木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

吉良家の饗飯~上級武士の礼式における食事

2014年08月25日 | 江戸の暮らし
吉良家というと「忠臣蔵」で知らない者がないほど有名になった吉良上野介義央{よしひさ}の家である。
松の廊下事件で、結局、吉良家は元禄十六年(1703年)に改易になった。
その後、享保十七年(1732年)に再興がかなった。
西尾市にある歴史民俗資料館には、吉良流礼法に基づいた吉良御膳の再現フィギュアが展示されている。
上級武士のハレの場での食事が分かって興味深い。
展示によると、
本膳が

小煮物(時季のもの)、小なます(今回は鯛)、潮吸物、汁(赤味噌)、飯、焼塩、梅干、山椒。

二膳が

鮒寿司、指塩(ハモの刺身)、焼鳥(うずらの照焼)、はらみきんこ(ナマコの類)、赤味噌物(鴨汁の味噌仕立)

とある。
もっとも、展示には地元の料理店を使って現代風にアレンジしたと書いてあるので、どこからがアレンジで、どこまでが正式なものか分からないのが残念だ。
だいたい、こんなものだった、という雰囲気を再現しているのだろうか。
確かにこの献立なら、現代でも立派な贅沢として通じる。
だが、現代だったらここに天ぷらだとか、から揚げのようなハイカロリーな品目が加わるに違いない。
やはり現代は飽食の時代には違いない。





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天狗党の危うさ

2014年08月21日 | 江戸の幕末
福井県敦賀市。
敦賀駅からもそう遠くない地に、天狗党党首・武田耕雲斎の銅像が建つ。
銅像の脇には、歴代水戸市長らの名を冠した記念植樹が植わっている。
知る人は多くないと思うが、水戸市と敦賀市は姉妹都市なのだ。
水戸と敦賀の結びつきは、元治二年(1865年)まで遡る。
この年、京を目指して進軍していた天狗党の面々が敦賀の地で大量処刑に遭っている。
敦賀の人は天狗党に対して同情的で、切腹も許されず、罪人のように斬り捨てられた天狗党の諸士を手厚く葬った。
これが縁となって敦賀氏と水戸市の姉妹都市提携が結ばれた。

では天狗党と何か、天狗党の目的は何か、と言われると答が長くなる。
すごく乱暴な私見を披歴すると、「家中の派閥争いに勝つため」と言える。

水戸家では天狗党と諸生党と呼ばれる二代派閥がしのぎを削るように争っていた。
「争っていた」などという言い方は手ぬるく、「血みどろの抗争」とでもいったほうがいい、民族紛争にも似たドロドロの戦いを繰り広げていた。
徳川斉昭は名君だったと指摘する人もいるが、私はちっともそう思わない。

ここでは天狗党うんぬんを述べるのが本論ではないので、話を戻す。

捕えられた天狗党員は、取り調べを受けて、その結果により死罪か否かを決められたいた。
取り調べといってもごく簡単なもので、
「進軍中、お前は刀を取って戦ったか?」
の一問だった。
諾といえば死罪、否といえば死罪には処せられなかった。
NOといえば助命される。
Yesと答えれば打ち首に遭う。
隠れキリシタンの境遇にも似ているようにも思えるが、一種の危うさを感じてしまう。
捕えられた者は約800名。
刑死者は353名。
半数近くが自らの意志で死を選んでいる。
だが、果たして集団の中で自分の主張を表だって言える人間がどれほどいたことか。
武田耕雲斎の孫、武田金次郎が死罪を免れたのも、問いに対して、
「否」
と答えたからだ。
これは周囲の説得があったからに違いない。
家庭事情だとか、天狗党を守るためにだとか、自らの意思というよりも周囲に「選定」されて生死が決定されてしまったのではないだろうか。
先に「危うい」と述べたのは、この「集団的判断」だ。

幕末、水戸家は雄藩と並ぶほどの期待を浴びながら、近視眼的に「家中」での政争に汲々として、気が付いてみれば、維新の蚊帳の外に置かれていた。
優秀な人材も殺し合いで絶えていた。

幕末史上、最大の汚点とも言える天狗党の乱の事後処理だが、もしかすると、処罰した幕府側もこれまで多くの人間が「Yes」と答えるとは思っていなかったのかも知れない。
幕末の水戸家では自分の意見を言えるような雰囲気ではなかった。
自分の考えを主張すれば、簡単に抹殺されかねなかったのだろう。
高い教養を持ち、御三家としての格式も身分も持ち合わせた水戸家にあって、これほどひどい環境に陥ってしまった原因は何かと考えされられる。
原因は何であれ、個人個人が自分の意見を主張できる世界。
何よりも大事なものだと思う。

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松本良順と海水浴と幸福と

2014年08月18日 | 人物伝
逗子海岸では、今年から遊泳者に対して、音楽禁止、飲酒禁止、タトゥー禁止など、かなり厳しい条件を突きつけた。
酒のみの私としては、飲酒禁止というのは辛いが、海の家内では呑めるらしいと聞いて、少しほっとした。
結局は個人のモラルに帰するとは恩うのだが、自分にとっての「好」が他人にとっての「忌」になる場合も多々あり、問題は簡単ではない。

海水浴と聞いて、思い出したのは、松本良順である。
明治18年頃、日本で初めて海水浴を推奨したのが良順だったからだ。
良順は、長崎海軍兵学校の講師だったポンペに、海水浴が健康によいと教えられた。
それ以来、良順は海に興味を持っていたが、神奈川県の大磯を旅したとき、大磯海岸が最も海水浴に適していると感じた。
そこで大磯の旅館「宮代屋(みやだいや)」の主人・宮代謙吉に大磯を海水浴場とすることを強く勧めた。
大磯に日本で初めての海水浴場がオープンしたが、東京から歩いて来るにしては大磯は遠い。
明治20年に鉄道が開始となると、それまでは芳しくなかった客足が急に伸びて行った。
牛乳を日本に広めたのも、良順である。

良順は一般には知名度が少ないかも知れない。
吉村昭の「暁の旅人」の中の一説が分かりやすい。

洋学医の大家・佐藤泰然の子として生まれ、幕府奥医師松本良順の婿養子となり、幕府の医官として長崎に遊学し、オランダ医ポンペについて西洋医学を身につけた。江戸にもどって医学所頭取となり、幕府崩壊を眼にして奥州に脱出し、いずれも幕府への忠誠をくずさぬ会津、庄内両藩のもとで戦傷者の手当につくした。

良順で思い出すのは、下岡蓮杖と並んで日本で写真の祖と言われる上野彦馬とのエピソードだ。
当時の器具では、写真を撮るためには5分以上も身動きをせずじっとしている必要があった。
写真を撮られると魂を抜かれると信じた写真嫌いの人間がほとんどだった。
モデルを引き受けてくれる人物はいなかった。
その際に、よく駆り出されたのが良順であった。
露出を稼ぐために白粉を顔に塗りたくられたまま、じっとしている良順を鬼瓦だと間違えた人もいる、という落ちもついている。
良順は義理固く、情に厚い面倒見のいい人間だったに違いない。

海水浴を勧め、牛乳を広めようとした頃、良順は新政府の兵部省に勤めるようになっていた。
大学東校(後の東京大学)が僻むほどの病院もオープンさせていた。
すべてが順風満帆のような良順順だが、現実はそうではない。
明治12年にはドイツに留学に行っていた長男・太郎を脱疽で亡くす。
明治26年には妻・登喜を劇症肺炎で亡くす。
さらに、同じ年、次男の之助を溺死で亡くす。

人生には色々な不幸があるが、配偶者や子供を亡くす経験は、不幸の中でも最たるものだ。
人格者で、面倒見のいい良順がなぜこんな不幸に続けざまに見舞われなくてはならなかったのだろうか。
「神様は耐えられる者には、強い試練を与える」だったか、「神様は、耐えられないほどの試練は与えない」だったか忘れたか、どこかで聞いた言葉だ。
だが、人間ってそんなに強いものじゃない。
少しのことで心が折れてしまうのが人間だ。

いい人間が必ずしも、幸福にならないのが人生のように思う。
もしかすると、良順はあまりにも自分に厳しい人間だったのかも知れない。
周囲にいた人間も良順の生き方に従おうとするあまり、ついつい自分を追い詰めて行ってしまった可能性もある。

いい人間。
幸福な人間。
どちらを選ぶのか。
両方選べれば問題はない。
必ずしも両立できないとも思えない。

二者択一ではなく、両方を選ぶ感覚。
自分も幸せ。
他人も幸せ。
WIN WIN の関係を求める気持ちが大事なのではないだろうか。

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