古典落語の「時そば」は有名な題目だ。
勘定のときに「いま、何どき?」と聞いて代金を誤魔化す話だが、その中に疑問に思う部分があった。
これから誤魔化そうとする客は店主に色々と世辞を言うのだが、「もう一杯と言いてえところだが、脇でまずい蕎麦を食って来たばかりだ。口直しって訳だから、一杯で勘弁してくれ」という下りだ。御世辞にしろ、二杯食べられなくて勘弁してくれというのは、言い過ぎのように思う。それとも、江戸時代では蕎麦は二杯食べるのが普通だったのだろうか。
二八蕎麦の語源もはっきりとしない。
よく知られるところとしては、
①価格説・・・2×8=16文であるから。
②材料説・・・蕎麦粉八割、小麦粉二割であるから。
江戸時代風俗の百科事典ともいえる「守貞謾考」をみると、
「またある書に云ふ、二八蕎麦は寛文四年(一六六四年)に始まる、云々。すなはち価十六銭を云うなり」と価格説を採用している。
だが価格説が定説かというと、江戸研究の大家・三田村鳶魚氏ですら、
「我等は、先輩の説に拘らず、二八蕎麦は代価からの称呼と解得したい。ただしたしかな証拠の出るまで」と歯切れが悪い。
面白いことに冒頭の私の疑問に答えてくれるような説を出している人もいる。
笠井俊彌氏で、「二八蕎麦とは二杯で十八文の蕎麦である」という従来になかった新仮説を打ち立てておられる。
笠井氏によれば、享保十一年(一七二六年)ごろに「二八即座けんどん」という看板が存在した。そして、しばらく途絶えたのち、明和(一七六四年~)あたりから頻出するようになり、弘化(一八四四年~)以降は急に見られなくなる。
蕎麦の値段は明和までは大体、七~八銭くらいで、明和になると五割増しの十二文に値上がりした。
「守貞謾考」の寛文四年を採るにしても、享保を採るにしても、一杯十六文では高過ぎるというのが笠井氏の説。
また材料説に関しては、三田村鳶魚も指摘しているように、二割の不純物(=小麦粉)が入っているということをわざわざ看板に挙げて喧伝するだろうかという点の他、蕎麦粉八割、小麦粉二割であれば八二蕎麦だという点、さらには、江戸時代はそもそも主原料十に対し、副原料二を足すという考え方だったから、二割八割という概念が存在しない(あえていえば十二蕎麦になるのだろうか)などを挙げて反対している。
これらの説は少し苦しいかも知れないが「二八うどん」の看板もあるという指摘は、材料説を否定するのに有力である。
江戸時代はよく十の位や百の位を略されたという例を挙げて笠井氏は「二八蕎麦の八は十八の十が省略された形」であるとし、「二杯十八文」の十が略されたとしている。
明和期に値上げに苦しんでいた蕎麦屋が苦肉の策として一杯=十二文から二杯=十八文という価格戦略を行った。
もともと江戸時代には一杯飯が嫌われる傾向があったから、この戦略は当たって、急速に広まった。
この頃、二六蕎麦という看板が見られるようになるが、これは2×6=十二文であり、二杯=十八文の本来の意味からはずれたものが、後に伝えれられるようになった。
以上が笠井氏の説の骨子である。
享保の時分に一杯七~八文であった蕎麦が二杯で十八文というのは割高過ぎる。
明和に一杯十二文に値上げしようとしていた蕎麦を九文(十八文÷2)で売るというのは、店側にとってかなり不利。
この二点が気になったが、どうであろうか?
二八さん、あるいは仁八さんが始めたから、「二八蕎麦」なのだと主張される方もおられる(名前由来説)。
大阪・上方の蕎麦
個人的には、何となく付けてしまったのではないか、と思う(語源不明説)。
「ラーメン二郎」は当時売れていたエースコックの「ラーメン太郎」を真似して付けた名前だという。
こんな話は後世には伝わりにくい。
もうひとつ例を引くと、家の近所に「バビュー」という喫茶店がある。名前の由来をきいたら、言葉自体に意味はなく、語感から何となく付けたという。
子供の名前にしても、漢字自体の意味よりも、語感を重視している傾向があるように思う。
たとえば、一八(かずや)さんが始めたイッパチそばという人気店があって、その店名を真似した人間がニッパチそばという屋号を考え付いた。
二八蕎麦は数字自体には意味がないのだが語感もいいし、まあいいか、といった感じで付けらたにかも知れない。
参考文献:蕎麦と江戸文化(雄山閣出版)笠井俊彌
江戸の娯楽 江戸の食文化(中央文庫)三田村鳶魚
近世風俗史(岩波文庫)喜多川守貞
大阪・上方の蕎麦(HP)
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勘定のときに「いま、何どき?」と聞いて代金を誤魔化す話だが、その中に疑問に思う部分があった。
これから誤魔化そうとする客は店主に色々と世辞を言うのだが、「もう一杯と言いてえところだが、脇でまずい蕎麦を食って来たばかりだ。口直しって訳だから、一杯で勘弁してくれ」という下りだ。御世辞にしろ、二杯食べられなくて勘弁してくれというのは、言い過ぎのように思う。それとも、江戸時代では蕎麦は二杯食べるのが普通だったのだろうか。
二八蕎麦の語源もはっきりとしない。
よく知られるところとしては、
①価格説・・・2×8=16文であるから。
②材料説・・・蕎麦粉八割、小麦粉二割であるから。
江戸時代風俗の百科事典ともいえる「守貞謾考」をみると、
「またある書に云ふ、二八蕎麦は寛文四年(一六六四年)に始まる、云々。すなはち価十六銭を云うなり」と価格説を採用している。
だが価格説が定説かというと、江戸研究の大家・三田村鳶魚氏ですら、
「我等は、先輩の説に拘らず、二八蕎麦は代価からの称呼と解得したい。ただしたしかな証拠の出るまで」と歯切れが悪い。
面白いことに冒頭の私の疑問に答えてくれるような説を出している人もいる。
笠井俊彌氏で、「二八蕎麦とは二杯で十八文の蕎麦である」という従来になかった新仮説を打ち立てておられる。
笠井氏によれば、享保十一年(一七二六年)ごろに「二八即座けんどん」という看板が存在した。そして、しばらく途絶えたのち、明和(一七六四年~)あたりから頻出するようになり、弘化(一八四四年~)以降は急に見られなくなる。
蕎麦の値段は明和までは大体、七~八銭くらいで、明和になると五割増しの十二文に値上がりした。
「守貞謾考」の寛文四年を採るにしても、享保を採るにしても、一杯十六文では高過ぎるというのが笠井氏の説。
また材料説に関しては、三田村鳶魚も指摘しているように、二割の不純物(=小麦粉)が入っているということをわざわざ看板に挙げて喧伝するだろうかという点の他、蕎麦粉八割、小麦粉二割であれば八二蕎麦だという点、さらには、江戸時代はそもそも主原料十に対し、副原料二を足すという考え方だったから、二割八割という概念が存在しない(あえていえば十二蕎麦になるのだろうか)などを挙げて反対している。
これらの説は少し苦しいかも知れないが「二八うどん」の看板もあるという指摘は、材料説を否定するのに有力である。
江戸時代はよく十の位や百の位を略されたという例を挙げて笠井氏は「二八蕎麦の八は十八の十が省略された形」であるとし、「二杯十八文」の十が略されたとしている。
明和期に値上げに苦しんでいた蕎麦屋が苦肉の策として一杯=十二文から二杯=十八文という価格戦略を行った。
もともと江戸時代には一杯飯が嫌われる傾向があったから、この戦略は当たって、急速に広まった。
この頃、二六蕎麦という看板が見られるようになるが、これは2×6=十二文であり、二杯=十八文の本来の意味からはずれたものが、後に伝えれられるようになった。
以上が笠井氏の説の骨子である。
享保の時分に一杯七~八文であった蕎麦が二杯で十八文というのは割高過ぎる。
明和に一杯十二文に値上げしようとしていた蕎麦を九文(十八文÷2)で売るというのは、店側にとってかなり不利。
この二点が気になったが、どうであろうか?
二八さん、あるいは仁八さんが始めたから、「二八蕎麦」なのだと主張される方もおられる(名前由来説)。
大阪・上方の蕎麦
個人的には、何となく付けてしまったのではないか、と思う(語源不明説)。
「ラーメン二郎」は当時売れていたエースコックの「ラーメン太郎」を真似して付けた名前だという。
こんな話は後世には伝わりにくい。
もうひとつ例を引くと、家の近所に「バビュー」という喫茶店がある。名前の由来をきいたら、言葉自体に意味はなく、語感から何となく付けたという。
子供の名前にしても、漢字自体の意味よりも、語感を重視している傾向があるように思う。
たとえば、一八(かずや)さんが始めたイッパチそばという人気店があって、その店名を真似した人間がニッパチそばという屋号を考え付いた。
二八蕎麦は数字自体には意味がないのだが語感もいいし、まあいいか、といった感じで付けらたにかも知れない。
参考文献:蕎麦と江戸文化(雄山閣出版)笠井俊彌
江戸の娯楽 江戸の食文化(中央文庫)三田村鳶魚
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