木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

フタスぺ2023 ~本日まで開催

2023年02月26日 | 小説
電子書籍半額セールの「フタスぺ2023」。

いよいよ今日までです。

若き日の十返舎一九を描いた「あすなろ道中事件帖1~3」も出品しております。

よろしくお願いいたします。


フタスぺ!2023小説フェア


川上貞奴と各務原~各務原歴史民俗資料館

2023年02月18日 | 小説
かがみはら百科+「川上貞奴と各務原」 
各務原歴史民俗資料館(令和4年1月29日発行)

川上貞奴は、日本で最初の近代女優と言われた女性だ。
本名は、小山貞。
明治4年(1871年)両替商を営む小山久次郎の12番目の子どもとしてうまれた。
実家の没落に伴い、日本橋葦町(よしちょう)の芸者置屋の浜田屋の女将・可免(かめ)の養女となる。
人気芸者となった貞は、16歳のときに「奴」を名乗るようになる。
このときの後ろ盾は初代総理大臣の伊藤博文らであった。
23歳のとき、貞奴はオッペケペー節で一世を風靡した新派劇の創始者・川上音二郎と結婚。
芸者の世界から離れる。

音二郎の一座は、アメリカやイギリス、フランスへ公演に行く。
海外での公演で、男性が女性役を演じるのは気味悪がられたため、貞奴は「仕方なく」女優となった。
ピカソやロダンなども貞奴に夢中になったという。
帰国後、音二郎は茅ヶ崎に三千坪の松林を購入し、「萬松園(ばんしょうえん)」と名付けた新居を建てた。
音二郎は明治44年(1911年)11月に逝去。
貞奴は、その後も一座を率いたが、大正六年(1917年)に女優を引退。
引退のときの記念品として、貞奴は、
「兎にも角にも 隠れ住むべき 野菊かな」
と焼き付けた白磁の湯呑を配った。

福沢桃介は、旧姓岩崎。
福沢諭吉の次女・房(ふさ)と結婚して福沢姓となった人物である。
貞奴が15歳のときに、成田山まで参詣に行った際、野犬に襲われた。
その危機を救ってくれたのが岩崎桃介であった。
それ以来、貞奴は桃介と交際するようになったのだが、1年後に桃介が房と婚約し、ふたりの仲は破局してしまう。
貞奴が音二郎と結婚した後は、桃介は一座の後援者として裏で貞奴を支えた。
音二郎の死後、貞奴と桃介は急接近。
大正8年(1919年)には名古屋市東区二葉町に「二葉居」と名付けた新居を完成させる。

桃介はのちに「電力王」と呼ばれる実業界の実力者であったが、その元となる財力は諭吉の七光りではなかった。
明治28年(1895年)北海道炭鉱鉄道の石炭主任として働いていたころ、結核となってしまい、会社を辞め入院した。
これが不幸中の幸いとなる。
入院中、桃介は相場で小金を儲け、さらにその儲けを株式に投資して巨利を得る。
ここから、桃介の快進撃は始まる。

大正3年(1914年)名古屋電灯株式会社の社長に就任した桃介は、木曽川の水力発電事業に乗り出す。
大正13年(1924年)11月、木曽川電力開発事業の中で最難関と言われた大井発電所が完成。
桃介は昭和13年’1938年)2月15日、東京の渋谷邸で永眠。

貞奴は、昭和4年(1929年)に木曽川のほとりに別荘を建て、茅ヶ崎と同じ「萬松園」と名付ける。
東京の牛込河田町に住んでいた貞奴は、1月、5月、9月のそれぞれ28日に萬松園を訪れ、10日ほど滞在した。
その貞奴は昭和21年(1946年)12月7日に肝臓がんのため逝去。

貞奴は菩提寺である成田山貞照寺に「八霊験絵図」を寄贈した。
これは貞奴が画家の岡田如竹(おかだにょちく)に彫らせた木版である。
そこには貞奴の人生のピンチが描かれている。
第二面には、桃介の出会いとなった野犬に襲われた場面、第五面には音二郎と小舟で相模湾を漂流した場面が描かれている。

貞奴にっとては音二郎に対する愛情も、桃介に対する愛情も本物だった。
男に追従するのではなく、自分の道を貫いたといえる。
裏ではいろいろ言われたに違いないが、信じる道をまっすぐに歩いた貞奴の姿勢には圧倒される。




音二郎との結婚式



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紀伊国屋書店 フタスぺ2023開催中

2023年02月15日 | 小説
紀伊国屋書店のウエブサイトで今年も双葉社のフタスぺが始まっています。

2月26日までの限定で、対象のタイトルが半額となっています。

弊著の「あすなろ道中事件帖」も「悪女のゆめ」「銀色の猫」「新月の夜」の三部作が半額の対象となっております。


この小説は若き日の十返舎一九を描いたものです。


一九の幼少期は、自ら話をほとんどしなかったのでよくわかっていないのですが、早い時期に小田切土佐守直年の下に仕えています。

土佐守は、大坂町奉行を経て、町奉行に就任するのですが、大坂にいる時期に一九は材木商に入り婿して、武士の身分を捨てています。

しかし、戯作家になる夢は断ちがたく、ひとり江戸に修行に出ます。

その後、蔦屋重三郎の食客となり、戯作の絵などを描くようになるのですが、それまでの一九は無職で収入もなかったので、町奉行に出世した土佐守の援助を受けていたのではないかと思われます。

「あすなろ道中事件帖」はそのころの一九の姿を描いた小説です。

定職も持たず、金も妻子もなく、夢だけを持っていた一九は悶々とした日々を送っていたに違いないのですが、人として魅力を感じます。


時代小説は読まない、といった人にも読んでいただけるような一九の成長譚となっておりますので、この機会にぜひお読みくだされば幸いです。


双葉社 フタスペ!2023_小説フェア|紀伊國屋書店Kinoppy (k-kinoppy.jp)







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馬のいた風景~南部馬

2023年02月11日 | 小説
郷土資料館や博物館に行くと、
「いつか使うかもしれない」
と思って、必ずといっていいほど資料集を買ってしまう。
しかし、ほとんどが本棚の肥やしとなっている。
これではいけない。
ランダムに抜き出し、備忘録的に面白いな、と思った点をブログに書いていきたい。

まずは、もりおか歴史文化館の「あの日あの時の盛岡4馬のいた風景」(平成26年10月26日発行)。

「南部駒」「南部馬」と呼称される南部藩名産の馬は、南部地方が「糠部郡(ぬかのぶぐん)」と呼ばれた時代から「糠部駿馬」として広く知られていた。
平安貴族にとって、良馬の獲得は権力や財力を示すものであったので大変重要視された。
藤原氏二代藤原基衡(もとひら)は京の仏師・運慶に五十疋の糠部駿馬を贈った。
時代は下って江戸時代になると、南部藩による馬は「野馬(のま」、民有の馬は「里馬(さとうま)」に分けて厳しく管理された。
このうち、牡馬を「駒」、雌馬を「駄」と呼んだ。
さらに「馬改(うまあらため)」を置いて、上中下の三等級に区分し、髪を切り「髪印」で認識できるようにした。
範有の馬は藩内九か所に設けられた「御野(おんの)」(藩営の牧場)で育てられた。

江戸時代の馬は体高が一三〇センチくらいであったが、南部駒は一四五センチと体高が高く、見た目や気性もよかったため、憧れのブランド品であった。
南部藩は「南部馬」のブランド力を維持するため、野馬はもちろん里馬も他領への流出、あるいは他領からの馬の流入についても厳しく管理した。

ブランド力を維持するために出荷規制をかけるとは、現代でもありそうな話だ。
あと、「駒」が牡馬に対する名称だとはしらなかった。

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