木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

戸部新左衛門

2009年01月29日 | 戦国時代
先日、豊橋の吉田城を見に行った際に、歴代の城主の中に戸部氏という人物がいるとの記述を目にしていた。
名古屋市緑区に戸部氏の碑があると聞き、行ってみると、戸部新左衛門が吉田で暗殺されたという説明文がある。先日の文が頭に残っていたから、すっかり吉田城主が暗殺されたのだと思った。
これが勘違い。
調べてみると、吉田城の城主であったのは、戸部氏ではなく、戸田氏であった。
天文六年(一五三七年)に吉田城主となった戸田金七郎宣成という武将であり、天文一五年(一五四六年)まで城主を勤めている。
一方の殺害された戸部氏は、戸部新左衛門政直。新左衛門殺害の経緯を調べると、黒幕は、織田信長。
新左衛門は、もともと信長の家臣であったが、義元有利とみるや、今川側についた。これを知った信長の怒りは大きかった。
信長は、義元側が内部から瓦解することを狙って新左衛門の筆跡を真似て偽の手紙を作成し、わざと義元の目に触れるようにした。新左衛門が再び信長方に寝返るような内容の手紙である。この手紙を読んだ義元は、新左衛門に釈明の余地も与えずに斬り捨ててしまう。
勢いに乗った信長は同じような風評作戦を再び使用し、笠寺城主の山口教継をも、義元に殺させている。
似たようなケースが連続して起こったので、新左衛門と教継を同一人物だとする説もあるが、粘着気質のある信長のことである。これでもか、という作戦は、信長らしいように思えるし、実際には、よく分からない(ウィキペディアでは、戸部新左衛門を笠寺城主としている)。
いずれにせよ、これでは、義元側の部下は、命賭けで就いていく気にはなれない。
桶狭間の戦い以前に勝敗はついていたとも言える。
さらに調べていくと、NHKで放映されている「忍たま乱太郎」に同名の戸部新左エ門なる人物が出ている。
どうして、このようなマイナーな人物がモデルとなっているのかと思っていたら、「忍たま乱太郎」の作者尼子騒兵衛氏の友人が戸部氏の子孫であったからと言う。尼子氏は、、時代考証家の名和弓雄氏に教えを請うていたし、いかにも、通好みの設定である。
今回の件では、自分としては二転三転した新しい知識が入って面白かった。


吉田城趾は、豊橋公園として整備され、豊橋市役所もこの地にある。昭和29年には隅櫓が再建された。
今回は携帯の画像を利用したら、サイズが大きくなった。これくらいのほうが、見やすいかも。


新左衛門の碑のある地には、大きな楠があり、目の前は幼稚園。地域の人が花を添えているようで、何となく暖かい雰囲気であった。

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藤堂高虎・遺訓の謎

2009年01月23日 | 江戸の話
藤堂高虎が伊勢伊賀(現在の津市)に入府したのは、一六〇八年。関ヶ原の合戦より下ること八年。ここに三十二万三千石の伊勢藤堂家が誕生する。
昨年は、高虎入府二百年にあたる年であり、津市でも色々なイベントが行われた。
高虎というと巨漢で身長が百九十cmもあり、馬にまたがると、足が地に着いたという。その頃の馬が体高の低い日本馬だったこともあるが、高虎が大きかったことに変わりはない。
高虎は、みかけとは違い、極めて繊細な神経の持ち主だった。考え方も独特なところがある。
関ヶ原の合戦で東軍について勝利を収めた高虎は勝利後、石田三成に自分の戦略について意見を求めている。三成が指摘した欠点を高虎は真摯に捉えて反省したと言う。
高虎が亡くなったのは一六三〇年(寛永七年)十月五日であるが、高虎の遺訓を大神朝臣惟直(おおみわのあそんこれなお)という人物が一六三四年に書き残している。これが、「高山公二百条」と呼ばれるものである。
第一条は、よく知られたもので「寝所を出るよりその日を自分が死ぬ番と心得ておくべきである。このように覚悟しておけば、物に動ずる事がない」から始まる。
この編者である大神朝臣惟直という人物は、従来佐伯権之助惟直であるとされてきたが、このような人物は実在しないことが分かってきた。
佐伯氏は、初代を惟定と言い、もともとは九州大友氏に仕える武将であったが、大友氏失脚後の、文禄二年から高虎に仕えるようになって、頭角を現した。惟定は一六一八年に死去。二代目惟重は、一六四五年に死去している。
時期的に言えば惟重が合うのだが、惟直と名乗る確証がない。
書き手は、はっきりせず、偽の遺訓ではない、という可能性も100%撤廃できない。
果たして誰が書いたのか、謎である。
だが、内容は、いかにも高虎が考えるようなものである。今に通ずるものも多い。中でも「数年昼夜奉公をつくしても気のつかない主であれば、譜代であっても暇をとるべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない」と断言している内容など、高虎らしい。
時代は下って、幕末~明治期。
藤堂高猷(たかゆき)は、鳥羽・伏見の戦いで、当初は幕府側についていたが、後に新政府軍に寝返り、幕府軍敗走の原因を作ったと言われる。
処世術ともとれるこの身の変わり方は、高虎伝来のものであろうか。


津城址 御城公園として整備されている


公園内の高虎像 逆光気味で御尊顔がよく分からないが、プロペラのような兜は豊臣秀吉より授けられたものとされる

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商人八訓~渡辺崋山

2009年01月20日 | 江戸の人物
豊橋市西南の渥美半島に位置する田原は風は強いが、三河湾に面した温暖で風光明媚な地である。特産物としては、温室メロンが知られ、魚介類の恵みも多い。その地に、トヨタの高級車レクサスを造る工場があり、これまでは順風と思われてきた。それが、今回の経済不況で窮地に追い込まれている。
江戸時代に遡ってみると、田原民の暮らしは楽ではなかった。藩は一万二千石の石高しかなかったが、領内の人口は二万三百人(元禄九年)もいて、小藩であるが城持である。武士といえども、敷地内に屋敷と畑があるのが普通で、昼間は畑を耕す半農のような格好だったという。
この地で最も有名な人物といえば、渡邉崋山であろう。崋山は、寛政5年9月16日(一七九三年)に生まれ、天保十二年十月十一日(一八四一年)に自害した。通称を登(のぼり、のぼる)と言った。
余談になるが、崋山の「崋」の字は、三五歳ころまで「華」で、それ以降は、あまり馴染みのない字の「崋」を用いるようになった。
この崋山ほど「愚直」という言葉が似合う人物を私は他に知らない。
絵画はプロ級で、詩もよく行い、能吏、経世家としても一流であったが、一生涯貧乏生活の中にいた。
器用に振る舞えば、もっと楽な暮らしもできただろうし、彼くらいの才能があれば、たとえば、平賀源内のような斜に構えた部分が態度に現れても不思議ではなかった。
だが、崋山は、どんなに手柄を立てても、自慢する風も、飾るところもなかった。
損得、という概念がなく、たとえ藩主であろうとも自ら信じる道を直言することが多く、藩主も崋山の意図をよく汲み取った。
蛮社の獄で理不尽な仕打ちを受け、更には心ない同僚の中傷のために、自害をする段になっても、自らを「不忠不孝の徒」と言うだけで、何の恨み節もなく果てていった態度は、殉教者の感すら受ける。
ある時、崋山に親しい商人が「何か書いて下さい」と頼んだことがあった。
「書けた」という返事をもらって、商人が崋山の所に行くと、画ではなく、文字が書かれていた。
これが、崋山の「商人八訓」といわれるものである。
「武士の商法」と揶揄された武士層である崋山が書いたのも興味深い。

一・先ず朝は召使より早く起きよ
一.十両の客より百文の客を大事にせよ
一・買手が気に入らず返しにきたらば売るときよりも丁寧にせよ
一・繁盛するに従って益々倹約をせよ
一・小遣は一文よりしるせ
一・開店の時を忘るな
一・同商売が近所に出来たら懇意を厚くし互に励めよ
一・出店を開いたら三ヶ年は食料を送れ


この文句を今でも飾っている商店が田原にはあると言う。
確かに、現代でも通用する訓戒ではないだろうか。
古くはITバブルの崩壊、最近ではアメリカサブプライムローン問題など、現在の不況を引き起こした理由は色々ある。だが、人間の欲望をことさら刺激することによって、景気拡大をしてきたツケにより被っている部分が多いのではないだろうか。今の不況を、崋山が生きていたら、どう見るのだろう。

田原城址桜門

崋山作「花卉鳥虫蔬果画冊」

崋山神社にある崋山像


「崋山渡邉登」 財団法人崋山会

渡邉崋山 田原博物館HP


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土鍋プリン

2009年01月18日 | B級グルメ
先日、津に取材へ行った帰り御城公園の近くを運転していて、ふと車窓をみると、「土鍋プリン」の立看板が目に入った。
もとより、こういった変り種には目がないほうである。
すぐに、Uターンして、その立看板のあったケーキ屋さんへ。
「ルフラン」というケーキ屋さんである。
ショーウインドーに飾ってあった土鍋プリンを見て、ニヤリ。
やはり思っていた通りのものであった。
だが、内容は予想とは違った。クリーム、スポンジケーキと敷かれ、一番下にプリンが。
確かに、全部がプリンだったら、プリンの大人買いのような格好になって、少人数で食べていたら飽きてしまう。
その点、この「土鍋プリン」は、味に変化があって、あっという間に食べられてしまった。
あまり甘くなく、甘党でない私にもおいしく食べられた。
価格が1250円というのも良心的である。
もちろん、土鍋は再利用可能。安っぽいものかと思っていたら、案外しっかりしたものだった。
なかなかのお薦め品。

ルフラン 津市丸之内34-21 059-226-4371 (営業時間9:00~20:30)

包みもユニーク


中を開けると



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カメと犬とCome here

2009年01月13日 | 明治のはなし
急に寒くなりました。
みなさま、ご自愛のほどを。

かく言う私もおとといくらいから、風邪気味で熱っぽかった。
そこで、昨日はぬるめの風呂に長く入ろうと本を持ち込んだ。
本は以前にも引用したことのある「明治百話」。
忘れていた部分も多く、すっかり長風呂になってしまった。

幕末から明治初期には、嘘のような実話が数多くしていて面白い。
明治には、飼い犬に「カメ」と付ける人が多かった。随分とベタであるが、実はこれ、ハイカラ(!)な名前であった。
洋人が飼い犬に向かって「Come here!」(来い)と呼んでいるのを聞いた横浜の日本人が、これはなかなかいいと思い、自分の犬にも聞き真似で「カメ」と付けたのが語源とされている。

これを私が読んだのは、確かカッパブックスの「英語に強くなる本」(岩田一男)ではなかったか、と思う。
この語源については、知ったときから何となく、違和感があった。
それは、単に「Come here」が「カメ」に聞こえるかなあ、というものである。
「Thank you」を日本人は「サンキュー」と発音するが、インドネシアの人は「タンキュー」に近い発音をしていた。
「three」も同じだ。日本人の「スリー」に対してインドネシア人は「ツリー」と発音する。頭では「three」が「スリー」でも「ツリー」でもないと分かっていても、目の前で「ツリー」と言われると、「木」を想像してしまう。
これは、フリガナの功罪である。日本語にない発音を表記するから仕方がないのだが、あくまでも「Thank you」は「サンキュー」ではない。
だが、フリガナが頭にインプットされた我々には(私だけ?)、「Thank you」という発音を聞くと、自然に「サンキュー」というカタカナが出てきてしまう。
逆に言うと、それまで英語に接していなかった人は、もっとピュアで、「Thank you」を英語として聞いていたに違いない。
もどって、全く英語の知識のない人が「Come here」という語を聞いて「カメ」と聞こえたかどうか。
あまり、そう聞こえはしないような気がする。
そうすると、表記した文字からおもしろ半分に「カメ」が編み出されたような気もする。

そのようなことを考えていたら、「カメ=方言説」をとる方がいらっしゃることを知った。

’カメ’(犬)は外来語か?

という論文である。東北では、犬をカメと呼ぶ地方があると指摘し、更にオオカミを、オオカメと呼ぶのは日本全国、広範囲で行われているとする論者の意見は鋭く、的確だ。

この論文を拝見して、ますますカメ=外来語説というのが怪しく思われてきた。
もともと、犬に「カメ」と名付けた横浜の日本人がそんなに多かったのだろうか。
なんとなく、この語には、今で言う都市伝説的な匂いがする。
「横浜の人は飼い犬にカメという名前を付けている。聞けば、勘違いだというが、なかなか洒落ているじゃないか」、という噂が尾鰭が付いたうえで、横浜以外の地方に伝播していったのではないだろうか。

この手の話は、ウィットとユーモアにも富み、飲み屋で話すネタとしては最適だ。
話は、信憑性よりも面白さが優先されて広まり、いつの間にか既成事実のように扱われるようになっていったのだろう。

永年のつかえが取れたようですっきりした。
今日は、「明治百話」から笑い話をピックアップする予定であったが、予定変更です。
そちらのほうは、また次回に、お話させて頂きます。

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物価の上昇

2009年01月10日 | 昭和のはなし
今日は少し時間が空いたのだが、江戸に関する資料が手元になく、昭和の諸物価を書いた表があるので、興味を惹かれたところを書き抜いてみたい。
昭和37年(1959年)の各製品の価格を抜粋します。

平均月収     38,672円(一家族あたり)
米10kg         870円
掛け蕎麦         35円
ビール          125円
ゴルフ(平日)   1,500円
ゴルフ(休日)   2,000円

現在ではどうかというと、これまた正確な数字が手元にないので、主観で想像される金額を下記に書いてみます。

平均月収    550,000円(年収650万円として) 
米10kg       4,000円
掛け蕎麦 430円
ビール          320円
ゴルフ(平日)   12,000円
ゴルフ(休日)   22,000円

今の平均価が信頼されるものではないので、甚だ怪しいが、物価の上昇率を書き抜きます。

平均月収      14.2倍
米10kg       4.6倍
掛け蕎麦      12倍
ビール        2.6倍
ゴルフ(平日)    8倍
ゴルフ(休日)   11倍

なんだか、これだけ見ると、給与所得の上がりのほうが、諸物価の上がりより大きく、生活も楽になっていそうなものであるが、実際はそんな感覚はない。
食費以外の余暇にかける費用が多くなったためではないだろうか。
人間は欲望の塊である。
自分がいいものを持っていると思っても、隣の人が更にいいものを持っていると、そちらを欲しくなってしまう。
パソコンや車などがその典型である。
昔の日本人は貧しくても、ほとんどの人が同じ境遇であったから、我慢もできたし、それ以前に、それほど不満も抱かなかった。
今の不況というのも、人間の欲望を突っついて需要を拡大することしか考えなかったツケなのかも知れない。
それなのに、一時給付金などの目先の政策で需要の拡大を図り、景気回復を願っている政府は、ピントがずれているとしか考えられない。
しかも、給付金などといっても、原資は、我々の出した税金である。
「呉れてやったから、どんどん使え」などとは言われたくない。
江戸時代であっても、正論なき政策には、庶民はあらゆる手で抵抗した。
今の日本の政策は、封建社会と言われた江戸時代にも劣る愚策の連続であるとしか思えない。
いっそのこと、総理も国民総選挙で選ぶようにしてはどうだろう。


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改め婆

2009年01月08日 | 江戸の交通


年明け早々から下世話な話題で恐縮です。

東海道新居の関は、現存する関所として遺構を今に残している。
この関所はかなり取り調べが厳しいことで知られていた。
特に出女と言われ、女性の出入りは厳しく調べられた。
出女とは、江戸から京都方面へ上る女性のことで、人質として江戸に住まわされていた大名の妻が逃亡するのを禁じていた幕府は、特に厳しく取り締まった。

女性から見ると、関所は主に4つに分類された。
①すべての女性の通行を禁止する。
②関所周辺の女性に限り、名主、庄屋の証文で通行させる。
③特定の役所の証文を持参する女性に限り通行させる。
④幕府留守居発行の証文を持つ女性に限り通行させる。

このうち、新居は④であった。
④であっても、江戸へ下る方向には、手形が必要なくなる箱根の関所のようなところもあったが、新居は、上り下りとも女性に関しては手形が必要であった。
男性については、関所手形はグループに一通あればよかった。これは、名主や大家が発行するのが普通であった。
ただ、旅行には、行き倒れたときの処置などを記した往来切手というものが必要で、これは菩提寺の住職に書いてもらった。身分証明書を兼ねたパスポートのようなもので、これは一人につき、一通が必要であった。

改め婆は、証文を持った者が本人に違いないか、女性を取り調べるのであるが、上にある絵のように、股ををめくらされるのは、男性のほうだった。もっとも、むつけき髭面などは、取り調べられないのだろうが、今時のイケメンなどは、みな股間に虫眼鏡を当てられるであろう。
改め婆は、男装した女性がいないか、服をまくらせ、股間をも調べたのである。改め爺では、同性同士とはいえ、調べるほうも、調べられるほうも、お互いに気詰まりに違いない。

婆にしろ、爺にしろ、取り調べを受けるのは、気持ちのいいものではないが、現代でもこれに近いことが行われている。
それは、オリンピックなど大きなスポーツ大会におけるドーピングチェックである。
友人にレスリングのオリンピック候補になった者がいるのだが、ドーピングチェックにおいては、検査員がトイレの個室の中まで入ってくると言っていた。
かつては、パンツの中に袋を隠し持ち、検査コップに偽の尿を入れたりする者もいたそうで、検査を徹底させるために、尿を絞り出すまで見ているらしい。
どの大会でもそうなのか、女性はどうなのか知らないが、これまた気持ちのいい話ではない。
尿を絞り出す気力も失せるなか、なかなか検査できない選手もいるのではないだろうか。

新居ものがたり 新居市教育委員会
東海道膝栗毛の旅 人文社

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吉田松陰から新成人へ

2009年01月05日 | 江戸の話
新聞で成人式開催のニュースを読んだ。
昔は、成人の日は一月十五日であり、成人式もこの日に行われるのが普通だったが、今はGWに行う地域もあるらしい。
新成人の前で識者と言われる人が挨拶するのだが、今の世の中で胸を張って若者の前で話をする資格のある「大人」がどのくらいいるのだろうか。
勿論、自分を含め、甚だ頼りない。
今から百五十年少し前に、元服する甥に幽閉先から成人の心構えを諭した人物がいる。
二十一回猛士こと吉田松陰である。

凡そ生まれて人たらば 宜しく人の禽獣(きんじゅう)に異なる所以(ゆえん)を知るべし

これは松陰の有名な言葉であるが、口語に訳すると「この世に生を受けたからには、人は動物と違う理由を考えなければならない」となる。
この文句は、「野山文稿」の中の一文で、士規七則と題されたものの第一番目にある文である。原文は歯切れのよい漢文で書かれている。
もともと、この文は松蔭が甥の元服を祝って書いたものであるが、この時、松蔭自身もまだ二十六歳。松蔭は松下村塾の塾長のイメージが強く、老成した人間と想像している人もいるかも知れないが、享年は三十歳であり、死ぬまで熱い思いを胸に抱く若者であった。
この士規七則の内容は、松蔭が常々考えていたことであるが、自戒の意味も込めて書いたのかも知れない。
現代の若者には、ぴんと来ない部分もあるだろうが、ごく大雑把に内容をダイジェストすると、以下の通りとなる。

一.人は生き方の基本が忠と考にあることを知リ得てはじめて、動物と区別される。(*原文下記)
一.天皇が日本を尊い国に足らしめている貴重な存在であることを知らなければならない。
一.質素倹約を心掛けよ。
一.武士道において最も大事なのは義である。義は勇気により行動に移され、勇気は義によって確かなものになる。
一.読書を通じて古今の賢者の言葉を知れ。
一.友を選べ。
一.死而後已。

最後の一句は「死して後にやむ」と読む。
桂小五郎や乃木希典もよく口にした言葉であるが、「死ぬまで努力し続ける」という意味。

松蔭は、上記の七則を要約して、まず志を立て、交友関係を慎重に選んだうえで、読書により先達の知識を学べば立派な成人になれる、としている。
現代でも十分通用するアドバイスではなかろうか。

(原文*)凡生為人、宜知人所以異於禽獣、蓋人有五倫、而君臣父子無最大、故人之所以為人、忠孝為本

先進社 吉田松陰・佐久間象山

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所感

2009年01月01日 | 日常雑感
新年 あけましておめでとうございます。

昨年は11月頃から、暗いニュースばかりが聞かれたが、今年は明るい年になって欲しいと祈らざるを得ない。

最近、人の幸・不幸ということをよく考える。
現代というのは、あらゆる情報が昔では考えられないくらい簡単に入手できるようになっている時代である。
その中で情報は洪水のようにあふれ、情報過多ゆえに、情報を受け取るほうも、どの情報を取捨選択したらよいのか、分からなくなっている。
人の財布の中身すら判断できるような情報社会にあって、他人と比較する行為によって、自らの幸せを認識する考え方もある。
このような考え方をしていると、際限のない欲望の罠に堕ちこんでしまうこととなる。
自分の境遇はまあまあのものだな、と思っていても、自分より恵まれている人を知ってしまうと、急に自分の境遇すら、みじめなものに思ってしまう人もいる。逆の場合もあるだろう。
だが、比較によって得られる幸福は本物ではない。
幸・不幸はあくまでも、本人の主観によって得られるべきものである。
人は誰も幸福でありたいと願っている。
それでも、幸福でない人が多いのが現状だ。
これは、幸福が状態だと勘違いしている人が多いせいである。
幸福であるとは、状態ではなく、行為、あるいは思考に他ならない。
幸福な人は、自分がいる状況が偶然に幸福な状態であるのではなく、幸福であろうとする恣意的な思考、行為によって、自分をあるべき位置に置こうとした結果、自分をいいポジショニングに移行できた人だと思う。
今年の目標を一字であらわすとしたら、「朗」である。
明朗の朗。
暗い時代こそ、明るく生きなければ、と思いを新たにする次第だ。