木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

飛脚の話②~速さ

2020年04月17日 | 江戸の交通
「上方・下方抜状早遅調」という書類がある。
早飛脚の時刻表ともいうべきものである。
下記の早遅調は、江戸~京を三日で行くという、超特急便の写真だ。
この書類により、江戸の飛脚がどれくらいの速さで走っていたかが分かる。
結論から言うと、驚くほど遅い。

表の見方を下記に記す。

①起点 ②現在の地名 ③距離(km) ④所要時間 ⑤ 平均速度(km/H) ⑥江戸からの累計距離(km) ⑦三日のうちの何日目か ⑧江戸を0時:00分に出発した場合の各起点の通過時刻 ⑨⑧から計算した所要時間 ⑩⑧⑨から割り出した平均速度 ⑪④と⑩との差

以上である。
⑤と⑩を見ると、飛脚のスピードが分かる。
ただ、釈然としない点も残る。
たとえば、大井川に3:36に着くとあるが、こんな時間では川を渡してもらえはしない。渡しは明け六つからと決まっているわけだから、六時に渡ったとすれば、九時までは三時間。金谷~天竜川は約30kmといったところだから、時速にすると10km。この辺りのロスタイムをどう計算するかがいまひとつ分からない。
富士川には18:48となっているが、これは実物では酉の刻、つまり暮れ六つだから、渡船の最終便の時間なのであろう。この時間に間に合わないと次の行程に支障をきたすため、プレッシャーのある区間だったに違いない。
宮~桑名は七里の渡しに乗るはずだが、宮の出発が22:36であるから、今でいえば夜行バスのようなものだ。宮~桑名の平均速度が上がっているのは、舟航のためだろう。

いずれにせよ、飛ぶように走るという姿からはほど遠い。
それには、速さよりも安全が求められた点や、一分一秒を争うといった内容が少なかった点などがあるのではないかと思う。









飛脚の話①~飛脚の日数と代金

2020年04月17日 | 江戸の交通
江戸時代の飛脚制度はなかなか複雑なのだが、その中で町人も武士も利用できるものとそうでないものとあった。
それはさておき、通常の飛脚便には、①並便②早便③仕立早便の三つがあった。
それぞれの便について見てみたい。

①並便
 江戸~京は、15日が目途とされたが、規定日数は定められていない。
 遅いと三十日も掛かる場合もあった。
 遅延の主な理由としては、荷物が込み合ったときに起こる問屋場での馬の不足(馬支)、増水等による川留め(川支)などがある。
 また、馬を継ぎ立てて行く(通常5~6頭)ため、その継立がうまくいかないのも遅延の原因となった。
 飛脚便の料金は、現代と同様、内容物の重さや酒類で大きく異なる。また、距離によっても違った。
 手紙一通を江戸から京や大坂へ送る場合を見ると、銭三十文とある。かけそばが十六文とすると、そば二杯分の値段である。
 現代より高いが、決して庶民が手が出ないほど高いわけではない。

②早便
 花形ともいうべき急送サービスである。
 早飛脚、早送り、早序、早などとも呼ばれた。
 六日限、七日限、八日限、十日限などと日限を決めた便である。
 早便は馬を継ぎたてず、一頭の馬で行った。
 それでも、遅延がちであり、天保年間には「正六日限」というサービスまで現れた。これは文字通り、遅延なく期限の六日で届けるというものである。
 納期遅延を防ぐためには、遅延が見込まれた場合、「小継之者」(走り飛脚)に急ぎの荷物を委託して走らせるという方法がとられた。
 馬を利用して荷物を運ぶというと、いかにも速いようなイメージがあるが、実際は馬子が手綱を引いてゆっくり歩いているに過ぎなかった。
 だから、人間が走るほうがよほど速かったのである。
 早便の料金であるが、江戸~京・大坂間において、六日限が二百文、七日限が百五十文、八日限が百文、十日限が六十文である。

③仕立飛脚
 現代でいうと、チャーター便のような感じである。
 しかし、トラックならぬ馬を使わず、全区間、人間が走り抜ける。
 もっとも速い便では、江戸~京が四日(九十六時間)であった。
 代金はぐっと跳ね上がり、四日限で四両二分、五日限で三両であった。
 
あまり参考にはならないが、ナビタイムで調べてみると、日本橋~京都間は464km。所要時間は高速利用で5.34時間、一般道利用で12.32時間。平均速度にすると、それぞれ80km、40kmとなる。
いっぽう、江戸時代の日本橋~京は509km。九十六時間で割ると、5.3kmとなってしまう。飛脚を引き継いでも、夜間は移動できなかったためである。

現代では郵便や宅急便に頼らずとも、情報伝達の手段であれば、メールやインターネットがあるのだから、隔世の感がある。
しかし、それで本当に暮らしが豊かになったかというのは、別問題である。
 
 
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参勤交代の人数

2016年04月10日 | 江戸の交通
参勤交代については、広く知られているようでいて、その実、あまり知られていない部分が多い。

「超高速! 参勤交代」によると、

参勤交代とは、全国の大名を定期的に江戸に出仕させる事により、藩の財政に負担を与え、幕府への叛乱をおさえる制度である。

と端的に述べている。つづいて、

参勤交代は武家諸法度の実質的な第一条として掲げられており、参府を渋ったり、遅れたりする大名は厳しく処断された。

とある。
実際、多くの人が参勤交代に持つイメージもこのようなものであろう。
しかし、武家諸法度で述べられているのは、下記の文言である。

大名小名江戸の交代相定るところなり。毎年夏四月中、参勤を致すべし。従者の員数、近年甚だ多し。且は国郡の費、且は人民の労(つかれ)なり。向後(きょうこう)その相応を以てこれを減少すべし。

山本博文氏も、

参勤交代は大名の経済力を削減させようと定められたものではない。この制度の本質はあくまで諸大名の将軍に対する服属儀礼であった。

と書いている。参勤交代が華美になっていったのは、大名間の見栄や競争心によるもので、幕府としては人数を縮小するように、再三申し入れを行っている。

では、行列はどのくらいの人数であったのであろうか。
これについては、幕府から享保六年(1721年)に指針が出ている。

          馬上      足軽      人足      合計
 一万石     3~4騎     20人     30人      53~54人
 五万石       7騎     60人    100人     167人 
 十万石      10騎     80人    140~150人 230人~240人
二十万石以上 15~20騎  120~130人  250~300人 385人~450人


加賀百万石前田家の大名行列は多い時は4000人を数えたというが、この指針からすると、450人でこと足りたのである。
ただし、前田家の場合は4000人の行列であっても、百石当たりの人数は0.4人である。
一方、小大名の場合は、百石当たりの人数が1.5人程度になることも多く、負担が重かった。

参勤交代の費用に目を向けると、

人足費   43%
運賃    32%
物品購入費 20%
宿泊費    5%
(文化二年、鳥取藩)


とある。

藩支出の割合でみると、

江戸入用 30%
京阪入用  2%
道中銀   3%
国許入用 20%
俸禄   45%
(文化1~15年の平均、松江藩)


となる。参勤交代に掛かる費用としては、全体の3%でしかなかったと分かる。むしろ大きいのは江戸での滞在費である。

また、参勤交代には、戦力の提供との意味合があり、常時戦場が建前だった。
であるから、殿様は夜もゆっくりと寝てはいられない。
殿様の枕元には、小姓が座っており、夜なべして軍記の類を朗読している。周囲に夜のあいだ、ずっと起きている姿勢をみせるためだった。
参勤交代が苦役であったのは、間違いない。


写真は、甲州街道小原宿本陣。
本陣といえども、殿様にとっては、安息の施設とはいえなかった。

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藤川の棒鼻

2014年10月05日 | 江戸の交通
棒鼻{ぼうはな}というのは現在では使われなくなった言葉だ。
大江戸歴史講座(晋遊舎)によると、

宿駅の外れで傍示杭が立っているところ。棒端とも書く。

とある。


言葉だけでなく、棒鼻自体見ることがなくなったのだから言葉も使われなくなって当然だ。
愛知県岡崎市にある藤川宿跡には、棒鼻が再現されている。
東海道五十三次に描かれている藤川の棒鼻を忠実に再現していて、分かりやすい。

ちなみにこの辺りの西大平藩を統治していたのは、越前裁きで有名な大岡忠相{ただすけ}を初代藩祖とする大岡家である。
忠相は、町奉行としては初めて大名となり、万石取となった。
実際は忠相は、一回も西大平に赴いたことはなく、その後の大岡家も定府大名として江戸に留まった。

参考資料:大江戸歴史講座(晋遊舎)若桜木虔編





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清正橋

2014年07月30日 | 江戸の交通
小牧の近くに味鋺{あじま}という地名があり、味鋺神社がある。
その境内に移設されたのが、清正橋である。
清正橋は徳川家康が名古屋城を築城する際、豊臣秀吉に所縁の深い諸大名に重い荷役を負わせてところから始まる。
加藤清正は、家康の命があると率先して名古屋城築城に参加し、石の産地であった小牧の岩崎山近くの味鋺に、橋を架けさせた。
今見ると、ただ六枚の石が並べられているに過ぎないが、往時はこの倍くらいの規模であったらしく、中山道に到る参勤交代の行列も通ったと言う。
地元の人は、清正橋とは呼ばず、石橋と呼んでいたらしい。
清正が造らせたかどうかは別としても、歴史的に大変価値のある古い橋である。
ややこしいことに、この近くには年貢橋という橋もあり、年貢橋も清正橋と呼ばれている。
年貢橋も石橋も形状が酷似している。
形の似た橋が近くにあるという事実からすれば、清正が造らせたとの言い伝えも案外、本当なのかも知れない。

加藤清正は、強い反りを持たせ強度を高めた石垣を発明したことでも分かるように、築城の名人だった。
秀吉に大きな恩ある身でありながら、徳川政権になるや、家康にも真っ先に恭順の意を示している。
同じ築城の名人とされた藤堂高虎も素早く身の処し方を変えると言われたが、二人に共通しているのは、根本に誠実さがあることだろう。
単に権力に迎合していただけでなく、自分の信念に基づきリーダーの下にあっては誠心誠意尽くしたという点は評価に値するのではないだろうか。



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将軍の駕篭かきは褌姿でも失礼でなかったのか~陸尺・ろくしゃく(御六尺)

2013年08月17日 | 江戸の交通
陸尺というのは駕篭舁き(かごかき)のことである。
ただし、この名称は通常の駕籠舁きには使用されず、将軍や大名の駕籠を担ぐ者のみを指し示す。
通常の駕籠舁きは、舁夫だとか、俗称の雲助などと呼ばれていた。
身分の違いには厳格だった江戸時代だから、こういった名称にも敏感だったのだろう。
なぜ陸尺(六尺)と言うかについては、定説はないのだが、主に四説ある。

①力者からの転化。
②乗り物の棒は一丈二尺、これを二人で担ぐから六尺。
③乗り物の寸法が六尺。
④六尺以上の身長の者をよしとするため。


幕府の職名によると、六尺は若年寄→同朋頭→同朋の配下に風呂六尺と表六尺、裏六尺があるが、これは雑役夫のことであり、ここで取り上げている六尺とは異なる。
将軍や世子等の駕籠舁きは、若年寄→目付→駕籠頭の配下の駕篭之者という名称で表されている。三田村鳶魚によると、一般にはおかご衆と呼ばれていた。
駕籠者の員数は、家康の頃には駕籠頭一名、輿夫三十一名であったが、その後は人数を増やし、頭三名、輿夫百五十名となった。報酬は、頭が年六十俵、駕籠者が二十俵二人扶持とされた。他の六尺が十五俵一人扶持であるから、それよりは高給取りであり、台所番などと同じ禄である。 
組屋敷ははじめ、本郷湯島にあったが、その後、追加や移転を繰り返した。
本所四ツ目前、谷中七面前、四谷鮫ケ橋などがその例であるが、現在も地名に残る巣鴨近くの駕籠町は、その名残である。

陸尺は、今で言うハイヤーのドライバーのようなものだから、さぞマナーもよかったのだろうと思うとそうでもなかったようだ。
本来、将軍を乗せた駕籠はゆっくり進むものだが、御目付けがゆっくり行け、と命じても陸尺はすぐに走り始める。
例外としては曇天の日だった。
雨が降ると、濡れ手当てが出るため、雨が降るのを待って、わざとゆっくり進むのだった。

大名の陸尺は、江戸抱えの一季契約の者、日雇いの者が多かったから、なおさらがさつである。
他の陸尺と争うように走り、混雑の中でも飛ばして危険だったため、何度も注意が出ている。

陸尺の服装は、通常は法被で、布地は将軍、御三家、喜連川は特に黒絹を着て脇差を差した。そのほかは木綿の法被であった。大礼服も紅のさめた退色と取り決めがある。
立派な乗り物を担ぐ陸尺らしい、それなりの格好であったが、腰から下は甚だ見苦しい。
法被をまくり、尻丸出しであったからだ。
現代の感覚からしても、おかしいが、当時も問題視していた人もいる。
荻生徂徠の流れを引く江戸中期の儒学者・太宰春台は、

陸尺は輿の前後にありながら、人体の中でも最も不浄な尻を顕にして貴人に示す。特に輿の者は、尻を輿中の面前にさらす。輿中の人が汚らわしいと思わないのは、まことに奇妙だ。嘔吐すべき習慣だ。

と嘆いている。
考えるまでもなく、指摘通りであり、非常に奇妙である。
名称までいちいち神経質に一般の駕篭舁きとは変え、ドレスコードまで規定しているのに、下半身に関しては、取り決めがない。
立派な輿であっても、前後を担ぐのが褌姿では無礼なのではないだろうか。
しかし、太宰のような指摘はむしろ例外的であって、あまり問題視されていた気配はない。
これはひとつには、駕篭舁きの一般的な服装に対する共通の認識が、褌姿であったという点があり、他方には、駕篭之者の身分が微妙なものであったいう点があると思う。
現に輿前の陸尺が放屁したとしても、お咎めなかったというから、駕籠之者の扱われ方としては馬のように単なる労働力としてしか見られていなかったのかもしれない。

参考資料:江戸のうつりかわり3(芳賀昇編)柏書房
      歴史読本スペシャル28 新人物往来社
      江戸武家事典(稲垣史生編)青蛙房

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榎と一里塚

2012年05月13日 | 江戸の交通
おもな街道には一里ごとに一里塚が設けられ、旅人の役に立った。一里塚に植えられたのは榎がほとんどで、残りは松などであった。
この一里塚が制定されたのは、江戸初期・徳川秀忠の時代で、慶長九年(1604年)から十年の歳月を掛けて完成された。
一里塚設置の指揮に当たったのは、大久保長安(ながやす)。武田氏の家臣から、家康の家臣となった人物で、祖父は春日神社の猿楽師だったという。
特に経理面で非常に優秀だったらしく、家康にも重用され、勘定奉行から老中まで昇進し、佐渡金山統括の任にも就いている。
一里塚に植える樹木に榎が選ばれたのは、選定に窮した長安が秀忠に問うたところ、「松とは異な木にせよ」と言われ、「異な木」と「榎」を聞き間違えて榎を選定したとの逸話が残されている。話としては面白いが、優秀な能吏である長安がそんな重要なことを聞き間違える訳がない。街道に多く植えられた松とは別の種にしろと指示されたのは事実かもしれないが、榎を選定したのは、長安の考えであろう。
一里塚は現代でいうと道の駅、あるいは高速のサービスエリアみたいなもので、旅人の目標となるだけでなく、茶屋などが設けられ、休憩することもできた。
その江戸時代のものが今に現存しているというのは、すごいことではないだろうか。

笠寺の一里塚


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菊川坂石畳

2010年12月17日 | 江戸の交通
江戸時代の東海道は、区間によっては狭い場所も、険しい場所もあった。
急な坂道には滑りを防止するために石畳が敷かれた。
石畳のほうが滑りそうな気がしてしまうのは現代人の感覚で、実際に歩いてみると、意外なくらい滑らない。
現に金谷の石畳にある地蔵尊は「すべらず地蔵」と呼ばれ、受験生の人気を集めている。
現在、残されている石畳は、後世になって復元されたものが多く、江戸時代の石畳はあまり現存していない。
その中で静岡県菊川市の石畳も数少ない「本物」のひとつ。
全長は600m強だが、大部分は復元されたもので、「本物」は161mに過ぎない。
石畳は何年かすると、すっかり本物らしく古びて見える。
後輩も先輩も同じような顔つきになっているが、同じ石でも、江戸時代からのものと知って歩くと、やはり感慨深い。
この石畳の上を江戸の人間が歩いたのだと思うと、過去と現代が繋がって思える。
十返舎一九も松尾芭蕉も参勤交代の大名も歩いた。
人が文を書いたり、絵を描いたりするのは、未来と繋がりたいと思う心からである。
人が生きてきた道を足跡と表現するが、東海道にあって、昔も今も変わらぬ道の上で、文字通り足跡を合わせると、しばし時間が止まったような錯覚に陥ってしまった。

近くをトラックが行き交うが、この空間だけは時間が止まったよう。それだけに少し分かりにくい場所にある。


江戸時代後期のものとされる石の部分


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大名の通勤ラッシュ

2009年10月09日 | 江戸の交通
江戸時代、江戸は武家の町だった。
江戸の人口は二百万人を超え、世界最大の都市だったと言われるが、実態はよく分からない。
これは、各地から江戸屋敷に詰めに来ている勤番武士の総数がはっきりしないからである。
武士は戦士である。その総数を発表するというのは兵力を公表することになるから公表されなかった。
江戸時代も後期になってくると、多分に見栄なども働いて尚更、発表を控えたのであろう。

江戸の人口については → こちらをクリック

土地の占有率から見ると、これは具体的に分かる。大雑把だが、
武家地70%  寺社地15%  町人地15%である。

大名の屋敷というのは、大体において上屋敷中屋敷下屋敷の三つに分かれる。
大体において、と言ったのは、中には中屋敷を持たない大名もいたし、複数の下屋敷を所持している大名も多かったからである。
屋敷というと殿様の江戸邸宅のように思われるかも知れないが、邸宅というよりは会社、あるいは役所に近い
国許と東京にそれぞれ本社を置いているような格好である。
殿様を議員に喩えると、江戸城は国会であろう。殿様の仕事としては江戸城へ行くのが一番重要な任務であったが、毎日登城した訳ではない。
定例としては大体月3回、その他、正月や八朔(8月1日)のようにあらかじめ決められた日取りと、子息生誕のような慶事、あるいは弔事のために臨時に登城する場合があった。

殿様は江戸城にほど近い上屋敷に住んでおり、登城ももちろん駕籠によるものであるから、通勤もさぞ楽かと思うと、さにあらず。

三百諸侯のうち、江戸詰めのある二百もの大名が何十人もの従者を引き連れて、一斉に登城するのである。
行列の人数は家格によって異なったが、外様の雄藩である広島藩の場合は八十人であったという。
この時代、武士が公式行事に遅れるのは厳禁である。
御城から歩いて何分も掛からないとことに住む大名も二時間前には屋敷を出て、城に向かったのである。
それこそ御城前は大層な混雑振りだったのであろう。

江戸時代は格式の時代であるから、大名が駕籠で乗り入れられる場所や伴ってよい従者の数も決められていた。
どんな大大名も城の奥に進むに伴って、駕籠を降ろされ徒歩で進むしかなく、従者の数も段々と減らされ、最後は一人で玄関を潜る。
心理的な圧力をかけると言う点では、効果的だ。
城の内部に入っても様々なしきたりがある。刀はどこまで持っていっていいか、着るものは何か。
儀礼ともなれば尚更で、忠臣蔵の浅野内匠守などはそのストレスに参っていたという説もある。
大名の登城もなかなかストレスの溜まるもので、楽ではなかったようだ。

「大名屋敷の謎」 安藤優一郎 集英社新書
 

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舟橋

2009年08月01日 | 江戸の交通
前回、佐屋路について述べたが、宮からは東海道と中山道を結ぶ美濃路という脇往還も通っていた。
土地勘がないと分かりにくいのだが、美濃路は宮から名古屋、清州、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣を経て垂井に至る道である。
現代の土地名でいうと、名古屋から清州、稲沢、一宮を経て大垣、垂井に至る道のりである。
この宿の一つ、起は、舟橋で有名であった。
この橋は、起川(木曽川)上に架けられたものである。
270隻の舟の上を橋を渡し、全長は800mになった。
起川は通常は渡船によって渡ったが、将軍上洛時や朝鮮通信司が通行の際は、臨時の舟橋を設けた。
この橋を渡す労力はかなりのもので、撤収にも何ヶ月も掛かったという。

この川は、吉宗が輸入した象も渡った。
その際は三方を囲んだ巨大な筏をつくり、その絵に象を乗せて運んだという。


模型は一宮市尾西歴史民族資料館にて見ることができる。
0586-62-9711 一宮市起字下町211番地 月曜休館

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