硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

空き家。

2024-09-30 20:49:35 | 日記
東隣の家は空き家である。主がいなくなってもう何十年も時を経た。
僕が小さい頃、その家には、おばあさんとおじさん、おばさん、その長男さん、次男さん、長女さんとその子供2人が住んでいた。
おかあさんが勢いのある人だったので、いつもにぎやかだった。
外で遊ぶ幼い僕を時々温かく見守ってくれるいい人たちであった。

幼稚園に通い出した頃、長女さんと僕と同級生の男の子と2つ下の女の子が引っ越して行った。
小学校に上がるころ、長男さんは就職で遠い所へ行った。次男さんも、就職で遠い所へ行った。
小学校高学年の頃、訳の分からない事を言いだしていた。もちろん当時は認知症という概念もないから、幻覚をみて叫んでいるお婆ちゃんに「そんなのいないよ」と一生懸命に諭した。

しばらくしてお婆ちゃんが亡くなった。おじさんとおばさんだけになった。

中学生の時、勢いのあったおばさんが亡くなり、おじさんはがっかりして肩を落としていた。
高校に入ったころ、おじさんは体調を崩して、長女さんに頼ることになった。
僕が社会に出た頃おじさんが亡くなったことを聞いた。
そして、隣の家には誰もいなくなった。そして誰も帰ってこなくなった。

その家が崩れ始めている。どうやら中の柱が折れたらしく、家が傾き、板の壁をへし折り中の土壁が露出していて、ガラス窓も割れて、瓦屋根も崩れて屋根の一部に穴が開いている。

西隣の家も、もうすぐ空き家になる。

僕が物心ついた頃、すでに二人暮らしだったお婆ちゃん。僕が高校生の頃、和服の似合う旦那さんが亡くなったので、心配になった関東にいた息子さん夫婦が定年を機に引っ越してきた。
それから三人で暮らしていたが、3年ほど前に息子さんが亡くなり、奥さんとお婆ちゃんの二人きりになった。
何度も救急搬送されていたお婆ちゃんであったが、今年の冬。いつの間にか白寿になっていたお婆ちゃんは息を引き取った。
長い間献身的な介護をしてきた奥さんは、ようやく肩の荷が下りたのか、近いうちに家をたたんで、元居た関東へ戻るのだと言っていた。

たった50年の出来事である。



確信犯。

2024-09-22 14:25:23 | 日記
職場の人との雑談で、自治会をまとめている男性から「ゴミ出し」での問題を聞いた。

その人は戦後から発展し続けた住宅密集地に元から住んでいて地域の移り変わりを見続けていた人で、これまでにはなかったルールを無視したゴミ出しをする人が現れたことによって、自治会やその地域に暮らす人々の頭を悩ませることになった。
ルールを無視されると、担当の人がそのゴミを処理せねばならなくなり、とにかく迷惑を被っているそうである。

そこで、君のところはどうしているのかを聞かれたので、ルールを無視したゴミは手を付けず、自治会の担当の人がそのゴミに注意書きをした張り紙を張り、出した本人に回収してもらうことにしていると答えた。
しかし、僕の住んでいる町は、過疎化の進んだところで、ゴミ出しをするメンバーも限られているので、今のところ、それで機能しているのであるが、その男性の住んでいる地域とは人口が違いすぎるので参考にならない。

悪質なゴミ出しを阻止する為に、その人は自治会の皆と考え、ゴミ捨て場に監視カメラを設置したのであるが、そのルールを無視する人は、監視カメラが設置されているにも拘らず、ルール無視のゴミ捨てをおこなったのであった。
実際の映像も見せてもらったのであるが、解像度が低く人物の特定は難しそうであるが、話によると、どうやら「犯人」はその地区の人ではないようで、分からないままゴミ出しをしているのではなく、前日の夜に、分別もせずという意図をもっているのである。

そして、映像にぼんやり浮かぶ男性は容姿から推測すると、50~60代の男性であり、監視カメラに映ったところで分からないだろうという確信的な行動に見て取れた。

映像からでは特定できずにいると、「どうにかならないだろうか・・・」と漏らしていたので、その場にいた人たちといろいろ意見を出し合い、監視カメラを増やし多角的に撮影するしかないのではとの結論に至ったのであるが、そもそもである・・・・・・。

いい大人が、誰かに迷惑をかける事を分かっていながら、迷惑行為を働いているのである。
しかも、「ゴミ出し」という簡単な作業で、である。

話を聞いていて、ずっともやもやしていたのであるが、きっとこういう残念な人がこの社会をダメにしているのだろうと思う。

総裁選に思う事。

2024-09-15 16:43:56 | 日記
自民総裁選の様子をTVニュースで観ていると、石破さん、高市さん、小泉さんが次の総理大臣になるのではと報じられているけれども、やはりと言うべきかネットとの温度差に驚く。

ネットでは、TVや新聞に比べ、言論の自由度が広く、ネットにアクセスできる環境である人ならだれでも個人の意見を述べる事が出来るので、十人十色の意見が混じり合い論調が一括りにならないからだと思うけれども、TVや新聞は情報を集め調べ、報道する事で対価が発生する職業であるのだから、圧倒的な情報収集力の差があるはず。

でも、ネットの情報を修正できないのはなぜなのでしょうね。本当に訳が分かりません・・・・・・。

さて、今回の総裁選で9人もの立候補者が表れたのは、やはり、次のアメリカ大統領が誰になるかわからないからなのだろうなと思いました。
アメリカの方向性がはっきりしないこの状況下だからこそのチャンスなのでしょうね。

誰が次の総理大臣になるかは全く予想できませんが、僕個人が思う首相に持ってほしい方向性としては、ヨーロッパや中東での戦争に巻き込まれない姿勢を貫ける人が良いのではないかと思う。

それは、いくら耳障りの良い言葉を述べられていても有事になってしまえばすべてなかったことになるからです。

今、日本では社会問題が山積しているけれども、大きな戦争がはじまり、その戦争に巻き込まれてしまったら、防衛関係以外の問題はすべて先送りされ、徴兵制度が復活し、日本に住むすべての成人男性(もちろん海外からの移住者も含まれるだろう。海外からの移住者の窓口を広げたのはその可能性を見越しているからではないかと推測する。)は戦地に赴かなければならなくなるであろう。
そして、言論統制が引かれ、あらゆる情報が検閲され、食糧供給も制限され、エネルギーの消費も制限され、個人への監視が強まる。そして、言論より暴力が幅を生かす。そういう時代がやってきてしまうのではないかと思う。

これだけ個人主義が広まった社会を一夜にして専制主義に変革するのである。
そして、それをよしとするのであれば、覚悟を持って国に協力せねばならない。

もし、その危機を回避できるチャンスが私達にあるとすれば、次の総理大臣が決まり、解散総選挙になった時、投票権のあるすべての人々が投票権を行使することしかないのではと思う。

これは、あくまでも、個人的な妄想でしかないけれど、菅さんが進次郎さんを推していることから考えると、アメリカ大統領が誰になろうとも、柔軟に傀儡として機能し、日本はアメリカと共にあることを示す事が出来るからではないかと思う。

(Ⅹ)を観ていると、ウクライナ戦争は収集が付かなくなりつつあるように感じる。
もし、本格的に戦争が各国に飛び火してしまうなら、日本も、今のままでは高確率で大戦に巻き込まれてしまうのではないかと思う。


戦争を語る上で・・・。

2024-09-05 19:33:43 | 日記
ウクライナ戦争関連のSNSでは、相変わらず、親露派、親宇派と論調が分かれていて分断が起きていて同一する兆しもない。
これだけ情報が溢れているのになぜだろうか?

ロシアが国境を越えて軍事侵攻したとき、日本のメディアはこぞってそこに至る理由を報じることなくロシアが攻め入ったと報道した。
その結果、世論はウクライナ支持に傾倒したのであるが、日本のメディアは明治時代から国の発展と共に成長し、当初は正義もあったが、次第に軍に寄り添うようになり、戦後はアメリカと共に発展してきました。
つまり、大きな出来事などの都合の悪い真実は隠蔽し虚偽を伝えるといった手法が今もなお継続されているといえます。

しかし、現在ではネットという情報網があり、多方面からの情報がアップされるために、次第にメディアとの報道に齟齬が生じ始めました。
検索すれば、真実に近いところまで調べられることもあるようですが、それでも、人にはなぜか「自分が信じたいものを信じたい」という思考性がある為に容易に考え方を転換できません。

それによって、分断が生じてしまっているのだと思う。

また、戦争の善悪は容易に語れないはずであるのに、安易に善悪を決めつけてしまう傾向も見られます。

大東亜戦争においても、何故開戦に踏み切ったのか、なぜあれほどの犠牲を出しながらも戦い続け敗戦してしまったのかが、未だに明らかになっていません。
もし仮に、戦争が都市伝説的な謎の組織によって作り出されているとしたら、その組織が公に認められ、当事者の口から真実が語られなければ、善悪を決める事すらできません。

戦争は、殺し合いであり、侵略行為が始まりといえます。
そこには、思想的な正しさや、国や誰かを護る為に戦っている者もいれば、戦争にかこつけて私利私欲の為に非人道的行為を働く者もいるでしょうし、様々な側面から戦争が語られれば、善悪同じ分だけ語ることができてしまうでしょう。

正義と悪が混在している。それが戦争の事象なのだと思う。 

ウクライナ戦争においては現在進行形であり、メディアやネットを通してリアルタイムに情報を受けとる事が出来ていますが、それでも論調が割れるという事象は、戦争の善悪を決めることは難しいといえるのではないかと思う。

そこを踏まえた上で、戦場から遠く離れた日本で暮らす私達は、これからどうすべきかを考えてゆかなければ、日本もいずれ戦禍に巻き込まれてしまうのではないかと思う。




近未来の交通時事情。

2024-08-31 15:31:54 | 日記
僕のブログを読みに来ていただける方ならうすうす気づいているのではと思いますが、事あって現在は車の運転を生業としています。(介護現場を離れた理由はもう少し気持ちの整理がついてから書き残してゆこうと思います)
なので職業柄、運転時間は長くなり、仕事中に様々な気になる事に出くわす機会も増えました。

今日は、その気になる事の中から、「信号待ち」での事象を一石。

前の車一台を挟んでの信号待ち。前方の信号が青に変わり、信号に従って進もうとすると、信号が変わったにもかかわらず、全車が発信しない。
こんな時、いつも頭の中で数を8まで数えてから軽くクラクションを鳴らすことにしている。
それは信号が変わってすぐに動き出さない理由がいくつか考えられるからであるが、なぜかクラクションを鳴らしても発進しない車があります。

クラクションを鳴らす前に前者のバックミラーやサイドミラーで様子を探ってみると、ほとんどの場合スマホをいじっているので気にしないのですが、驚くのは、8秒待ってクラクションを鳴らしても動かない人がいるのである。

さらに、軽くクラクションを鳴らしても一向に動かない。
後ろに待っている車があると、さすがに焦ってしまうが、煽る様なクラクションの鳴らし方をすると、トラブルに巻き込まれてしまう危険性もあるので、それはぐっと我慢。
様子をうかがっていると、どうやら、切りのいいところまでスマホを触っていたいようす。落ち着いて再度軽くクラクションを鳴らすと、何事もなかったかのようにようやく走り始める。

思わずため息が漏れる。

信号が青に変わってから20秒弱。こういうケースが増えたように感じる。
その事象は、人が、公共性よりも個人の感情を優先することを無意識下で選択していると言えるのかもしれない。

平成後期に生まれた人たちは誕生の瞬間からスマホが存在しているので、スマホを持てない生活環境でない限り「無い生活は無い」と言い切れ、それは多くの人がスマホに依存するという事になると思う。
また、海外移住者のドライバーも増加傾向にあるので、「公共性より個人」という思考を持った人もそこに加わることになるのではと思う。
したがって、今後上記のような事象は増加してゆくのではないだろうか。そして、運転中、スマホが手元にある事で大きなトラブルにつながるのではないだろうかと心配しつつ、日々安全運転に勤めている今日この頃です。

高校球児にかける言葉。

2024-08-24 20:33:30 | 日記
今日の朝刊の中に「日韓両国快挙に称賛。SNSでは中傷の声も」という見出しを観た。

僕は高校野球には興味がないので、「韓国系の高校が優勝したんだなぁ」としか思わなかったのですが、その高校が批判されているのを一昨日くらいの(Ⅹ)で知っていたので、記事を読んでみて、問題が大きくなっているのだなと感じた。

しかし、なぜ、批判が出てしまったのでしょうか。

高校球児の彼らは平成生まれで、大東亜戦争とは無関係。
戦前、戦中からのルーツ持つ先祖がいて、韓国語も話せる人達というだけなのに、野球にも日常生活にも彼らと何の接点もない人がなぜ批判するのでしょう。

もし仮に、接点があって、実際に被害を被っているというのであれば、警察に届けるべきなのではないでしょうか。

それ以外の理由があるのだとしたら、批判している人のナショナリズムがそれを許さないからですか? アイデンティティがそれを許さないからですか? 

でも、それは、個人の感情の問題ではないでしょうか。個人の感情の問題なら、無関係な人に感情をぶつけるのは間違いではないでしょうか?

もし、主張していることが政治的な問題なら、私人にではなく、政治家に投げかけることが筋ではないでしょうか?

政治的批判は、頑張っている子供たちにかける言葉ではないと思う。

さようなら。草薙素子。

2024-08-20 21:01:46 | 日記
SNSを観ていたら、フォローしている人のポストに信じがたいことが記してあった。
慌てて検索すると、その人の名がトレンドに上っていた。

彼女の存在を知ったのは、士郎正宗さん原作の攻殻機動隊という漫画のアニメーションで押井守さんが監督をした「イノセンス」
士郎正宗さん、押井守さん、共に好きなクリエイターがこの作品で巡り合ったことも僕にとっては奇跡的だった。
でもそれ以上に、僕をハマませてしまったのは、草薙素子というキャラにゴーストを吹き込んだ田中敦子さんの存在だった。

「田中敦子」を検索すると、所属事務所からのメッセージと、息子さんからのメッセージも続けて見る事が出来た。

忘れないよ・・・・・・。さようなら草薙素子。




戦争と僕。

2024-08-13 22:04:41 | 日記
もうすぐ終戦記念日。今は平和である日本ですが、80年前は戦争をしていました。
平成生まれの人や昭和60年前後生まれの人だと、もう世の中はとても豊かで、戦争という事象は「昔話」の世界観でしかないのではないかと思います。

僕の母は戦中生まれで、僕は昭和40年代に生まれました。
その頃は、まだかすかに戦後があり、人々のマインドはまだ地続きでした。
そう感じていたのは、母方の祖父は戦争で亡くしていたという理由も影響していたからかもしれません。

祖父にあたる父は、兵隊さんになる前はサラリーマンでしたが、ある日、赤紙が届き兵隊さんになり、南方へゆくことになりました。
そして、しばらくすると内地にも戦禍が伸びてきて、曾祖父や曾祖母、祖母と田舎に移り住むことになり、母はそこで終戦を迎えました。

母には姉がいて、姉はどうしても高校に進学したいと希望し、祖母は大変な苦労をしながら、姉の希望をかなえてあげましたが、その姿を見ていた母は祖母をこれ以上の苦労を掛けさせまいと、中学を卒業後、働き始め、年頃になると祖母の姉妹である農家の祖母の長男とお見合いをし、それまでしたことのない農業をしながら大家族を切り盛りしてきました。

現代社会では到底受け入れられない価値観になってしまいましたが、当時の価値観はそれが普通でした。

でも、戦争がなければ、祖父が生きていれば、母は高校を出て、高度成長期に差し掛かった街で働き、そこで出会った人と結婚して、農家の大家族の中で苦労せずに、違う幸せを得ていたのだろうと思います。

実際、母も祖父が亡くなっていなければ、農家へ嫁ぐことはなかったと言って笑っていました。

しかし、僕はその話を聞いた時から、ずっと胸中にしこりが残ってしまいました。
ネガティブな考え方をすることがいけないのだというのも頭では分かっているのですが、事あるごとに頭をよぎるのです。

「もし、戦争がなければ、僕はこの世に存在していなかった」と。

SNS上では、戦争を肯定的に考えている人を散見できるが、戦争とは、自国が敵国と定めた人の殺人を認める行為で、強制的にその逆の立場に立たされ、ありとあらゆるものが統制され、自由が奪われ、長い時間をかけて作り上げてきた、人としての倫理観や道徳心を放下することなのだと思う。

そんな世の中で、本当に幸せなのかと問いたい。

広島原爆の日に向けて。

2024-08-04 14:13:01 | 日記
少し前から自分で書いたあるブログが気になっていた。
しかし細かいところまでは思い出せずにいたので、何とか探し出し読んでみると、やはり興味深いトピックだったので、そのブログに少しだけ加筆しここに採録しておこうと思いました。


介護職という仕事柄、お年寄りから昔話を聞く機会があり、10年ほど前では大正生まれの方が多かったこともあり、戦争体験談もたくさん聞けました。話された方の中には、家族には話せないけれども、第三者ならという気持ちもあったのかもしれません。

様々な戦争体験談の中で、広島の原爆体験のお話も数名から聴く事が出来ましたが、これから述べる当時兵隊さんだった男性の体験談は、これまでに聞いたことがなく、本や記事などからも知る事の出来なかった印象深い話をされ、僕に大きな疑問を投げかけました。

その男性は三重県生まれの方で、1945年には、たまたま県内の内地勤務にあたっていたそうです。
しかし、その年の7月末か8月1日位に、急に広島の第二総軍という部隊へ配属命令が下りました。
すぐ移動という事で、命令が下ったその日に三重県を立ち8月3日か4日に広島に移ると、全国各地から同じように招集をかけられた多くの兵隊さんが集まっていたそうです。

そして運命の8月6日の朝。

その男性は屋外に出て集合する途中、忘れものに気づき、一旦宿舎へ入った直後、広島上空で原子爆弾が爆発しました。
男性曰く、その時、何が起こったのか分からず、突然建物が壊れ、建物の下敷きになり抜け出せなくなりました。
もうダメだと思い始めた数時間後、運よく怪我はなく助け出されたものの、変わり果てた景色を見て、初めて何が起こったのか理解したのだそうです。
そして、歩いてゆくと死者や負傷者が沢山いて、さらに多くの死体が浜辺や河川沿いに積まれていたそうです。

さらに、その男性の話で最も印象深く残ったのは、同じ第二総軍に所属していた、李グウ公という韓国の王子様のお話でした。
8月6日、李グウ公の御つきの吉成中佐という方は、李グウ公と共に第二総軍司令部に行く予定だったのですが、吉成中佐は6日の朝、体調を崩され、李グウ公は一人で司令部へ向かうことになり、李グウ公はその途中に被爆され亡くなりました。御付きであった吉成中佐は、無事でしたが、李グウ公を護れなかった責任を取って自決されたのだそうです。

このお話を聞いていて、初めて知る歴史的事件に驚きを感じるとともに疑問もわきました。

まず原爆が投下される数日前に、広島に沢山の兵隊さんが集められ、その中に韓国の王子様がいた事です。

原爆投下を設定するにあたり、ち密な諜報活動もなされていたはずであるから、多くの兵隊が集まる事も、その中に韓国の王子様がいる事も分かった上で、原爆投下が行われたとみるのが妥当です。

事前に第二総軍という組織が広島に編成されることが外に漏れていたという事は、情報を流した人が存在したという意味であり、日本の兵力を一気に消耗させるチャンスを与えた事になります。
また、韓国の王子様が日本で亡くなったとなれば、韓国の国民感情は、日本が悪いから王子は命を亡くしたのだとの想い、原爆を投下した米国よりも反日感情を抱く人が多いだろうと予測し、大東亜戦争後の朝鮮戦争への介入も受け入れやすくなるだろうと考えたのかもしれません。

これはあくまでも僕個人の妄想の推測。

しかし、なにか触れてはいけないものに触れてしまった気がしてならないので、あえてここに記述しておくことにしました。


いくつになっても・・・。最終章

2024-08-03 15:42:43 | 日記
しばらく歩いてゆくとビジネス街になり人通りも少なくなり、大通りを右に曲がり朝日の上る方向へと進むと、ビルの合間からテレビ塔が見えた。
いや違う。テレビ塔はもうその役目を終えているんだったとハタと気づく。その手前の角には高い仕切りが建てられていて、既にビルは取り壊されていた。
一瞬、何だったかなと思うもすぐには出てこない。目の前にはかつてのテレビ塔。(今は中部電力ミライタワーというようである)
ああそうだ。東急ハンズのビルだ。
20代の頃、雑貨を目当てにわざわざ来ていたことを思い返す。田舎ではないものがそろっていて見ているだけで本当に楽しかった。(現在ではだいたい地元のホームセンターやショッピングモールで事足りるようになった。Amazonもあるしね。時代は留まる事を知らない)
確かオープンしてからすぐにきた気がする。しかし、今はその形もない。今振り返れば、あっという間だった。

セントラルパークもリニューアルされていて洒落た感じになってはいたが、ここにも若者たちがいて、ある人たちは語らい。ある人は酔いつぶれてベンチや地べたに寝ていて、ある人は一人でスマホに向かっていた。(一人でスマホを見ているだけなら家に帰ればいいのにと思ってしまうのはやはり違うのだろう)
「その頃は、時間は無限にあるものだと思っていたなぁ」と思いながら歩いていると、オアシス21近くの交差点まで歩いてきた。ずいぶんと汗もかいた。のども乾いた。これ以上の散歩は身体に悪かろうと思いお宿へ。

泥酔中の若者たちが海に浮かぶクラゲのように街の中を漂っている。タクシーを止めるために走行車線の真ん中まで出ている若者もいる。少し肩を落としたホストさんやキャバ嬢さんも家路に向かっているようである。
「お疲れ様」と小さな声でつぶやく。接客業、特に直接熾烈な競争の場にその身を置いているのであるから、リターンも大きいかもしれないが、身の削り方も凄まじく大であろう。

朝日が少しずつ高くなってきて、街の輪郭がはっきりと際立ってきた。再びお宿に潜り込んで大浴場で朝風呂につかる。
贅沢しているなと思う瞬間である。
足腰に溜まっている疲れを癒し、お腹が空いたので最上階で軽く食事を摂ると、少しずつ身体が覚醒してくる。食後、ミルクたっぷりのコーヒーを飲みながら、まったりとテレビに映し出されるオリンピックの結果をぼんやり眺める。
水泳の池江選手が悔しさをにじませながらインタビューに答えていた。
周りのお客さんを見回す。意外にも誰もテレビを見ていなかった。
怠惰に時間を過ごして10時に出発。
考える事が同じなのか、この時間チェックアウトする人が多く、エレベーターも満員、フロントでも列をなしていた。手際よくチェックアウトを済ませ、お宿の外に出ると、もう夏の強い日差しがアスファルトを焦がしていた。
さすがにもう歩道には、座り込んでいる若者はいなくなっていて、朝から活動する人たちが闊歩していた。
しかし、夜の痕跡を残したゴミは変わらず散乱していて、片付けてくれるのを待っているように映った。
朝通った時は気が付かなかったが、その通りにはいくつものごみ放置禁止の注意喚起の看板が表示されていて少し驚いたが、悪意のある無邪気さが彼らをそうさせているだろうと思った。

地下鉄駅に向かう途中、アミューズメントビルの前に小さな人垣ができているのが見えた。興味がわいたので立ち寄ってみると、どうやらアイドルさんのミニコンサートが始まるようだった。タイムスケジュールを見ると開始時間は10時20分。あと5分もあれば始まる。
会場が地下にあり、見下ろせる位置から周りを見てみると、女性もいるけれど30代から50代くらいのおじさんがメイン。それぞれが個々にアイドルの登場を待ち望んでいた。
どんなアイドルさんか気になるし、どんなパフォーマンスを見せてくれるのかも気になる。ファンさんの邪魔にならないように待っていると、音楽と同時に秋葉でみたメイドさんのようなキラキラした洋服に身を包んだ女性が登場し、元気よく踊り出し歌を歌い出した。
するとオジサンたちもスイッチが入り推しに向けて声援を送りだした。アイドルさんもその声に反応しパフォーマンスを上げてゆく。しかし、アイドルのセンターの一人がどうも未来を見失っているような感じを受けた。
それでも、ファンの人達は懸命に応援している。

きっと推す何かがあるに違いないとビジュアルを一度遮断して楽曲に集中するも、一向に刺さってこない。刺さらないのは曲でもないのだ。
他のファンの迷惑になるといけないと思い一曲目が終わらない前に静かに会場を離れる。

そして道すがら色々考える。昨日のお祭りの時も感じたが、歳を重ねても推せる何かがあることは、たとえ日常生活がさえないものだとしても、推す瞬間がその人の人生を豊かにし、彩を与えるのものなのではないかと。

そして、生活習慣や家族なども含めた価値観がこれほどに多様化した時代においては、推せるもの、意識を集中できるものがあることの方が、夜の街を彷徨い楽しいこと探しをする若者たちよりも幸福なのではないかと思った。

いくつになっても・・・。5

2024-08-02 17:05:30 | 日記
繁華街の夜は共通して若い男女が沢山歩いている。皆楽しそうである。
しかし、その様子を見ていて、一見すると日本は経済的に豊かな国と映ってしまうが、目に見えない社会的格差はこういう場所にこそ顕著に表れるものなのだと思ったりもしたが、週末を楽しもうとして言う若者たちにそんな事はどうでもよいのである。
なぜなら個人が胸中に抱える問題であり、そのはけ口を夜の繁華街に求めてやってくるのだから。

時刻は21時を回っていた。もちろん街の盛り上がりはこれからという感じで、歩道から見える飲食店の中はお客さんでにぎわっている。
しかし、僕の日常では21時過ぎは、お風呂から上がっていて、就寝のための余白時間。
頭の中では、もう少し繁華街を散策しようとか、jazzのライヴを聴きに行こうとか、クラブミュージックを聴いてみたいとかいう思いはあるのであるが、身体は疲労しきっていて、ハジけようという気にはなれない。

松坂屋の間を抜けスクランブル交差点を渡り、白川通りを歩いてかつてロフトだったビルを横目に見ながら「もうロフトじゃないんだ」と思いつつ、プリンセス通りへ。街角のブルーシールアイスクリームのお店の前で、甘味に欲するが、お店の前で戯れている若者に待ちきれず早々諦める。
日中には何度か歩いている道なので歌舞伎町を歩いた時の緊張感はないが、それでも周りに注意しつつ歩みを進めてゆく。
宿の近くの狭い歩道には、なぜか若者がたむろっていた。カラオケ屋があるからか、いやそれだけが理由で人は集まらないだろうと思いながら、ぶつからないように気を付けてお宿へ滑り込んだ。

翌朝。いつものルーティンで5時起床。散歩に出かける。いつもは田園風景の中を歩くので街の散歩はうきうきする。
ふくらはぎや腰に疲れがたまっているのが、気持ちが上回っているのが分かる。
歩道にでるとすぐさま衝撃を受けた。
若者たちが歩道に座り込んでまったりしている。しかも100m位の区間にぎっしりである。仲間と語らっている人もいれば、一人でスマホをいじっている人もいる。(一人でスマホ見ているなら家に帰ればいいのにと思ってしまうが、それは違うのであろう。)
そして彼らの周りにはゴミが散乱している。なんだろう?これはどういう事なんだろう?と、観察していてふと浮かんだのは、昭和の日本の繁華街の風景。
なるほど、彼らの感性は昭和へ戻りつつあるのかもしれない(エモいというのもその兆候かもしれない)と思いつつ彼らの間をすり抜けてテレビ塔方面へ歩いてゆく。
すると突然片言の日本語で「オニイサンコレカラオサケドウ?」といきなり話しかけてくる女性がいた。朝の5時半であるにもかかわらずである。怖くなって丁寧にお断りをする。

街はこれだから油断できない。

いくつになっても・・・。4

2024-08-01 16:17:07 | 日記
日も沈み時間になると、おなじみのテーマソングと共に北野さんとタニシさんが登場。
動いている二人をみて思わず「おおっ」と声が漏れる。
普段はカーステレオや散歩コースの風景を見ながら耳を傾けているので、あえて姿を見ながら声を聞くと違和感を抱く。
(北野さんは謹慎前の姿で止まっているし、タニシさんは書店で平積みになっている姿しか知らないので・・・)
そしてアシスタントさんも登場し、おなじみのトークが繰り広げられる。ついにライヴでズバリを観れるなんて、重い腰を上げてよかったと、感慨深く思った。

そして、一つ目のイベント、アシスタントのカラオケ大会が始まる。あみだくじで決まったトップバッターは元アイドルの佐藤実絵子さん。流石アイドルさん。歌に移る前のトークも、もちろん歌も踊りも上手い。聴衆を動かしてゆく。僕はSKE時代の佐藤さんを知らないので、なおさらそう感じる。

しかしである。

僕も含めて周りは年配さんばかり。しかもこの暑さ。佐藤さん推しの人は、慣れた感じでコールに応じているが、他の人は心も身体もアクティブに動いてゆかないようである。ここで一人だけハジけても浮いてしまうので周りに合わせて静かにのってみる。

次々に登場するアシスタントさんが個々にスポットがあたるのだけれど、勝手なイメージが付いていたのでなかなか声と姿が一致しない。それでも、Tシャツを着る事を拒んでいた大橋さんのシャボン玉パフォーマンス、松岡さんのスナックなノリ、氏田さんのファン層を狙った選曲と歌唱。それぞれの個性的な部分を改めて知ることができて十分楽しめた。(山内彩加さんのパフォーマンスは最高だった。さすが山内ポリス! )

次に登場したのが、「ズバリ」で時々話題に上がるリスナーさん同士で組んだお笑いコンビの漫才。コンビの立ち上げ当初から聴いていたので、このオぢサンたちがチャレンジしていたのかと驚きつつも、漫才の流れに感心。
そして、好きなことがあるといくつになっても輝けるのだなとその雄姿を羨ましく観ていた。

その後、河原崎さんがギターを持って登場し(イメージしていた姿と一番かけ離れていた人だった)そして、北野さんが「あの歌何とかならんのかぁ」とぼやいていた、初音ミクぅ~と音程を外しながら歌っていた清水藍さんが登場。
登場早々に清水さんから盛り上げるためのお手伝いの説明を受けるも、上手く理解できなかったことと、音程がズレまくっていて上手くノッていけない。

でも、清水さんはとてもうれしそうで、なぜだかほっこりした。

誠さんの歌声も初めて聞いた。たかじんさんとのエピソードに感動しつつ、河原崎さんのギターとブルースハープに長渕剛っぽいなぁと思っていたら、長渕さんがゲストにいらっしゃったときのエピソードを聴いて納得。
あっという間の2時間であったが、ラジオを見ている感じでとても面白かった。
(ズバリサタデーでコーナーを持つスポンサーさんの社長と社員さんのイメージが一番かけ離れていた。声からもっと細身のシュッとした方かなと思い描いたのであるが、やはり、ガタイのいい方でそうだよなぁと納得)

イベント終了と同時にスイッチを切り替え、すぐさま席を立ち、解放された出口から最短で会場から抜け出す。
人混みから逃れるとビルの合間を抜けてくる風が心地よかった。


いくつになっても・・・。3

2024-07-31 17:50:41 | 日記
目的のお宿は大きな通り沿いにあるので、すぐ見つけられた。
先ずはよく周りを見て構造を見極める。そして靴を脱ぐ。ロッカーに入れる。鍵をかける。フロントに行く。このように自分の中で順番を決めてから行動に移してゆく。しかし、チェックインは一向に慣れない。緊張するのである。住所などを記入するとき、ついつい字が浮いてしまうのである。

フロントでは、女性が柔和に、かつ丁寧に説明をしてくれている。その様子を見てこのお宿は大丈夫だと安心する。大げさかもしれないがいつもこんな感じである。
前の人を見て流れは掴んでいたので手際よくチェックインを済まし、部屋までのルートを覚え荷物の軽量化を図り、見た目よりも快適性を重視し汗対策のタオルを首に巻き、焼けたアスファルトにエネルギーを奪われながら夏祭り会場を目指した。

スマホの時計を見ると開始時間が迫っていて、日は沈み街明かりが輝き始めていた。

よくよく考えると、この時間にこの辺りを歩くのはたぶん30年ぶり。しかし、あの頃の記憶はほとんどない。よく来たディスコも(時代がそんな雰囲気だったし、テレビの影響も大きかったのです)どの通りにあったかすらも思い出せない。
今は、後にそれがバブル経済と呼ばれ、短い流行だったという印象だけが残っている。
時代は違うにせよ「僕もあんな感じだったのかな」と思いながら楽しそうに戯れている若者たちを遠い目で見つめ、広小路公園へのルートを迷うことなく歩いてゆく。

開始時間前に到着し、暑さもあってのどの渇きを覚える。
水分補給しようとブースを回ってみるが、驚くべきことに(見つけられなかっただけなのかもしれないが)ビールの販売しかない。たしかにこれだけ暑ければビールの方が旨いのは分かる。しかしビールには利尿作用があるので、イベントの途中で用を足すために席を立つことだけは避けたい。
ブース前には紳士淑女が列をなしているが、万全の態勢で夏祭りを見たいので意志を固くしてここも耐える。

暫くすると、入場する列ができているのに気づき、最後尾を示す看板を持つスタッフさんのいる場所へ移動。
「席がいっぱいになった時点で座れなくなります。ご了承ください」と声をかけている。
椅子の数を横目で確認し列の長さをみるとその可能性は大であった。
まぁ並んでしまったものは仕方がない。もし溢れたら、どこかで飲み物を買ってから場外から見物しようと決め、そのまま流れに乗ってゆく。

しかし、運よく席は空いていて、かろうじて最後尾に近い席に座る事が出来た。
これはラッキーである。

さて、夏祭りの出し物は告知で知っていたけれど実際どんな感じになるのかなぁと期待しながらしばし待つ。
この会場に来た時から気になってはいたが、お客さんの年齢層が高い。見た目が50歳から70歳くらいの男性で多くが占められていた。
「ズバリ!」は平日午後からのラジオ番組であるし、内容が「かつての深夜番組のノリ」に近く、あの時間に聴けるリスナーとなると年齢的に限定される。
現代の高校生や大学生の多くの人は「ラジオは聞かない」という。だから、この現象はリアルな聴取者層を如実に表しているのだと思った。

いくつになっても・・・。2

2024-07-30 19:47:53 | 日記
当日、お昼過ぎから出発し近鉄電車に乗って一路名古屋へ。

現在の名古屋はリニア開発に伴って街の再開発が進んでいて戦争からの復興を遂げた名古屋の面影がどんどん消えていっている。車窓から見える名古屋駅をぼんやり眺めながら、21世紀後半の名古屋はどうなっているのだろうか。

名古屋駅に着くと、まず新幹線の改札横のトイレに向かうのがルーティン。このとき「新幹線のチケットを買って遠くに行ってしまいたい」といつも思ってしまう。
用を済ませ改札を出ると次は地下鉄東山線に乗り換えなければならない。毎度のことであるが心身が都会に順応するのに時間が掛かる。歳をとったせいか一層そう感じる。
暑さでバテ気味の身体を動かしながら、階段を上ってゆく。
地下街のお店も所々変わっていて驚くも、基本的な構造は変わっていないので東京メトロほどの迷いはない。記憶を補正しつつ表示板を探しながら標識に従って慎重に歩いてゆく。

週末であるから平日ほど混んでないだろうと思いきや、やはりと言うべきか、ホームに向かう階段を下りてゆくと沢山の人が次の列車を待っていた。
周りを見渡しながら複雑に並んでいる列の最後尾につくと、すぐに列車が入ってきた。さすが地下鉄である。
人混みに慣れてないのでホッとする。

列車の扉が開くと、ドッと人が出てきて、下車する人の波が切れると同時に、軽く後ろから押されつつ僕の身体は列車の中に押し込まれた。
車内はぎゅうぎゅうである。
背中に知らない人の背中が当たる。猛暑なので他人の体温がTシャツ越しに伝わってくる。
僕の日常で、こういう場面はない。だからどうにも気になるが、「気にしない気にしない」と自分に暗示をかけ「痴漢にだけは間違われないように」と周りに配慮し、広告や電子表示板を観察したい気持ちも抑え、軽く俯き両手でつり革を持って、次の駅までの三分間をじっと耐える。
伏見駅に到着すると下車する人がいてほんの少しスペースが生まれホッとする。

そこから三分で栄駅に到着。扉が開き堰を切ったように人々が車外へ移動する。その流れに逆らえるはずもなく濁流に流れる小枝のように流されてゆき改札にたどり着いた。

しかし、どの出入り口から出れば最短であるかが分からない。スマホか? いや、ここは掲示板だろう。と改札を出たすぐ側に設置されている掲示板で方角を確認。
時間を見るとお宿のチェックインの時間が迫っている。これはいけないと、宿近くの目標物を探しだし、そこから一番近い出口の番号を見つけ、再び表示板を頼りに歩いてゆく。

人は多いが流れには乗れている。というか、東京よりも周りのある帰化型若干遅い気がする。
これは地域性だろうか、などと考えながら表示された出入り口の階段を駆け上がってゆくと、次第に車の行きかう音が聞こえてきて、周りの空気も生ぬるくなった。地上に出るとビル群が夕日に照らされていて、街はゆっくり夜の赴きに移り変わろうとしていた。

いくつになっても・・・。

2024-07-29 17:13:18 | 日記
ラジオと言えば、つい先日4歳くらいの男の子とそのお母さんとの会話が耳に入ってきて、市かも気になったワードが出てきたので、少しばかり耳を傾けていると、その男の子がお母さんの話から「ラジオって何? 」という言葉を発し衝撃を受けた。話を聞いているとラジオという言葉を知らないというよりもラジオの存在を知らないようである。彼らにとって、情報源はスマホからのユーチューブやテックトックが主流なようで、ラジオは存在していない。

その話を聞いていて痛切に時代の流れを感じたが、昭和生まれの世代はラジオが主流であり、生活の中にあったので、今でも切り離せない。
だから、令和の時代であっても朝布団から出る前や、散歩時や車での移動時には普通にラジオの存在があるのだろうと思う。

だからと言って熱量のあるヘビーリスナーではないけれども、なぜかラジオのスイッチを入れていて、平日の午後に車移動するときには大体CBC。
その時間は知る人ぞ知る北野誠さんの「ズバリ」が流れている。

常連リスナーさんやメール職人さんの赤裸々な話とそれを巧みに笑いに変化させる北野さんの話術。さらにアシスタントさんのリアクションが軽妙で、ついついチャンネルを合わせてしまうのである。
40歳くらいまでは好きな音楽を聴いていて、ラジオから遠ざかっていたが、歳を重ねるにつれ「ラジオって面白い」と思うようになり、転職を境にラジオを聴く時間が伸びていった。
CBCラジオは地域性もあってか馴染み深く、小学生位の食事の時には(ご飯を食べる部屋にはテレビがなくラジオが置いてあったからである)よく聞いていた覚えがある。(真空管を使った大きなナショナルと入った灰色のラジオだったなぁ)

それはさておき、

毎年七月の中旬になると、CBCラジオは「夏祭り」の告知を始める。前から気にはなっていたのであるが、ヘビーリスナーではないので重い腰を上げなかった。しかし今回は土日が休みの仕事になり、これは心置きなく行けるのではないかと考え、細君に「ラジオ祭りに行こうと思う」と宣言。細君も車に乗るときにはラジオ派であるので、快く了解を得た。

しかし、「ズバリ」の枠は19時から始まり20時に終わるという時間帯なので、そこから家に帰るとなるとずいぶん遅くなる。どうしようかと迷っていると「泊ってくれば? 」と促してくれたので「ではそうします」と即返答。ようやく重い腰を上げられたのであった。