闘夢。
がんばるしかない。

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江戸の力士

2012年05月23日 | 江戸の風俗
相撲の起源はいつに発するかはっきりしない。
古来、社寺の年中行事としてイベントとして村の力持ちが集まって開かれた奉納相撲が起源であって、それこそ古い時代から行われていた。
それでは、金を取って見せた勧進相撲がいつから始まったかというと、三田村鳶魚翁は、寛永元年(1624年)、明石志賀之助が四谷塩町3丁目の笹寺で行われたのが普通の説だと述べている。傍証として寛文元年(1661年)の間違いだという説も併せて紹介している。
しかし、当時相撲は決して歓迎されるものではなく、逆に禁令が出るほどであった。
娯楽の少なかったこの頃、相撲は現代でいうプロレス、あるいは格闘技的な要素が強く、風紀を乱したと言う。
歴史は古くとも、武術のようにしきたりやルールが制定されておらず、特に当初は力が強い者が勝つ世界であったから、稽古もなく、技もなく、とにかく腕自慢の荒くれの参加も多かったらしい。荒くれには取り巻きの仲間がつきもので、とかく見物客同士でも喧嘩が多かったようだ。
相撲にもルールが整ってくると、ただ力の強い者が勝つ時代は終わる。
すると、一流と呼ばれる力士が誕生し、彼らの多くは諸藩お抱えの力士となる。
このような一流の力士を生んだきっかけとなったのは、寛政三年(1791年)6月11日、江戸城吹上御庭で行われた天覧相撲である。将軍は家斉。
この日の結びの一番では、東西の両横綱小野川喜三郎谷風梶之助の取組が行われた。
谷風は身長189センチ、体重169キロ、白川藩お抱え、対する小野川は身長176センチ、体重116キロ、久留米藩お抱え。
行事は吉田追風
勝負は「待った」をした小野川が負けとされた。
なぜかと問われた吉田は、「行事が立てと言ったのに、立てなかったのは小野川に油断があったからだ」と心持ちの弱さを指摘した。
これを聞いた者は、みななるほどと感心した。
しかし、小野川は当時吉田に教えをしばしば請うていた。その小野川が晴れある場で、わざわざ待ったをしたというのは、常識では考えにくく、勝敗については小野川と吉田の仕組んだものではなかったか、などという疑いが残る。
この頃はまだ、相撲もまだ当初のショー的要素が含まれていて、勝ち負けよりも見せ場を作るほうが優先されていたきらいがある。「待った」についても自由で確たる規約がない。吉田はもっと勝敗に拘るべき、と相撲改革を主張していた。
先の勝負は、吉田の主張を表すものとなった。
勝敗が仕組まれたものであるかどうかの真偽はともあれ、この天覧以来、相撲は「胡乱くさいもの」から、武芸へと進化を遂げていったのである。

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蔦屋重三郎~江戸の版元

2012年05月20日 | 江戸の文化
江戸初期、文化の中心は上方であった。
文化後進国である江戸においても、四代将軍・家綱の明暦年間(一六五五~一六五八年)になってくると出版業が企業として成り立つようになる。
その頃はまだ京都資本系が圧倒的に優位であったが、後に江戸資本の版元も力を付け、上方系資本に対抗するようになった。
江戸の版元は、自らの利益確保のために、書物問屋地本問屋という組織を結成。時代の流れと、企業努力もあり、元禄年間位から江戸系と上方系の実力は拮抗し始め、宝暦年間(一七五一~一七六四年)には、江戸系が上方系を凌駕していった。
前出の書物問屋とは、儒学書、歴史書、医学書など固い関係の本を扱う版元で、地本問屋とは草双紙のように江戸の地で出版された地本を扱う本屋である。
有名な地本問屋としては、鶴屋喜右衛門鱗形屋孫兵衛山本九左衛門などがいる。
須原屋市兵衛
(「解体新書」「海国兵談」などを出版し、幕府から睨まれた)のように書物問屋として有名ながら、地本問屋の仲間組織に入っている者もいた。

江戸の地本問屋として現代、もっとも名が知られているのは、蔦屋重三郎であろう(蔦屋も後に書物問屋に加盟)。
レンタルショップのTUTAYAが名前の由来とした蔦屋重三郎は、寛延三年(一七五〇年)一月七日、吉原に生まれた。本名・柯理{からまる}。七歳のときに両親が離縁し、蔦屋を経営する喜多川氏に養子に行く。その頃の蔦屋は茶屋を営んでいたというが、はっきりしない。ともあれ、安永二年(一七七三年)に重三郎は吉原大門のすぐ近くで吉原のガイドブックである「吉原細見」の卸し・小売を始める。
「吉原細見」の版元は鱗形屋であり、蔦屋は鱗形屋の直営店の扱いであったが、わずか数年後の安永四年、鱗形屋が今でいう著作権問題で大打撃を受けた隙に乗じて、「吉原細見」を発行。それ以降は、鱗形屋版吉原細見と蔦屋版吉原細見が並行出版されていたが、鱗形屋が衰退し出版業界から退場していったのに従い、吉原細見だけでなく、鱗形屋の専属作家であった恋川春町などを抱えるようになった。
天明三年(一七八三年)九月、蔦屋は一流の版元が名を連ねる日本橋通油町に進出。
蔦屋に関わり深い作家としては、先ほどの恋川春町に加え、朋誠堂喜三二、山東京伝、唐来三和、十返舎一九、滝沢馬琴、絵師としては喜多川歌麿、写楽などがいる。

重三郎は、田沼時代に蔦重サロンといってもよい独自のネットワークを形成し、江戸の名プロデューサーとして名高いが、ミスも目立つ。
もっとも大きい事件は、黄表紙から引退したいと言っている山東京伝を無理やり口説いて新作を発表し、寛政の改革の筆禍に引っ掛ったことである。そのほかにも写楽の登用から蜜月関係にあった歌麿との仲に亀裂が入った挙句、鳴りもの入りの写楽もフェイドアウトしていった点、葛飾北斎の才能を開花させらなかった点などが挙げられる。

それでも重三郎に対しては称賛の声が聞こえるばかりで、非難の声は聞こえてこない。
普通の人間ならすっかり自信を失ってしまうような場面でも、重三郎は前向きである。
重三郎の軌跡を見ていると、常に何か新しいことをやらねば済まない、といった気質が見てとれる。
現状維持では、後退。前進することによってのみ、今の地位が保たれるといった心情があったに違いない。
逆境ですら変化は好ましいと思っていたのかも知れない。
過去の栄光に拘泥することなく、未来を見つめる姿。重三郎の眼の先には何が見えていたのだろう。

寛政八年五月六日朝、病の床で死期を悟った重三郎は死後の家事や妻への最期のあいさつを済ませ、昼に自分は死ぬだろうと予言。
しかし、昼を過ぎても死ななかった重三郎は「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らない」と笑ったと言われる。
少しの時間差はあったものの、その日の夕刻に死す。享年四十八歳だった。

参考
蔦屋重三郎 (講談社学術文庫) 松木寛
東京人 2007年11月号

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匠堂本舗



江戸時代の武士が食べなかった食材~キュウリは本当に食べなかった?

2012年05月19日 | 江戸の味
江戸時代の武家社会では表立ってキュウリを食するのが憚られた。
キュウリを切ったときの断面が三つ葉葵に似ているからだ。
しかし、キュウリは暑い夏場に冷やしたキュウリはとてもおいしい。
それに成長の早いキュウリは安い。
その辺の事情もあったのだろう。厳密に守られていなかったようだ。
実際、キュウリを食べて切腹とか、閉門などに処せられた例は聞かない。
武士は、キュウリを公の場では食べないという、いわばマナーに属する問題だったのであろう。

宮越松子氏の「幕末のさる大名家の御献立」は、江戸に参勤交代に来ていた小大名の献立を一年に亘って分析した労作だ。
この研究によると、まったく食卓に上らなかった野菜は、ネギ、ニラ、ラッキョウの類である。
一年を通じてこれらの野菜は一回も食されていない。
公務をこなす大名という立場上、臭いの強い野菜は敬遠されたのであろう。
普通の武士がネギ、ニラ、ラッキョウの類を食べなかったかどうかは分からないが、現在のような歯磨きも口臭防止スプレーもなかった時代、大名という重職にある武士から敬遠されたのは十分にうなずける。
不思議なのはニンニクで、祝い膳の際に使われている。どのような料理に使われたのかは分からない。たった一回ではあるが、臭いの点ではネギやニラ、ラッキョウよりも強いニンニクが使われたのは不思議でもある。ニンニクは薬用として用いられたのかも知れない。

江戸時代は野菜の数よりも魚の種類が豊富であったが、魚でも武家には食されなかったものがある。
コノシロである。
コノシロは出世魚でシンコ、コハダ、コノシロとなる。今では寿司ネタのコハダが有名かも知れない。
コノシロは、「この城」を連想させる。
「この城」を焼くのは憚られたのである。
また、切腹の時に添えられた魚であるともいう。
そこから、武家社会では嫌われ食べられなかったようであるが、これはマナーというより、縁起が悪いといった嫌われ方だった。

禁止と言う点では、武家社会では忌日精進日などが設けられた。
忌日や精進日には、魚や卵を含め、生き物を口にすることができず、野菜や豆腐などの植物性加工品のみとなった。
これは武家社会だけかというと、江戸の小噺に精進日に初鰹を貰って困っている男の話があるから、案外、庶民も守っていたようである。

そのほか、武家献立のなかには、「ご主人塩断ち」などという日もあり、塩分までも規制された。
なんとも不自由なようであるが、飽食の現代と違ってある意味では健康的な食生活であったようにも思える。

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ダメだったら死ぬだけ

2012年05月18日 | 日常雑感
「宵越しの金は持たねえ」とは江戸っ子の捨て台詞のような言葉であるが、裏を返せば多くの江戸庶民は宵越しの金は持てなかった。
バリバリと働いていても、病気になって長いこと寝込んでしまえば路頭に迷う。
大店の旦那であっても、ひとたび商いに躓けば、娘を女郎屋に売り飛ばさなければならなかった。
虫歯だって、我慢できるだけ我慢して、後は抜くしかない。
「江戸には明るい絶望が漂っている」と言ったのは杉浦日向子だが、言い得て妙である。
現代にはアンチエイジングという言葉があるが、昔にあっては不老不死のような言葉となり、庶民の考えるところではなかった。
寄る年波には敵わないと思うのが普通であった。

伊能忠敬という人物がいる。
日本の測量史に燦然たる功績を残した人物である。忠敬が江戸の高橋 至時の門を叩いたときは、既に50歳を超えていた。一方の高橋 至時は31歳。それでも忠敬は躊躇しなかった。
江戸では50歳は年寄りである。年寄りになってまで新しいことをしようと行動する人間は「年寄りの冷や水」と冷笑されたに違いない。
それでも行動に出た忠敬の心境を考えると、忠敬は何歳になっても達成したい夢があった。

年を取ると情熱は失せる。
夢は霞む。
若い頃は称賛された考えも、やめておけ、という外部の声のみ高まる。
その中で、敢えて自分の夢を追うという行為は江戸の時代にあっては、あまりにもリスクが高ったに違いない。
しかし、一方で、無理だったら死ぬだけだという諦観もあったのだろう。この諦観は覚悟に繋がった。不退転の態度になった。
「ダメだったら死ぬだけ」
覚悟として、これほどすごいものはない。
自分も含めて現代人。「ダメだったら死ぬだけ」と思える夢を抱いている人はどれだけいるのだろう。
自分の夢。
「ダメだったら死ぬだけ」と思えるかどうか……。
自分の夢に対峙する時が近づいた。

もうひとつ。
思いこみは暗さや重さとなる。
「これだけ頑張っているのだから」という思いはマイナスでしかない。
陰で頑張り、気持や表面では明るく行かないと、運命の女神様も微笑みにくいに違いない。

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四郎兵衛会所

2012年05月17日 | 江戸の風俗
吉原へは男性しか入れなかったかというと、そうではない。
奥底はドロドロしていても、吉原の表面上はきらびやかであって、花魁たちはファッションリーダーだった。その世界は女性にとっても魅力的であったには違いない。
吉原には男は誰でも無料で入れたが、女性は中からの逃亡防止で厳しかった。逆の言い方をすると、女性でも容易に吉原を見物できた。
それには大門をくぐってすぐのところにある四郎兵衛会所で切符(通行証)を買えばよかった。
客になり得ない女性は、入場料を払えという意味もあったのだろう。
四郎兵衛会所の存在は、関所と同じであり、吉原から不法に抜けだそうとする女郎は逮捕された。
会所は町の自身番と似ていて、遊郭内の治安を守っていたが、一番大きな役目は、女郎衆の逃亡防止である。
切手だけ持っていれば、女性は誰でもフリーパスだったとかというと、そうでもないだろう。きっと、会所の中には博覧強記な人間が詰めていて、切手を発行した相手をひとりひとり覚えていたに違いない。

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吉原への道

2012年05月16日 | 江戸の風俗
明暦の大火、いわゆる振袖火事で江戸の多くは灰燼に帰した。
葺屋町(現代の中央区日本橋人形町付近)にあった吉原も同様に、灰となった。
もともと、明暦の大火以前に、あまりにも繁華街に近い場に遊郭があることを憂慮していた幕府は吉原の移転を命じる。
移転先は、浅草田圃と呼ばれる郊外の地。
幕府の優遇措置もあり、移転を認めた吉原の住人たちは、新天地へと移動する。
この時から、以前の吉原を元吉原、後の吉原は単に吉原、もしくは新吉原と呼ばれるようになった。
かくなる事情から、新吉原は江戸の外れといってもよい場所に位置した。

現代でも吉原と言うのは、土地の人間か、ごく一部の人間以外にはどこにあるのかイマイチ分かりにくい場所にあるのだが、JRでいえば日暮里が最寄駅となる。
ただ、江戸時代の人間であれば、日本橋や神田、浅草方面から行くのがごく普通であった。
江戸時代の記録マニア喜田川守貞の「守貞謾稿」も吉原は格好の研究対象と思ったのか、かなり詳しく記載している。

昔、新吉原に通うの遊客は専ら雇馬にのりて行く。すなわち馬士{まご}、小諸節を唄い行く。

とある。何とも牧歌的な光景であるが、わざわざ、「昔」と断っているところを見ても、江戸後期にもなって、吉原に馬で通う人間は少なかったのだろうと思う。
「守貞謾稿」では、馬や駕篭、舟での所要料金も記載している。
またもや、1文=30円レートで計算してみる。

馬     並二百文(6,000円) 白馬三百四十八文(10,440円) 日本橋~大門
駕篭   二朱(15,000円) *雨の場合は増賃  小伝馬町~大門
猪牙舟 百四十八文(4,440円)  
屋根舟 四百文~五百文(12,000円~15,000円) 柳橋~山谷堀


ちなみに、現代の小伝馬町から台東区千束までのタクシー料金をみてみると、10km程度なので2,000円弱である。
江戸時代の人は現代人が電車やバスを乗るのと、同じ感覚で歩いていた。現代人が電車やバスを乗り継いで行ける場所にタクシーを使う場合の費用格差よりも、江戸のほうの格差が大きかった。
江戸は贅沢に関してはかなりきっちりと金を払っていた時代だと言えよう。

現代人の感覚からすると、やはり舟で行くのが趣があるように思う。
柳橋は現代でいうと、JR総武線の浅草橋駅の近く。この辺から舟に乗って大川(隅田川)に出た客は、首尾の松を左手に見ながら、吾妻橋を潜る。ほどなくして、竹屋の渡しが見え、舟は支流の山谷堀へ入るため、左に舵を取る。今戸橋を潜ると、舟は船宿へと着く。船頭に酒手をいくらか弾んで、船宿へと上がる。そこからは日本堤とよばれる土手である。日本堤とは壮大な名前だが、もうひとつ近くに堤があったので二本の堤というところから、日本堤と呼ばれるようになったらしい。別名、土手八丁。これは吉原までの距離が8丁(900m弱)だったからそう呼ばれた。気が焦るのか、船宿から駕篭を使う客も多かったという。衣紋坂という堤から一般の道へ降りる坂を下りると、見返柳が見える。吉原への名残惜しさから、客が見返ったという場所である。そこからは、吉原が直接見えないようにわざと屈折された五十間道(三曲りとも言われた)が広がる。やがて、大門が見える。大門は、「おおもん」と読む、と「守貞謾稿」もわざわざ書き加えている。
二間(3.6m)のお歯黒どぶと呼ばれる堀を越え、大門をくぐると、そこにはまさしく異次元空間が広がっていた。


日本堤公園。堤という江戸の面影は全くないが、確かにまっすぐである。今でも、この地には日本堤という地名が残っている。


なんとなく寂しげな見返り柳。今ではあまり見向いてくれる人がいないのだろう。


五十間道。この地形はうれしい。多分、昔と変わっていないのだろう。三曲りと呼ばれた地形がよく分かる。

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