木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

遺骨とともに酒を呑む~蒲生君平

2010年05月31日 | 江戸の人物
寛政の三奇人と言われた一人に蒲生君平という尊王論者がいる。
奇人と呼ばれるだけあって、種々のエピソードには事欠かない。
その中で、印象に残るのは、親友であった良寿和尚との別れの場面である。

良寿和尚と君平は、来年の春には天橋立へ行って桃の花でも見ようと約束していた。
だが、その冬のうちに、和尚はあっけなくこの世を去ってしまった。
君平は、桃の花が咲くころになるといてもたってもいられなくなり、江戸を経って、天橋立を訪れた。
懐には和尚の遺骨数片が入った小箱を入れている。
橋立に来て舟に乗った君平は二人分の舟賃を差し出す。
船頭はいぶかしんで、一人分で結構です、と断るが、君平は「この箱には骨にはなってしまったが、わたしの友人がいる。だから舟賃はふたり分なのだ」と言って、二人分を支払った。
そして、松の下に座った君平は、「良寿との、みたがっていた天橋立だ」と言って、酒を飲みながら泣いた。
道行く人は何事か、と君平のことをじろじろ眺めたが、君平は一向に気にしないで、酒を飲み続け、最後に、小箱の中に石を詰め、海に沈めたということである。

確かに奇行である。
いずれにせよ、本人はそうせざるを得ない切羽詰った感情に支配されている。
果たして、自分が死んだとき、このような行動を起こしてくれる友人が何人いるだろうか。
あるいは、友人が死んだとき、自分はこのような切羽詰った感情に押されて奇行ともとれる行いを自然に取れるだろうか。
君子の交わりは淡い、と言い、べたべたした関係だけが本当の友情とも思わないが、一方で、こういった切ない感情を引き起こす友情もある。
あるいは、男女間の愛情でもよい。
甘い感傷とか、作為的である、などと批判する人もいるかも知れない。
人にはスタイルとか生き方というものがあるから、その批判も間違いではない。
だが、少なくとも、わたしは君平の行為をシニカルに批判する側には回りたくない。


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3000円

2010年05月29日 | 日常雑感
3000円というのは、大金ではない。だが、毎日ポンポンと人におごれるほどのはした金でもない。
なんとなく、中途半端な金額だが、もし、自由になる3000円があったら何に使うだろうか。
CDや程度のいいランチ、本を買うならなかなかの本が買える。

以前、「その人が一番得意なものは、その人が一番お金をかけたものである」、という話を聞いたことがある。
自分に当てはめると、最近は調べ物をするために買う文献の費用がかなりかさんでいるが、かつては、英語とスキーにお金をかけた。その割には、両方とも中途半端な領域を抜け出せていない。

これまた以前、オペラを観に行くのに、30000円の席を夫婦二人分買って、嬉々としてコンサートに行った同僚がいたが、価値観の問題だ。
1000円の食事にはお金を惜しまないくせに、1000円の本は高いと思う。これも価値観。

さて、自分は3000円渡されたら、何に使うだろうか。
案外、こんなところに人間性が現れるのかも知れない。


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貰うべきものは貰うようになっている

2010年05月26日 | 日常雑感
あるとき、寺の小僧が和尚の代わりに近くの農家にお経をあげに行った。
帰り際に、亡くなった男の奥さんが「何もないけど、ご飯だけはたくさんある。食べて行ってください」と申し出た。
育ち盛りの小僧は寺ではあまり食べることもできないので、喜んで了承した。
奥さんがおひつからご飯を盛ろととしゃもじを探すと、しゃもじは床の上に置いてあったのだが、近くで寝ていた赤ちゃんの寝小便でできた水たまりの中に浸かっている。
奥さんは何事もなかったように、しゃもじをちゃっちゃっと振って、ご飯を盛ろうとする。
驚いたのは小僧である。
慌てて辞退して寺へ帰った。
その後、再び農家へ行った小僧は、またもや帰り際に呼び止められた。
今度は甘酒を飲んでいけ、と言う。
甘酒だったら大丈夫だろうと、ほっとして飲み干したところで奥さんが言った。
「その甘酒はこの前、余ったご飯で作ったのです」
おひつからは、あのしゃもじですくったのであろう。

この小僧はその後、立派なお坊様になったが、述懐して言う。
「結局、この世では貰うべきものは、貰うようになっているのじゃなあ」と。

誰でも損はしたくないと思い、自分の意見や権利を声高に主張する。
店では商品を値切り、インターネットでより安い価格を見つけようとする。
多少の努力で自分の意見を通した、あるいは、得をしたと思っているのかも知れないが、実際にはどうなのであろうか。

冒頭の話で、お坊さまは、世の中には人間の力では変えられない運命や宿命というものがある、ということを強調しているのではないと思う。
世の中に起きることは全てあらかじめ決まっていて、寝転がっていても、頑張っても、到着する地点は一緒だということはない。

ただ、世の中ではじたばたしても仕方ないときがある。
そんな渦中に投げ込まれると苦しくて苦しくて、じたばた、どたばたしてしまうものなのだが、そういうときは、流れに身を任せてみるのも一つの手である。


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妻に土下座した勘定奉行

2010年05月23日 | 江戸の人物
江戸時代は男性上位で、特に武家階級においては、女性軽視の傾向が強かったと思われがちである。
だが、江戸など男性の人口が多い地区では、町民階級ではカミさん連中の力は男性を凌駕した。
武士においては、確かに男性の力が強かったのであるが、今以上にリベラルな考えを持った人物もいた。
川路左衛門尉聖謨(かわじとしあきら)という人物もその一人である。
幕末期、勘定奉行を勤めた人だが、ロシアやアメリカとの交渉において力を発揮した傑物である。
ロシアの代表であるプチャーチンと下田で交渉した際、雑談になると「自分の妻は江戸で一番美しい女性なので、こうして出張していると思い出して困ります」などと発言している。
この川路が、妻の佐登に平伏したことがある。
この事件(?)については、吉村昭の小説が簡潔に書き表しているので、引用したい。

弘化四年十二月中旬、かれは奈良奉行として一事件の裁きをした。一人の女が夫以外の男と関係をもち、そのもつれで夫を殺害し、捕らえられた。川路は、そのような色恋沙汰で事件をおこした女はさぞ美しいだろうと想像していたが、白州にすえられていた女は、稀なほどの醜女であった。
かれは、このような女でも欲情のもつれで一人の男を死に追いやったことに驚き、美貌の佐登を妻としている自分の幸せをあらためて強く感じた。
裁きを終えたかれは、居室にいる佐登の前にゆくと平伏し、ありがたや、ありがたやと何度も頭を下げた。佐登は大いに驚き、精神錯乱をおこしたかと不安になってただすと、かれは醜女のおかした事件を口にし、美しい佐登を妻にしていることがもったいない、と、さらに頭をさげつづけた。その姿に、佐登をはじめ居合わせた用人たちは、息をつまらせて笑った。


佐登という女性が実際に江戸小町になるほど美しかったのかどうか分からない。
焦点は佐登の容姿ではなく、のろけともとれるような妻の長所をほめる発言を平然と行い、そして、妻にも頭を下げる左衛門尉の態度である。
そこには、作為がない。
変なプライドとか、照れとか、駆け引きなどを超越して、ただ妻に頭を下げる左衛門尉の態度は凄いと思う。
相手が配偶者でなく他人であっても、自分の思いをここまで素直に吐きだすのは、難しい。
それだけに、左衛門尉の行動は、貴重なものに思われる。


吉村昭「落日の宴」講談社


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夢記念日

2010年05月22日 | 日常雑感
毎月15日は、夢記念日と決めている。
別に特別なことをするわけではない。
ただ、ひとつの区切りとしているだけだ。
正確にいうと、9月15日が記念日。
今年の9月が来ると、3年目の記念日となる。
それまでは夢でしかなかったことを具体的な目標にしたのが平成19年9月15日だった。
いつしか、漠然と5000時間が夢達成のために必要な努力時間でないかと思うようになったが、計算していくと今度の9月15日時点で4000時間強にしかならない。
別に5000時間に確たる根拠があるわけでもないし、夢に締め切りがあるわけでもないのだが、足りない時間を今後は、もっと埋めて行きたい。
そのためには、やらなければならないこと、やるべきこと、やるべきでないこと、やらなくてもいいこと、を明確に分けて行かなくてはならない。
なかなか形になってこなくて、泣き言を言いたくなることもあるけど、とにかく、自分で決めた5000時間までは、ぶつぶつ言わないで頑張る積もりだ。

そして、夢が叶おうと叶うまいと、その後はぶつぶつ言いながらでも、頑張る積もりだ。
夢には、締め切りもゴールもないのだから。



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リチャード・バックの言葉

2010年05月20日 | 日常雑感
リチャード・バックと聞いてもぴんと来ない人が多いかも知れないが、「かもめのジョナサン」の作者だというと分かる人も多いのではないだろうか。

そのリチャード・バックに「イリュージョン」という名著がある。
日本語版の訳者は村上龍である。
村上龍が解説を書いているのだが、この解説が素晴らしく、ずっと印象に残るものだった。

本は、いつのまにかどこかへいってしまうものらしく、「イリュージョン」も本棚から消えていた。
昨日、Amazonから本が届き、久しぶりに読んでみる。

解説では、リチャード・バックの言葉が紹介されている。
少し長いが、とてもいい言葉なので引用したい。

「人間が本当に愛するものをみつけるのはとても大変なことで、それがすべて、要するに中心だと思うね。一生かかっても、ついにそれが見つからない人も多いと思うんだよ。だけど、ドアが閉まっていても、いつかは絶対に自分の好きなものが見つけられると思うと、そういうふうに導かれていると信じることだね。だいたいは、どこもかしこも閉まっていると、絶望的になっちゃんうんだよ。だけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分の一番求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつづつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ」

「人間が学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴンワールドなわけだ。地球上には三十億だか、四十億だかの人間がいて、おまえはそのうちの三十億プラス一の余り者にすぎない、おまえのことなんか誰も関心を持っていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ。
どうやってそれに対抗するのかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうこともあるけど、張り倒されても、まだ歌い続けることだ。
もちろん、ドラゴンワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうようなんていうわずらいもある。それはしようがないから、思いわずらい、駆けずり回りながらでも、自分の歌だけはうたい続けるわけだ」

「イリュージョン」 リチャード・バック(村上龍訳) 集英社文庫

初めて読んだのは20年近く前になる。
でも、そのときと変わらず、いいなあと思ってしまう。
世の中には思い通りにならないことのほうが多くて、挫折感を味わうことが多いけど、それでもやはり、「愛するもの」のために「自分の歌をうたいつづける」ことが大事だとおもう。
青っぽくて、馬鹿げた考えだと一蹴する人もいるだろうが、声がでるうちは、調子っぱずれの声でうたい続けようと思っている。


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堀江鍬次郎展

2010年05月19日 | 江戸の写真
昨日、仕事が終わってからダッシュで津市へ走った。

目的は津市センターパレスというところで「堀江鍬次郎展」が行われていたからである。
ミニギャラリーということなので期待せずに行ったのだが、展示量も少なく、内容に新発見はなかった。

津市は太平洋戦争の戦災により町のほとんどが焼けてしまったせいもあるのだろうが、歴史に対する市民の関心が薄く、郷土の偉人も忘れられがちである。
堀江鍬次郎も、そうした忘れられた一人である。

津は写真が盛んな土地であり、今回の展示も写真界からのアプローチから成されたのかも知れないが、いずれにせよ、先人にスポットライトが当たるのはうれしいことである。

堀江鍬次郎については、ご存じない方が多いと思うし、色々間違いも多いので、少しだけ書いておきたい。
鍬次郎は、津の藩校である有造館の教師となるが、その前に長崎の海軍伝習所に派遣された。
この時、上野彦馬と知り合う。写真についても共同で研究を進め、ダルメイヤというイギリス製のカメラを150両もの大金で購入する。
その後、彦馬は名声を馳せ、鍬次郎は早世したこともあり、歴史に埋もれてしまった。
鍬次郎は、写真の黎明期に生き、上野彦馬にも多大な影響を与えた人物であるが、あくまでも有造館の教師であり、写真家ではない。

鍬次郎については色々と謎も多い。
長くなるので、ここでは書かないが、幕末において、写真というのは軍事的な意味合いがあった、ことだけは書いておきたい。
以前、韓国では橋の写真を撮影することが禁じられていた。軍事的な理由からであるという。
各藩が写真についても研究を進めたのも、相手の城や有する兵器などを撮影することが、諜報活動に繋がったのである。
趣味の部分があったことを否定はしないが、藤堂家もまったくの道楽で150両も払ったわけではない。

津での展示で新発見はなかったと書いたが、6月19日に講演会があることを知ったのは、嬉しかった。
ぜひ、拝聴しに行きたいと思っている。

「堀江鍬次郎と上野彦馬」 講演会

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ジョハリの窓

2010年05月18日 | 日常雑感
先日、後輩とラーメン屋さんに行くと、メニューに劇辛麺があった。
私は辛いものが好きだ。
でも、先日は珍しく胃の調子が悪かったので、普通の麺を頼もうとしたら、一緒に行った仲間から、
「ダメですよ、木村さんのイメージが狂います」と言われてしまった。
結局、自分の意志を曲げて、劇辛麺を頼んでしまった。

人にはイメージがつきまとう。

レッテルとか、先入観と言い換えてもいいのかも知れない。
もっとも顕著なのがタレントと呼ばれる人たちだ。

テレビというのは、出演者に一定の役割を担わせ、演じさせている。
ニュース番組だって、何人にもインタビューして、自分たちの作りたいニュアンスにぴったりのコメントを採用しているに過ぎない。
クイズ番組などを見ていても、わざと間違えるお笑い芸人がいるが、自分のイメージを大事にしているからだ。
私のような一般民も、「これがあんたのイメージだよ」と言われれば、冒頭のように、そのイメージに基づいて行動してしまうところがある。

イメージで思い出すのが「ジョハリの窓」という考え方である。
①自分は分かっているし、他人も分かっている(開放の窓)②自分は分かっていないけど、他人は分かっている(盲目の窓)③自分は分かっているけど、他人は分かっていない(秘密の窓)④自分も他人も分かっていない(未知の窓)の4つの窓になぞらえて、対人関係を考える方法である。
サイトを検索したら、下記のような簡単な心理テストがあった。
ちなみに、わたしは「開放された窓」が多いとされた。
よろしければ、お試しあれ。

ジョハリの窓 テスト


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やおろずの神様

2010年05月17日 | 日常雑感
「お守りはたくさん持っていいのよ」
林真里子氏が何かの本に書いていた。
「たくさんお守りを持つと神様がケンカをする」と言う人もいるが、私は林氏支持派だ。
「男は外に出ると7人の敵がいる」と言われる。
そのことわざに対抗しているわけではないが、実を言うと、私のポケットにはお守りが7つ入っている。
全てのポケットに入っている(さすがに、ズボンのお尻ポケットには入れられないが)というわけだ。

自分の思い通りにならないことがあっても、7人の神様が合議で決定した事項なのである。
1対7。
おまけに相手は神様である。
決定に間違いはないはずだ。
今は不本意でも、将来的には好結果になるのではないだろうか、と前向きに考えることができる。

「イワシの頭も信心から」
お守りとイワシの頭を一緒にしてはいけない。
けれど、沢山の神様に守って貰っているという、安心感を感じることができる。

日本の神様は日本人と同様、ファジーで人間味あふれる神様なので、あまり厳格視すると、かえって迷惑がるかも知れない。

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アミエル~ラブソング

2010年05月14日 | ポップマニア
風が気持ちよい季節になった。

自分がてんびん座の生まれで、エレメントが風であるからなのだろうか、私は風が好きだ。
夏でもクーラーよりは風のほうが好きなたちだ。
今の季節は勿論、車に乗るときも、クーラーなど付けない。
窓から吹き込む風に当たると、なんだかほんわりとした気持ちになる。

先日FMでアミエルの「ラブソング」という歌を聴いた。
タイトルと裏腹に失恋の曲なのだけど、重たくない。
からっとしていて、この季節の風のように、するりと身体を通り抜けていく。

風をテーマにした歌は、結構あるのだが、何となく、この歌に風を感じてしまった。
どうでしょうか?
風を感じる歌、って何かありますか?

アミエル ラブソング

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