上州国定村の忠治は博徒の親分として名高い。
しかし、忠治の晩年は中風を患い、知り合いの間をたらいまわしにされるというみじめなものであった。
不自由な身体のまま縄を受けた忠治は、大戸の関所に併設された処刑場で磔にされた。
唐丸駕籠で運ばれた忠治であるが、その駕籠の中には高級品である更紗の座布団を二枚重ね、さらに真っ赤な座布団を重ねるという豪華仕様であった。
また忠治のいでたちは、無地の浅黄に白無垢を重ね着し、白い手甲と脚絆を着け、首からは大きな数珠を掛けていた。
この派手な格好をして、堂々と立ち振る舞う様子は見事なもので人々の脳裏に強烈な印象を残した。
磔のあと、いよいよ槍を突き刺される段になっても動じたところを見せず、逆に役人を励ましたというエピソードは忠治の人気を高めた。
さらに芝居で取り上げられるようになり、忠治の人気は不動のものとなる。
その忠治に息子がいたのは意外と知られていない。
忠治の女性関係は華やかであった。正妻の鶴のほかに、よく知られたところだけでも愛妾の町、徳などの女性がいた。
大久保一角という武家崩れの娘に生まれた貞も忠治の妾のひとりである。
その貞と忠治の間に生まれたのが寅二である。
もっとも、忠治が処刑されたのが寅二8歳(数え年)のときであり、実際に会ったことがあるのかどうかも分からない。
元服して国次と改名するようになった寅二は、さらには真言宗の寺である出流山万願寺に入門し、千乗と名乗る。
下って、時は慶応三年(1867年)十一月。
明治になる一年前。
幕府挑発のため、薩摩藩が御用盗と呼ばれる江戸市内での強盗や放火などのテロ行為を指示していたのはよく知られているが、江戸以外での地方でも工作が行われた。
薩摩藩の意向を受けた竹内啓、西山謙之助らの勤王志士は薩摩藩主・島津忠義夫人の安産祈願という触れ込みで万願寺に入った。
彼らは寺に入るやいなや、討幕の意を露わにする。
その決意に共感した千乗こと国次は、以来、大谷刑部、あるいは大谷国次と名乗り、志士たちに合流する。
下野国に集まった志士たちは本気で討幕を試みていたであろうが、薩摩の上層部としては、幕府を威嚇して戦闘の口火を切らせるための陽動作戦でしかなかった。
赤報隊の悲劇にも共通するが、いわば切り捨てられた部隊だった。
たいした戦果を挙げることもできず、敗戦する。
国次は志士たちの群れに参加してからわずか一か月ほどしか経っていない慶応三年十二月十八日、処刑された。
わずか24年という短い生涯だった。
大谷刑部と名乗ったのは、関ケ原の合戦で散った名将・大谷刑部吉継にあやかったのは間違いない。
処刑されるときに国次の脳裏に浮かんだのはどのような考えであったのだろか。

緑が美しい万願寺の山門。

万願寺は、滝行ができることでも有名。

奥の院には、鍾乳洞でできた十一面観世音菩薩がある。

現在では出流そばでにぎわっている。

巴波川に架かる念仏橋(現在の幸来橋)の付近では、激しい戦いが行われた。
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しかし、忠治の晩年は中風を患い、知り合いの間をたらいまわしにされるというみじめなものであった。
不自由な身体のまま縄を受けた忠治は、大戸の関所に併設された処刑場で磔にされた。
唐丸駕籠で運ばれた忠治であるが、その駕籠の中には高級品である更紗の座布団を二枚重ね、さらに真っ赤な座布団を重ねるという豪華仕様であった。
また忠治のいでたちは、無地の浅黄に白無垢を重ね着し、白い手甲と脚絆を着け、首からは大きな数珠を掛けていた。
この派手な格好をして、堂々と立ち振る舞う様子は見事なもので人々の脳裏に強烈な印象を残した。
磔のあと、いよいよ槍を突き刺される段になっても動じたところを見せず、逆に役人を励ましたというエピソードは忠治の人気を高めた。
さらに芝居で取り上げられるようになり、忠治の人気は不動のものとなる。
その忠治に息子がいたのは意外と知られていない。
忠治の女性関係は華やかであった。正妻の鶴のほかに、よく知られたところだけでも愛妾の町、徳などの女性がいた。
大久保一角という武家崩れの娘に生まれた貞も忠治の妾のひとりである。
その貞と忠治の間に生まれたのが寅二である。
もっとも、忠治が処刑されたのが寅二8歳(数え年)のときであり、実際に会ったことがあるのかどうかも分からない。
元服して国次と改名するようになった寅二は、さらには真言宗の寺である出流山万願寺に入門し、千乗と名乗る。
下って、時は慶応三年(1867年)十一月。
明治になる一年前。
幕府挑発のため、薩摩藩が御用盗と呼ばれる江戸市内での強盗や放火などのテロ行為を指示していたのはよく知られているが、江戸以外での地方でも工作が行われた。
薩摩藩の意向を受けた竹内啓、西山謙之助らの勤王志士は薩摩藩主・島津忠義夫人の安産祈願という触れ込みで万願寺に入った。
彼らは寺に入るやいなや、討幕の意を露わにする。
その決意に共感した千乗こと国次は、以来、大谷刑部、あるいは大谷国次と名乗り、志士たちに合流する。
下野国に集まった志士たちは本気で討幕を試みていたであろうが、薩摩の上層部としては、幕府を威嚇して戦闘の口火を切らせるための陽動作戦でしかなかった。
赤報隊の悲劇にも共通するが、いわば切り捨てられた部隊だった。
たいした戦果を挙げることもできず、敗戦する。
国次は志士たちの群れに参加してからわずか一か月ほどしか経っていない慶応三年十二月十八日、処刑された。
わずか24年という短い生涯だった。
大谷刑部と名乗ったのは、関ケ原の合戦で散った名将・大谷刑部吉継にあやかったのは間違いない。
処刑されるときに国次の脳裏に浮かんだのはどのような考えであったのだろか。

緑が美しい万願寺の山門。

万願寺は、滝行ができることでも有名。

奥の院には、鍾乳洞でできた十一面観世音菩薩がある。

現在では出流そばでにぎわっている。

巴波川に架かる念仏橋(現在の幸来橋)の付近では、激しい戦いが行われた。
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