木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

二八蕎麦の謎

2013年10月20日 | 江戸の味
古典落語の「時そば」は有名な題目だ。
勘定のときに「いま、何どき?」と聞いて代金を誤魔化す話だが、その中に疑問に思う部分があった。
これから誤魔化そうとする客は店主に色々と世辞を言うのだが、「もう一杯と言いてえところだが、脇でまずい蕎麦を食って来たばかりだ。口直しって訳だから、一杯で勘弁してくれ」という下りだ。御世辞にしろ、二杯食べられなくて勘弁してくれというのは、言い過ぎのように思う。それとも、江戸時代では蕎麦は二杯食べるのが普通だったのだろうか。
二八蕎麦の語源もはっきりとしない。
よく知られるところとしては、
①価格説・・・2×8=16文であるから。
②材料説・・・蕎麦粉八割、小麦粉二割であるから。

江戸時代風俗の百科事典ともいえる「守貞謾考」をみると、
「またある書に云ふ、二八蕎麦は寛文四年(一六六四年)に始まる、云々。すなはち価十六銭を云うなり」と価格説を採用している。
だが価格説が定説かというと、江戸研究の大家・三田村鳶魚氏ですら、
「我等は、先輩の説に拘らず、二八蕎麦は代価からの称呼と解得したい。ただしたしかな証拠の出るまで」と歯切れが悪い。

面白いことに冒頭の私の疑問に答えてくれるような説を出している人もいる。
笠井俊彌氏で、「二八蕎麦とは二杯で十八文の蕎麦である」という従来になかった新仮説を打ち立てておられる。
笠井氏によれば、享保十一年(一七二六年)ごろに「二八即座けんどん」という看板が存在した。そして、しばらく途絶えたのち、明和(一七六四年~)あたりから頻出するようになり、弘化(一八四四年~)以降は急に見られなくなる。
蕎麦の値段は明和までは大体、七~八銭くらいで、明和になると五割増しの十二文に値上がりした。
「守貞謾考」の寛文四年を採るにしても、享保を採るにしても、一杯十六文では高過ぎるというのが笠井氏の説。
また材料説に関しては、三田村鳶魚も指摘しているように、二割の不純物(=小麦粉)が入っているということをわざわざ看板に挙げて喧伝するだろうかという点の他、蕎麦粉八割、小麦粉二割であれば八二蕎麦だという点、さらには、江戸時代はそもそも主原料十に対し、副原料二を足すという考え方だったから、二割八割という概念が存在しない(あえていえば十二蕎麦になるのだろうか)などを挙げて反対している。
これらの説は少し苦しいかも知れないが「二八うどん」の看板もあるという指摘は、材料説を否定するのに有力である。
江戸時代はよく十の位や百の位を略されたという例を挙げて笠井氏は「二八蕎麦の八は十八の十が省略された形」であるとし、「二杯十八文」の十が略されたとしている。
明和期に値上げに苦しんでいた蕎麦屋が苦肉の策として一杯=十二文から二杯=十八文という価格戦略を行った。
もともと江戸時代には一杯飯が嫌われる傾向があったから、この戦略は当たって、急速に広まった。
この頃、二六蕎麦という看板が見られるようになるが、これは2×6=十二文であり、二杯=十八文の本来の意味からはずれたものが、後に伝えれられるようになった。
以上が笠井氏の説の骨子である。
享保の時分に一杯七~八文であった蕎麦が二杯で十八文というのは割高過ぎる。
明和に一杯十二文に値上げしようとしていた蕎麦を九文(十八文÷2)で売るというのは、店側にとってかなり不利。
この二点が気になったが、どうであろうか?

二八さん、あるいは仁八さんが始めたから、「二八蕎麦」なのだと主張される方もおられる(名前由来説)。
大阪・上方の蕎麦

個人的には、何となく付けてしまったのではないか、と思う(語源不明説)。
「ラーメン二郎」は当時売れていたエースコックの「ラーメン太郎」を真似して付けた名前だという。
こんな話は後世には伝わりにくい。
もうひとつ例を引くと、家の近所に「バビュー」という喫茶店がある。名前の由来をきいたら、言葉自体に意味はなく、語感から何となく付けたという。
子供の名前にしても、漢字自体の意味よりも、語感を重視している傾向があるように思う。
たとえば、一八(かずや)さんが始めたイッパチそばという人気店があって、その店名を真似した人間がニッパチそばという屋号を考え付いた。
二八蕎麦は数字自体には意味がないのだが語感もいいし、まあいいか、といった感じで付けらたにかも知れない。

参考文献:蕎麦と江戸文化(雄山閣出版)笠井俊彌
       江戸の娯楽 江戸の食文化(中央文庫)三田村鳶魚
       近世風俗史(岩波文庫)喜多川守貞
       大阪・上方の蕎麦(HP)



↓ よろしかったら、クリックお願いします!!
人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へにほんブログ村






国産ワインの歴史

2013年02月10日 | 江戸の味
保存しておいた葡萄が自然発酵して酒になってから始まったと伝えられるワインは葡萄栽培の歴史とともにあったといってもよく、とてつもなく古い。
はっきりしたところでは、紀元前1600~1700世紀で、ハムラビ法典にも記載がある。
だが、実際は紀元前3000年くらいには既に飲まれていたものと考えられている。

一方、日本への伝来は比較的新しい。
岩下哲典氏は、「蔭涼軒目録」の中の記載を引いて、室町時代である文正元年(1466年)8月1日を疑問符付きではあるが、最古の輸入例としている。
確実なところでは、天文十二年(1543年)8月25日、ポルトガル人の種子島来航が挙げられる。
キリスト教にとってワインは宗教儀式に欠かせない大事なツールであって、イエズス会の宣教師もミサ用にワインを持ってきたのである。
その後、日本が鎖国政策を取ると輸入ワインも途絶える。
では、国産のワインはどうだったかというと、明治以前には、はっきりした記録がほとんどない。
「ほとんど」と限定したのは、前述の岩下氏が著書の中で「大猷殿御実記」の記載を引いて、正保元年8月2日、大老であった酒井忠勝が尾張家・徳川義直に「日本製之葡萄酒」を献上したと指摘しているからだ。
輸入ワインについて、木島章氏は「川上善兵衛伝」の中で、「明治維新まで、葡萄酒は大名を中心とした一部士族の間で珍重品としてたしなまれていただけだった」と書いているが、これはどうであろうか。「たしなんで」いたのは、かなり限定されると思う。

いずれにせよ、国産ワインの黎明が明治を待たなければならないのは確かである。
では、なぜ江戸時代には国産のワインが作られなかったかというと色々な原因があると思う。

①ワインはキリスト教での大事な道具であり、タブー視された。
たとえば、八代将軍・徳川吉宗は、オランダ使節を引見したとき、西欧の食べ物にも非常な興味を示し、食料品の見本を取り寄せたり、オランダ人の宿舎へ側近を遣わせて、洋食を試食させたりしている。
しかし、ワインに関する記述は見当たらない。当時、ワインは公に口にするのを憚られるような雰囲気があったのかもしれない。

②葡萄自体が貴重であった。
甲府の葡萄は元和年間(1615~1623年)に医師・永田徳本が棚作りを伝授してから盛んになったというが、しばしば将軍にも献上されている。葡萄にはさまざまな病気を治す薬効があるとされたこともあり貴重であった。
収穫高も十分でない葡萄は、葡萄酒に回す余裕がなかったのではないか、と思われる。

③製造技術が未熟であった。
江戸当時栽培されていた品種がワイン向きではなかった。そして、ワイン作りの技術を伝えてくれる人間がいなかったので、上質のワインは製造出来なかったであろう。

④日本人の口に合わなかった
この理由が一番大きいと思われる。
野菜料理が中心で、ほとんど肉を口にしなかった日本人にとって、ワインは酸味が強く、美味しくなかったと考えられる。
薬として捉えられていたとしても、葡萄にどれだけの薬効があるか疑問である。
貴重である割には、ワインは費用対効果が薄かったのが国産に限らず、江戸時代にワインが出回らなかった最大の原因であると思う。

では、国産ワインはいつから作られるようになったかというと、明治三年から四年にかけて、山田宥教と詫間憲久が甲府で始めたのが嚆矢である。
山田は真言宗の僧侶。
日本初となるぶどう種共同醸造所は寺の境内に建てられた。
ふたりの事業はとん挫し、今でははっきりした記録も残っていない。
明治六年には神谷伝兵衛が甘味葡萄酒の試験醸造を開始し、明治十五年には、蜂印葡萄酒を発売する。
これが今も現存するシャトーカミヤである。


写真は優良国産ワインである井筒ワインのにごりワイン。すでに、赤と白は売り切れていた。ロゼなら若干残っているようだ。

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=tadious-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B00858R62O&ref=tf_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>


シャトーカミヤHP

山梨ワインの歴史

ワイン学 産調出版
権力者と江戸のくすり 北樹出版 岩下哲典
川上善兵衛 サントリー博物館文庫 木島章
徳川吉宗 新人物往来社

 ↓ よろしかったら、クリックお願いします!!

人気ブログランキングへ


にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村


 
 



白菜の花~白菜は浮気者

2012年07月28日 | 江戸の味
江戸時代、白菜は日本に伝わっていなかった、というのが通説である。
日清戦争、日露戦争により中国大陸に渡った兵士が見たことのない美味な野菜に接し、その種を持ち帰った。これが、白菜のルーツとされてきた。
手元の「野菜づくり大図鑑」(講談社)を見ても、「白菜が日本に伝わったのは明治8年である」と記されている。

江戸以前、白菜が日本で作られていなかったのは、とても不思議だと常々思っていた。
ヨーロッパ原産のキャベツですら宝栄・正徳年間(1704~1715年)には日本に伝えられていた。
中国の野菜であり、いかにも日本人好みの白菜がなぜ明治になるまで日本に定着しなかったのだろうか。
このヒントは菜の花にそっくりな白菜の花にある。

白菜は、同じアブラナ科のカブとチンゲンサイが交配してできた「牛肝菜」と呼ばれている野菜が先祖である。
キャベツもレタスも同じであるが、自然の白菜は非結球であった。牛肝菜も結球していない。
その後、品種改良が繰り返され、現在の結球した白菜が生まれる。

半結球の白菜は秀吉が朝鮮侵略の際に、日本に連れてきた陶工たちが持参して来たとも言われている。
白菜の仲間である広島菜や大阪白菜とも呼ばれるシロナが江戸時代から作られてきた事実も、この説を裏付ける。
ではなぜ本家の白菜は消えてしまったのだろう。

話は戻って、白菜が日本に伝えられたのは明治8年との記述を紹介した。
この明治8年というのは東京の博覧会に3株の山東白菜(結球白菜)が展示された年である。
そのうちの2株を愛知県栽培所が払い受け、栽培を続けた。
しかし、種を採って栽培しても結球せず、偶然のように結球したのは20年後の明治27、8年だと言う。
この結球白菜は、相当珍しかったらしく天皇陛下にも献上された。
当時は高価な中国産の種子が使われており、日本産の種子による結球白菜が栽培されるようになったのは、大正時代になってからであった。

日清、日露戦争帰りの兵士が蒔いた種によっても、結球白菜を育てることができたが、更にその白菜から種を採って蒔くと、結球しない。
当時、どこでも見られた菜の花、あるいはカブ、小松菜は白菜の親戚であるが、白菜が簡単にそれらの種と交配してしまうのが原因だった。
浮気者の白菜はすぐ他のアブラナ科の野菜と子を作ってしまったのである。
純粋な白菜は一代で姿を消し、二代目からはハーフになってしまう。
つまり、白菜は代を重ねるごとに日本に古くから伝わっていた野菜に変化していって、白菜ではなくなっていったのだ。
柔軟な適応能力と見るべきか、優柔不断ゆえの没個性と見るべきか。

結論としては、白菜は江戸時代以前にも日本には伝わっていたが、栽培できなかったというのが事実であろう。

余談になるが、現代農業で使われている種子は一代限りのもので、育った野菜から種を採って撒いても、二代目はうまく育たない。
いわば、ダビング防止加工が為されたCDのようなものだ。
農家が種子を買ってくれなければ種苗会社は経営が成り立たなくなるから当然なのかも知れないが、子孫を繁栄させられない種を作り出すというのは、自然の摂理からすると、異常には違いない。

参考:野菜学入門(相馬暁)三一書房



↓ よろしかったら、クリックお願いします!!

人気ブログランキングへ

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=tadious-22&o=9&p=8&l=as1&asins=438006204X&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>


江戸の酒

2012年06月27日 | 江戸の味
ワインの消費量を見ていたら、中国が世界第4位になった(2011年度)との統計に出くわした。1位はアメリカ。
以下、2位イタリア、3位フランス、4位ドイツ。一昨年5位だったイギリスを抜いて5位になったのが中国である。
しかし、消費量を国民ひとり当たりの量で見ると、順位はかなり変わってくる。
1位フランス、2位ルクセンブルグ、3位イタリア、4位ポルトガル、5位スイス(メルシャン資料より)。もっとも、こちらの資料は2007年のものなので、昨年の順位とは単純に比較できない。
日本のひとり当たりの年間ワイン消費量は2リットル。フルボトル約3本分である。フランスは52.1リットルでさすがはワインの国という感じがする。
ちなみに、日本のアルコール消費量の内訳を見てみると、清酒4.89リットル、ビール22.55リットル、発泡酒8.85リットル、リキュール11.85リットル、ウイスキー0.66リットル。
全体では一人当たり年間67.69リットルのアルコールを消費している(前述メルシャン資料)。
数字を比較すると、ワインだけで52リットルものアルコールを消費しているフランスとは酒好きという点では、遥かに敵わない。
日本ではビール、発泡酒、第三のビールで7割くらいを占めるが、ビールの消費量で見ても、世界的には38位に過ぎない。1位はチェコであるが、日本の2.9倍ものビールを飲んでいる(キリンホールディング資料)。

江戸時代を見ると、元禄期には上方から江戸に入ってくる酒が年間二十一万石に達していた。この頃の江戸の人口を七十万人と見積もると、年間一人当たりの消費量は54リットル。アルコール度数だけを考えると、江戸時代の人の方が酒をより多く飲んでいたかも知れない。

「八文じゃ盧生が夢のとばっ口」という川柳があるように、文化の頃の下酒の価格は一合八文で、二八蕎麦の半額くらいだった。今でいえばラーメンの半額くらい。ラーメンが七〇〇円だったら、ビール三五〇円という計算になる。なんとなく同じような価格で親近感がわく。惣菜も一皿八文くらいである場合が多く、現代でいえばニッパチ酒場のような感覚だったのだろう。

居酒屋のことを「矢大臣」と呼ぶことがある。テレビの時代劇などだと、テーブル付きの椅子に座っているような居酒屋の場面が多いが、江戸時代ではテーブルもない床に客は座っていた。現代で言うと、花見のとき、ブルーシートを敷いて飲んでいるような恰好だ。
居酒屋に畳などの高級品はなく、板の間であり、少し程度がいいと、むしろが敷いてあるくらいだった。
このとき、片膝を立てて飲んでいる人も多く、その姿が矢大臣に似ているから、居酒屋の別名となったのである。

ただし、居酒屋が定着するのは江戸時代も中期以降で、それ以前は、「享保の半ばくらいまでは、丸の内から浅草の観音まで行くのに、昼食をするにも困ったものです」と三田村鳶魚が述べているように、江戸初期には縄暖簾だとか、居酒屋はなかった。

居酒屋で一番有名だったのは、神田鎌倉河岸の「豊島屋」である。
鎌倉河岸の辺りは人足や職人が多く住んでいたが、豊島屋は名物の田楽と、安い惣菜を提供し、薄利多売で日夜混雑した。
特に、豊島屋の白酒は有名で、「山ならば富士、白酒ならば豊島屋」と歌にも詠まれた。この白酒は、雛祭り前の二月二十五日の一日だけしか売られなかったので、この日は。押すな押すなの大盛況になった。当日は鳶の者が鳶口を持って二階から下を見張っていた。けが人が現れたなら、鳶口で二階に引っ張り上げようとしていたからだ。
東京に今でも豊島屋という酒店が多いのは、江戸の豊島屋の屋号を真似しているからである。

今日は日本初のワインについて書こうとしていたが、すっかり脱線してしまった。ワインについては、次回に譲るとしたい。

参考
江戸名所図会を読む 東京堂出版 川田壽
時代風俗考証 河出書房 林美一
町屋と町人の暮らし 学研 平井聖
娯楽の江戸 江戸の食生活 中央文庫 三田村鳶魚

↓ よろしかったらクリックお願いいたします。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村


江戸時代の武士が食べなかった食材~キュウリは本当に食べなかった?

2012年05月19日 | 江戸の味
江戸時代の武家社会では表立ってキュウリを食するのが憚られた。
キュウリを切ったときの断面が三つ葉葵に似ているからだ。
しかし、キュウリは暑い夏場に冷やしたキュウリはとてもおいしい。
それに成長の早いキュウリは安い。
その辺の事情もあったのだろう。厳密に守られていなかったようだ。
実際、キュウリを食べて切腹とか、閉門などに処せられた例は聞かない。
武士は、キュウリを公の場では食べないという、いわばマナーに属する問題だったのであろう。

宮越松子氏の「幕末のさる大名家の御献立」は、江戸に参勤交代に来ていた小大名の献立を一年に亘って分析した労作だ。
この研究によると、まったく食卓に上らなかった野菜は、ネギ、ニラ、ラッキョウの類である。
一年を通じてこれらの野菜は一回も食されていない。
公務をこなす大名という立場上、臭いの強い野菜は敬遠されたのであろう。
普通の武士がネギ、ニラ、ラッキョウの類を食べなかったかどうかは分からないが、現在のような歯磨きも口臭防止スプレーもなかった時代、大名という重職にある武士から敬遠されたのは十分にうなずける。
不思議なのはニンニクで、祝い膳の際に使われている。どのような料理に使われたのかは分からない。たった一回ではあるが、臭いの点ではネギやニラ、ラッキョウよりも強いニンニクが使われたのは不思議でもある。ニンニクは薬用として用いられたのかも知れない。

江戸時代は野菜の数よりも魚の種類が豊富であったが、魚でも武家には食されなかったものがある。
コノシロである。
コノシロは出世魚でシンコ、コハダ、コノシロとなる。今では寿司ネタのコハダが有名かも知れない。
コノシロは、「この城」を連想させる。
「この城」を焼くのは憚られたのである。
また、切腹の時に添えられた魚であるともいう。
そこから、武家社会では嫌われ食べられなかったようであるが、これはマナーというより、縁起が悪いといった嫌われ方だった。

禁止と言う点では、武家社会では忌日精進日などが設けられた。
忌日や精進日には、魚や卵を含め、生き物を口にすることができず、野菜や豆腐などの植物性加工品のみとなった。
これは武家社会だけかというと、江戸の小噺に精進日に初鰹を貰って困っている男の話があるから、案外、庶民も守っていたようである。

そのほか、武家献立のなかには、「ご主人塩断ち」などという日もあり、塩分までも規制された。
なんとも不自由なようであるが、飽食の現代と違ってある意味では健康的な食生活であったようにも思える。

↓ よろしかったら、クリックお願いします。
人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へにほんブログ村


幕末のさる大名家の「御献立帳」

2011年06月04日 | 江戸の味
雄山閣「日本の食文化 十巻」で宮腰松子さんが興味深い研究を発表されている。
幕末のさる大名家の「御献立帳」という内容で、慶応二年、三河半原藩主・安部摂津守信発が江戸上屋敷で何を食べていたかの記録を集計したものである。
摂津守は、二万二百五十石取。大名としては小身であり、武士の家計が逼迫していた幕末の記録、という点を差し引いても、かなり質素である。
朝は一汁一菜、昼は汁なし二菜、夜は汁なし一菜が中心となっている。
具体的に見てみると
(朝)大根と油揚げの御汁、ごぼう(昼)くわいと焼き豆腐、厚焼き玉子わさび添え(夜)本海老鬼がら焼き、若鮎、御酒(二月一日)
などとあり、それなりに良さそうな気もするが、
(朝)里芋の御汁、こんにゃく(昼)うど、せん玉子(夜)平目、竹の子、御酒(二月十三日)
(朝)里芋の御汁、こんにゃく(昼)〆豆腐、くわい(夜)王余魚{カレイ}(二月二十四日)

などと更に質素な日も多い。
宮腰さんは、どのような食材が何回使われたかを丹念に集計されている。
それによると、1年間に魚類が368回、鶏や卵、加工食品が307回、野菜類が621回となっている。
朝昼夕のうち、一回は魚が出て、あとの二回は野菜と玉子などが出た計算になる。
魚のベスト5は、車海老(73)、まぐろ(35)、かれい(24)、芝海老(19)、たい(18)である(カッコ内は一年間で使用された回数)。
車海老や鯛、カレイなどはそれなりに高級っぽいが、まぐろは江戸時代は下賎な魚であったという説があっただけに、回数が多いのは意外だった。
大衆魚であるイワシはさすがに食卓に上っていないが、アジは8回食されている。高価な魚と言われたカツオは3回(4月、7月、10月)食べられている。
牛、豚はもちろん口にされず、肉類としては、鶏7回、カモ8回、シャモ16回が食べられたに過ぎない。
その分、玉子は使用量が多く180回。
野菜類としては、大根(104)、ごぼう(74)、長いも(53)、里芋(52)、サツマイモ(51)、くわい(51)、みつば(33)、ゆり(23)などの使用が目立つ。
逆に、にんじん(1)、きゅうり(5)、なす(8)、ねぎ(0)などの使用は少ない。
あと、面白いのは飲酒で、昼に御酒がついたのは63回、夜は187回とある。
夜は二日に一遍の飲酒となっていたのは分かるが、昼も6日に一回くらいは飲酒していたことになる。
あと、精進日というのが月に何回かあって、この日は魚や肉類は食べられなくなる。

では、ハレの日の食卓はどうであったか。
11月19日の誕生日の昼食の記録がある。

1.(御汁)   アオサ入り御汁
2.(御猪口)  貝柱、海苔
3.(御平)   せり、はまぐり、長いも、麩、しいたけ
4.(御香物)  御香物
5.(二の汁)  さよりとみつばのお吸い物
6.(御八寸)  御刺身
7.(その他)  御赤飯、御銚子


とあり、それなりに豪華である。

しかし、豪華なのはごく一部の日だけであって、残りの日は現代の感覚からすると、驚くほど質素であった。

↓ よろしかったら、クリックお願いします。
人気ブログランキングへ



反本丸

2010年07月28日 | 江戸の味
夏バテ気味である。
特に頭が働かない。
やる気モードも低下していて、少し様子見の状態。

こんなときは食べるに限ると食べ放題に行ったら、翌日はひどく調子が悪かった。
食べ放題とセットだった飲み放題のせいか?

江戸時代は動物性たんぱく質を食生活で摂ることが極端に少なかった時代で、同じように夏バテで悩まされた人も多かったのではないだろうか。
江戸時代の人の労働時間は現代に比べてかなり少なかったので、楽だったかのような表現を見かけるが、今も昔も忙しい人は忙しかったし、責任のある人物にかかるプレッシャーやストレスの度合いも現代と変わらなかったように思う。
名誉を重んじる武士の生活は現代より厳しかったかも知れない。
この時代、動物の肉を食べる人間は少数派であったが、現代でいうジビエのような感覚で一部の好事家には食されていた。
その際は、薬喰い、などと称して、馬を桜、イノシシを牡丹などと呼んだのが、現代の呼び名にも残っている。
徳川慶喜の豚肉好きは有名で、当時から「豚一殿」などと呼ばれていた。
牛は農耕の貴重な動力であり、積極的には食されなかった。
滋賀県彦根では、死んだ牛の皮を加工する職人がいて、彼らは余った肉を食した。
その習慣が、彦根の牛の味噌漬けを生む。
この味噌漬けはグルメ食としてではなく、滋養強壮剤として捉えられていた。
中国の「本草綱目」にヒントを得て「反本丸」(へいほんがん)なる薬も作られた。
彦根博物館に行くと、病気の娘に牛肉の味噌漬けを与えたところ、すぐに快癒したと記す寺社奉行からの令状が飾ってあるが、いったい、どんな病だったのであろう。

この牛肉を貰った人物に意外な人物がいる。
大石内蔵助である。
老齢の堀部弥兵衛におすそわけをしたときの文が残っている。
息子の主税は、若いから却って害になるので食べさせない、などと書いているのが興味深い。

後に宿敵になる水戸の徳川斉昭にも井伊直弼が贈っている。
嘉永元年であるから、安政の大獄の始まる11年も前のことである。
毎年のように所望していた中に、松平丹波守光年という人物がいる。
丹波守は、松本藩の藩主であった。
戊午の密勅は、孝明天皇が幕府を飛ばして、水戸に直接指示を与えたものであり、命令系統を無視したものである。
それだけに、幕府は頭から湯気を立てて怒り、大老の井伊直弼が安政の大獄を始めるきっかけともなった。
この戊午の密勅の仲介を図ったのが、松本藩の名主であった。
皮肉といえば、皮肉な巡り合わせだ。

↓ よろしかったら、クリックお願いします。
人気ブログランキングへ








旅籠の食事

2010年03月09日 | 江戸の味
今でも旅行は娯楽として人気が高いが、江戸時代では、今とは比べ物にならないくらい、旅行は気晴らしとなった。
江戸時代も幕末となると、かなり旅の自由度はかなり高くなった。
土地土地の景観もさることながら、旅行の最大の楽しみは食事である。
東海道筋としては、まず川崎の菜飯、鶴見の米饅頭、小田原の外郎(ういろう)、箱根の雑煮、新居の鰻蒲焼、府中の安倍川餅、丸子のととろ汁、岡崎の淡雪豆腐、桑名の焼きハマグリ、草津の姥が餅などが有名であった。
今でも高速のパーキングによるたびに何かを食べている人がいるが、江戸の時代にあっても同じようなものだったのであろう。

ただ、旅籠の食事は質素であった。いわゆる一汁二菜で、ご飯も江戸以外は白米でないことが多かった。
下の写真は豊橋の二川宿本陣資料館にある江戸の食事の模型である。
主菜は、焼き魚と煮物。ご飯はおひつにどんと入っている。
グルメブームの今からすると、随分見劣りするように見えるかも知れないが、これで江戸時代ではご馳走だったのである。



↓ よろしかったら、クリックお願いします。

人気ブログランキングへ

和風ブログ・サイトランキング












盛相飯(物相飯)

2009年09月02日 | 江戸の味
俗に壁の向こう側での食事を「臭い飯」という。
また、盛相飯《物相飯・もっそうめし》ともいう。
これは時代小説好きな人なら常識といってもよい事柄だが、今日、樋口清之さんの「日本人の歴史」を読んでいて、とても驚いた。

盛相というのは、もともとは禅会席の食べ方をさした言葉であるが、時代が下ると、江戸の牢屋でも、盛相飯を出すようになった。

盛相というのは、言葉通り、型に入れて一気に抜いて、そのまま板に乗せて出すものである。旗が立っているお子様ランチなどは、まさに盛相である。幕の内弁当なども盛相飯の一種になるのだろうか。

だが、囚人に対して出された盛相飯は丼に入っていた。
丼に入れてから板に盛り付けるのは手間になるからだ。

盛相=型に入れて抜いた、と考えると、チャーハンも盛相飯のようだし、インド料理屋さんなどでライスを頼むときっちり型取られたライスが出ることもある。

そう考えると、盛相とは調理方法の一種であると言える。
必ずしも、盛相飯=低級なもの、という考えは間違いなのであろう。


日本人の歴史(2)食物 樋口清之 講談社

↓ よろしかったら、クリックお願いします。
人気ブログランキングへ


パン祖の碑

2009年07月28日 | 江戸の味
近年、田方郡というベタな地名から、伊豆の国市という響きのいい名前に町名変更した地に「パン祖の碑」がある。
パン祖とは、海防論で名を馳せた伊豆代官江川太郎左右衛門英龍
地元では「担庵公(たんなんこう)」と呼んだほうが通りがよいそうだ。
英龍が日本で初めてパンを作った日とされるのが天保13年(1842年)4月12日

英龍は長崎に行って、高島秋帆から高島流砲術を習っている。幕臣の中でも砲術に関する知識はトップクラスであり、また、当時の一流技術者でもあった。
品川のお台場を設計したのも英龍であったし、韮山の反射炉を作ったのも英龍であった。
また、英龍は絵画の腕もなかなかのものであり、文化人としての一面も持ち合わせていた。
佐々木譲氏が「幕臣たちと技術立国」の中で英龍を取り上げ、「早すぎた英雄」と評しているように没年が安政二年(1855年)と幕末の初期に亡くなったたため、後世への名の伝わり方が低い。享年55歳であるが、もっと長生きしていれば、幕末の海防史のキーマン的存在になったに違いない。もっと想像力を逞しくすると、五稜郭の榎本軍に英龍が加わっていれば、戦況も変化したのではないか、などと思う。

さて、話はパンに戻る。
4月12日は「パンの日」と呼ばれ、平成19年からは「パン祖のパン祭」なるイベントが地元では行われるようにもなった。
このパンの日は昭和58年(1983年)に制定なので歴史は新しい。
江川英龍がパン祖と呼ばれるようになったのは、もっと古く昭和28年(1842年)で、記念碑の碑文は徳富蘇峰の筆による。
以前から、碑の存在は知っていたが、どんなものか見たことがなかったので、見てみたかった。
実際に見ると、微妙な曲線を持った何とも奇妙なオブジェである。
碑は有料施設である江川邸の中にあるのだが、三島駅前などもっと目立つ場所に置いてもいいようにも思う。

パンは兵糧食として作られ、当初はとても固く、水でふやかして食べるようなものであったという。当時も、日本にいた外国人は現在のパンと同じようなものを食べていたと思われるが、英龍の作らせたパンは現代人の感覚からすると、まったく違う食べ物であったのだろう。
このパンは厚さ1寸(約3cm)、大きさ3寸四方(9cm)程度のもので、普通の者は、1枚半、大食らいの者は2枚が分量とされた。水とともに食すると腹の中で膨れるとあるが、何となく、これでは少ないような……。

後から知ったのであるが、近くの物産品店で「パン祖のパン」という土産が売っていたそうである。
私は見なかったが、もうないのか、それとも見落としただけなのか。
いずれにせよ、話の種というだけで、喜んで食べるようなものではないようである。



さすがに立派な趣の江川邸。


何とも奇妙な形のパン祖の碑。

↓ よろしかったらクリックお願い致します。
人気ブログランキングへ