自己と他者 

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休暇

2009-09-12 21:50:06 | 映画

原作:吉村昭『蛍』収録の短編。

小林薫ほか出演。

刑務官役で、死刑囚最後に見送る、支え役を行う役。今回の映画の設定では、支え役は、死刑執行後、帰宅が許され、一週間の休暇が与えられる。

並行して、結婚したばかりで、休暇を利用して、ささやかな新婚旅行を行う。

相手は、すでに子供のいて再婚となる大塚寧々。

本当は、支え役からは、新婚ということが配慮され、指名からも外れていた。しかし、小林演じる主人公は、自ら引き受ける。

<感じたこと>

淡々と日常を送る限り、死について思うこと、考えることは非常に限られている。生きているいうことは、必ず、養老孟司氏も言っているように誰もが「100%死ぬ」にも関わらず。もちろん、事故に合ったり、起こしてしまったり、病を患ったりといった場合には、嫌でもそのことを意識することになるのだが。しかし、そうでもなければ、死を意識するということは非常にまれだ。このことをどうとらえるのか。生と死は分かれているのではなく、ひとつなのだ。言語や文字という記号によって生(せい)と死(し)というようにそれぞれ呼び方は違うが。

記述した以外に死を意識すること。事故も例外ではないが、他人から殺された、他人を殺した(死なせてしまった=ここでは事故を意味する)といった場合も意識することになるだろう。

これには、死刑という存在があるからだろうか。それとも亡くなった周囲の悲しみ(これは殺した側も殺された側も両方を指す)を意識するからだろうか。

「死の迎え方」がやはり重要なのだろうか。よりよく生きるということにつながるのだろうか。

平均寿命という概念が人生を無為にしている要因の一つかもしれないとも考える。本当は70~80年生きられるなんてことは誰もわからないのに。

医者や警察官、この映画の主人公の職業である刑務官は、一般会社員と死に対するとらえ方は、異なるような気がするが、どうなのだろうか。

今思うことは、死について考えることは、生きることについて考えるのと同じとまでは言い過ぎかもしれないが、似たようなものではないか。

映画を観ていてそう感じた。