11月16日
京都コンサートホールに京都市交響楽団ダイオ695回定期演奏会を聴きに行く。
指揮は鈴木雅明さん
最初に演奏されたのがモーツァルト 歌劇ドンジョヴァンニ序曲
こじんまりまとまった演奏であるように僕には思えた。
例えば、この曲で調がマイナーからメジャーに転じて急に明るい雰囲気になっていくときモーツァルトがかけた魔法のように音楽が暗から明に変化していくそのスリリングさが表現されていたかと言うとそうでもないように思えた。
堅実な演奏だけれどちょっと色気がない そんな風に僕には思えた。
次に演奏されたのがバイオリン独奏ジョシュアブラウンさんで
ベートーヴェンのバイオリンコンチェルトニ長調作品61
華美な表現を目指すのではなく音楽の内面を表現するような演奏に僕には思えた。
そういう意味で美しい演奏と思った。
ベートーヴェンは美しい素材を こんなにも熟慮の末に展開していくのかと改めて感動した。
この曲はCDで聴くときは 穏やかな曲調であることも手伝ってついムード音楽的な聴き方をしてしまうのでこうして演奏会で聴くことで改めて曲の美しさに気づくことができてよかった。
この曲が世にも美しい曲と呼べるほど美しいということに今日初めて気づいた気がする。
特に第一楽章と第二楽章は僕にはとても美しく感じられた。
第一楽章のカデンツァは ティンパニーの合いの手が入る場面があってそこは僕にはとても新鮮なものに感じられた。
管楽器 弦楽器とバイオリン独奏との掛け合いもとてもうまくいっているように僕には思えた。
ファゴットと言う楽器はサイズが大きい割に僕は音を聴きとるのが苦手なのだけれど、この曲はファゴットの音もとても聞き取りやすいように書かれているということも僕にとっては一つの発見だった。
ファゴットが美しい旋律を奏でる場面が多かったのもその理由の一つだと思う。
20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが
ドボルザーク 交響曲第6番ニ長調作品60
凝縮された音で推進力もとてもある演奏のように僕には思えた。
ただ、第三楽章など速い楽章を聴いた時 これはスラブダンスだなと思ったのだけれど、スラブの人たちと一緒になって踊っているようなスリリングさがあったかと言うと、それはあまりなかったように感じられた。
それとはあまり関係ないことだけれど 第一楽章で木管の音を聴いた時、鳥のさえずりのようだと思った。
ベートーヴェンのバイオリンコンチェルトもとても木管の活躍する演奏だったけれどそこでは、無常に美しい旋律が弦から管へ管から弦へと移行していく連動性そして音楽全体の包括性の中で木管の美しさが際立っているという感じで、そのことがそれ以外の何かを連想させるということはなかった。
ドボルザークの場合、木管が鳥のさえずりの意識させたり、スラブ特有の哀愁、ロマン、を連想させたり そういう何かの想いにつながるということが多かった。
そしてその違いがもっと一般的にベートーヴェンとドボルザークの違いと言えるのかもしれないと思った。
ベートーヴェンを聴いた後ではドボルザークをどこかムード音楽のように思って聴いている時間も演奏中にはあった。
モーツァルトの時と同じように それなりに引き締まっていて推進力のある演奏だけれどちょっと色気とかスリリングさそういうものには欠けるように僕には思えた。
それはともかくいちにち、いちにち無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。