硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

いくつになっても・・・。4

2024-08-01 16:17:07 | 日記
日も沈み時間になると、おなじみのテーマソングと共に北野さんとタニシさんが登場。
動いている二人をみて思わず「おおっ」と声が漏れる。
普段はカーステレオや散歩コースの風景を見ながら耳を傾けているので、あえて姿を見ながら声を聞くと違和感を抱く。
(北野さんは謹慎前の姿で止まっているし、タニシさんは書店で平積みになっている姿しか知らないので・・・)
そしてアシスタントさんも登場し、おなじみのトークが繰り広げられる。ついにライヴでズバリを観れるなんて、重い腰を上げてよかったと、感慨深く思った。

そして、一つ目のイベント、アシスタントのカラオケ大会が始まる。あみだくじで決まったトップバッターは元アイドルの佐藤実絵子さん。流石アイドルさん。歌に移る前のトークも、もちろん歌も踊りも上手い。聴衆を動かしてゆく。僕はSKE時代の佐藤さんを知らないので、なおさらそう感じる。

しかしである。

僕も含めて周りは年配さんばかり。しかもこの暑さ。佐藤さん推しの人は、慣れた感じでコールに応じているが、他の人は心も身体もアクティブに動いてゆかないようである。ここで一人だけハジけても浮いてしまうので周りに合わせて静かにのってみる。

次々に登場するアシスタントさんが個々にスポットがあたるのだけれど、勝手なイメージが付いていたのでなかなか声と姿が一致しない。それでも、Tシャツを着る事を拒んでいた大橋さんのシャボン玉パフォーマンス、松岡さんのスナックなノリ、氏田さんのファン層を狙った選曲と歌唱。それぞれの個性的な部分を改めて知ることができて十分楽しめた。(山内彩加さんのパフォーマンスは最高だった。さすが山内ポリス! )

次に登場したのが、「ズバリ」で時々話題に上がるリスナーさん同士で組んだお笑いコンビの漫才。コンビの立ち上げ当初から聴いていたので、このオぢサンたちがチャレンジしていたのかと驚きつつも、漫才の流れに感心。
そして、好きなことがあるといくつになっても輝けるのだなとその雄姿を羨ましく観ていた。

その後、河原崎さんがギターを持って登場し(イメージしていた姿と一番かけ離れていた人だった)そして、北野さんが「あの歌何とかならんのかぁ」とぼやいていた、初音ミクぅ~と音程を外しながら歌っていた清水藍さんが登場。
登場早々に清水さんから盛り上げるためのお手伝いの説明を受けるも、上手く理解できなかったことと、音程がズレまくっていて上手くノッていけない。

でも、清水さんはとてもうれしそうで、なぜだかほっこりした。

誠さんの歌声も初めて聞いた。たかじんさんとのエピソードに感動しつつ、河原崎さんのギターとブルースハープに長渕剛っぽいなぁと思っていたら、長渕さんがゲストにいらっしゃったときのエピソードを聴いて納得。
あっという間の2時間であったが、ラジオを見ている感じでとても面白かった。
(ズバリサタデーでコーナーを持つスポンサーさんの社長と社員さんのイメージが一番かけ離れていた。声からもっと細身のシュッとした方かなと思い描いたのであるが、やはり、ガタイのいい方でそうだよなぁと納得)

イベント終了と同時にスイッチを切り替え、すぐさま席を立ち、解放された出口から最短で会場から抜け出す。
人混みから逃れるとビルの合間を抜けてくる風が心地よかった。


いくつになっても・・・。3

2024-07-31 17:50:41 | 日記
目的のお宿は大きな通り沿いにあるので、すぐ見つけられた。
先ずはよく周りを見て構造を見極める。そして靴を脱ぐ。ロッカーに入れる。鍵をかける。フロントに行く。このように自分の中で順番を決めてから行動に移してゆく。しかし、チェックインは一向に慣れない。緊張するのである。住所などを記入するとき、ついつい字が浮いてしまうのである。

フロントでは、女性が柔和に、かつ丁寧に説明をしてくれている。その様子を見てこのお宿は大丈夫だと安心する。大げさかもしれないがいつもこんな感じである。
前の人を見て流れは掴んでいたので手際よくチェックインを済まし、部屋までのルートを覚え荷物の軽量化を図り、見た目よりも快適性を重視し汗対策のタオルを首に巻き、焼けたアスファルトにエネルギーを奪われながら夏祭り会場を目指した。

スマホの時計を見ると開始時間が迫っていて、日は沈み街明かりが輝き始めていた。

よくよく考えると、この時間にこの辺りを歩くのはたぶん30年ぶり。しかし、あの頃の記憶はほとんどない。よく来たディスコも(時代がそんな雰囲気だったし、テレビの影響も大きかったのです)どの通りにあったかすらも思い出せない。
今は、後にそれがバブル経済と呼ばれ、短い流行だったという印象だけが残っている。
時代は違うにせよ「僕もあんな感じだったのかな」と思いながら楽しそうに戯れている若者たちを遠い目で見つめ、広小路公園へのルートを迷うことなく歩いてゆく。

開始時間前に到着し、暑さもあってのどの渇きを覚える。
水分補給しようとブースを回ってみるが、驚くべきことに(見つけられなかっただけなのかもしれないが)ビールの販売しかない。たしかにこれだけ暑ければビールの方が旨いのは分かる。しかしビールには利尿作用があるので、イベントの途中で用を足すために席を立つことだけは避けたい。
ブース前には紳士淑女が列をなしているが、万全の態勢で夏祭りを見たいので意志を固くしてここも耐える。

暫くすると、入場する列ができているのに気づき、最後尾を示す看板を持つスタッフさんのいる場所へ移動。
「席がいっぱいになった時点で座れなくなります。ご了承ください」と声をかけている。
椅子の数を横目で確認し列の長さをみるとその可能性は大であった。
まぁ並んでしまったものは仕方がない。もし溢れたら、どこかで飲み物を買ってから場外から見物しようと決め、そのまま流れに乗ってゆく。

しかし、運よく席は空いていて、かろうじて最後尾に近い席に座る事が出来た。
これはラッキーである。

さて、夏祭りの出し物は告知で知っていたけれど実際どんな感じになるのかなぁと期待しながらしばし待つ。
この会場に来た時から気になってはいたが、お客さんの年齢層が高い。見た目が50歳から70歳くらいの男性で多くが占められていた。
「ズバリ!」は平日午後からのラジオ番組であるし、内容が「かつての深夜番組のノリ」に近く、あの時間に聴けるリスナーとなると年齢的に限定される。
現代の高校生や大学生の多くの人は「ラジオは聞かない」という。だから、この現象はリアルな聴取者層を如実に表しているのだと思った。

いくつになっても・・・。2

2024-07-30 19:47:53 | 日記
当日、お昼過ぎから出発し近鉄電車に乗って一路名古屋へ。

現在の名古屋はリニア開発に伴って街の再開発が進んでいて戦争からの復興を遂げた名古屋の面影がどんどん消えていっている。車窓から見える名古屋駅をぼんやり眺めながら、21世紀後半の名古屋はどうなっているのだろうか。

名古屋駅に着くと、まず新幹線の改札横のトイレに向かうのがルーティン。このとき「新幹線のチケットを買って遠くに行ってしまいたい」といつも思ってしまう。
用を済ませ改札を出ると次は地下鉄東山線に乗り換えなければならない。毎度のことであるが心身が都会に順応するのに時間が掛かる。歳をとったせいか一層そう感じる。
暑さでバテ気味の身体を動かしながら、階段を上ってゆく。
地下街のお店も所々変わっていて驚くも、基本的な構造は変わっていないので東京メトロほどの迷いはない。記憶を補正しつつ表示板を探しながら標識に従って慎重に歩いてゆく。

週末であるから平日ほど混んでないだろうと思いきや、やはりと言うべきか、ホームに向かう階段を下りてゆくと沢山の人が次の列車を待っていた。
周りを見渡しながら複雑に並んでいる列の最後尾につくと、すぐに列車が入ってきた。さすが地下鉄である。
人混みに慣れてないのでホッとする。

列車の扉が開くと、ドッと人が出てきて、下車する人の波が切れると同時に、軽く後ろから押されつつ僕の身体は列車の中に押し込まれた。
車内はぎゅうぎゅうである。
背中に知らない人の背中が当たる。猛暑なので他人の体温がTシャツ越しに伝わってくる。
僕の日常で、こういう場面はない。だからどうにも気になるが、「気にしない気にしない」と自分に暗示をかけ「痴漢にだけは間違われないように」と周りに配慮し、広告や電子表示板を観察したい気持ちも抑え、軽く俯き両手でつり革を持って、次の駅までの三分間をじっと耐える。
伏見駅に到着すると下車する人がいてほんの少しスペースが生まれホッとする。

そこから三分で栄駅に到着。扉が開き堰を切ったように人々が車外へ移動する。その流れに逆らえるはずもなく濁流に流れる小枝のように流されてゆき改札にたどり着いた。

しかし、どの出入り口から出れば最短であるかが分からない。スマホか? いや、ここは掲示板だろう。と改札を出たすぐ側に設置されている掲示板で方角を確認。
時間を見るとお宿のチェックインの時間が迫っている。これはいけないと、宿近くの目標物を探しだし、そこから一番近い出口の番号を見つけ、再び表示板を頼りに歩いてゆく。

人は多いが流れには乗れている。というか、東京よりも周りのある帰化型若干遅い気がする。
これは地域性だろうか、などと考えながら表示された出入り口の階段を駆け上がってゆくと、次第に車の行きかう音が聞こえてきて、周りの空気も生ぬるくなった。地上に出るとビル群が夕日に照らされていて、街はゆっくり夜の赴きに移り変わろうとしていた。

いくつになっても・・・。

2024-07-29 17:13:18 | 日記
ラジオと言えば、つい先日4歳くらいの男の子とそのお母さんとの会話が耳に入ってきて、市かも気になったワードが出てきたので、少しばかり耳を傾けていると、その男の子がお母さんの話から「ラジオって何? 」という言葉を発し衝撃を受けた。話を聞いているとラジオという言葉を知らないというよりもラジオの存在を知らないようである。彼らにとって、情報源はスマホからのユーチューブやテックトックが主流なようで、ラジオは存在していない。

その話を聞いていて痛切に時代の流れを感じたが、昭和生まれの世代はラジオが主流であり、生活の中にあったので、今でも切り離せない。
だから、令和の時代であっても朝布団から出る前や、散歩時や車での移動時には普通にラジオの存在があるのだろうと思う。

だからと言って熱量のあるヘビーリスナーではないけれども、なぜかラジオのスイッチを入れていて、平日の午後に車移動するときには大体CBC。
その時間は知る人ぞ知る北野誠さんの「ズバリ」が流れている。

常連リスナーさんやメール職人さんの赤裸々な話とそれを巧みに笑いに変化させる北野さんの話術。さらにアシスタントさんのリアクションが軽妙で、ついついチャンネルを合わせてしまうのである。
40歳くらいまでは好きな音楽を聴いていて、ラジオから遠ざかっていたが、歳を重ねるにつれ「ラジオって面白い」と思うようになり、転職を境にラジオを聴く時間が伸びていった。
CBCラジオは地域性もあってか馴染み深く、小学生位の食事の時には(ご飯を食べる部屋にはテレビがなくラジオが置いてあったからである)よく聞いていた覚えがある。(真空管を使った大きなナショナルと入った灰色のラジオだったなぁ)

それはさておき、

毎年七月の中旬になると、CBCラジオは「夏祭り」の告知を始める。前から気にはなっていたのであるが、ヘビーリスナーではないので重い腰を上げなかった。しかし今回は土日が休みの仕事になり、これは心置きなく行けるのではないかと考え、細君に「ラジオ祭りに行こうと思う」と宣言。細君も車に乗るときにはラジオ派であるので、快く了解を得た。

しかし、「ズバリ」の枠は19時から始まり20時に終わるという時間帯なので、そこから家に帰るとなるとずいぶん遅くなる。どうしようかと迷っていると「泊ってくれば? 」と促してくれたので「ではそうします」と即返答。ようやく重い腰を上げられたのであった。


行き詰まりと息詰まり。

2024-07-14 16:53:52 | 日記
SNS上では都知事選が終わった後も候補者への批判が相次いでいる。
もう目にするものしんどいので瞬間的に飛ばしてゆくのであるが、その粘着力には驚きを隠せない。

なぜ、そこまでこだわるのか。
当選者のこれまでの成果に疑問を持つ人々が批判し続けるのは「よくならない」という思いからであると察しが付くが、落選者に対しては落選した時点で批判する理由はなくなるはずである。

粘着する事にメリットがあるのだろうか?

もしあるとしたら、自分の正しさを他者から認められたい気持ちに執着しているか、当選者が辞退する状況が生まれた時に、落選者が繰り上がらないよう止めを刺しておく必要があるという組織的な動きによるものかのどちらかであるように思う。

どちらにしても、第三者から見ればその行為は「イジメ」にしか映らない。
SNSを駆使する人々は、「いい大人」であるはずなのに、なぜ行為が稚拙なのだろう。

直接的な被害を受けているなら、恨みを晴らしたいという感情が残り続けるが、多くの人がそうでない人であるはず。
なのに、なぜそこまで執拗に批判し続けるのだろうか。
正解は全く分からないが、もっとシンプルな理由として、日常で他者と会話する事がほとんどない人物が、SNSでその喪失感を充足する為に執拗に批判しているのかもしれない。

だとしたら、個人主義も行き詰まりの所まで来ているといえるのかもしれないし、そのような世の中では息も詰まるのではないかと思う。

SNSを有意義なものにしたい。

2024-07-07 17:07:32 | 日記
都知事選の投票日。地方に住んでいるので余り関係はないが、Ⅹを見ていると、かなりの割合で関連のポストが流れてくる。
気にはなるので、どんな主張がなされているのか読んでみるが、時々、頭を悩ますポストを見る。

発言の自由が確保されているとはいえ、辛辣な発言や憶測で批判しているのを見ると、

「なぜ、このような投稿をするのだろう。その発言をすることによって、なにか見返りがあるのだろうか。または、過激な発言をして誰かに認められ優越感に浸りたいのだろうか。それとも、教祖崇拝のような心理状態なのだろうか。もしそうならば、なぜそのような心理状態に陥ったのだろうか。」

等と色々考えるも、これと言った答えに至らない。

個人的に候補者に対して特別な恨みつらみがあれば、感情をぶつけたくなるのは人の性。
ですが、辛辣な言葉で、面識もない人を精神的に追い込むような投稿には疑問を感じる。

TVショウに出演した女子プロレスの人がSNSによって自殺に追い込まれた事件から、まだそれほど時間は経っていないにも拘らず、SNS上では面識のない人でも辛辣な言葉で追い込む人が後を絶たない。

もっと有意義にSNSを使用していきたいと思っているのであるが、このような投稿を目にする度に、精神的に疲労してしまうのである。

言論統制という状態は反対であるが、思いやりがない投稿というのも反対である。

もう、40年も経ってしまったのですものね・・・・・・。

2024-06-22 21:54:51 | 日記
2週間くらい前。頭の中で突然、和田加奈子さんの「ジェニーナ」が流れた。

一度脳内再生されると、何度も再生される。しかし、脳内再生では歌詞がぼやけている個所がいくつかあった。

これは気になる。

その夜。YouTubeで検索し「ジェニーナ」を改めて聴く。「嗚呼、懐かしい」と気持ちが零れる。
しかし、YouTubeで検索をかけると必ず「あなたにおすすめ」が出てくる。和田加奈子さんの「ジェニーナ」は「気まぐれオレンジロード」の劇中に使われた曲なので、アルゴリズムさんは「気まぐれオレンジロード」関連を次から次へとおすすめする。
誘惑にかられ、オレンジロードのOPとEDを聴いてしまった。
不思議と今でも口ずさめるが、ストーリーはもうほとんど思い出す事が出来ない。

今でもファンの方がいて、(現在は世界中にいるのですね)DVD―BOXをお持ちの方が、いい場面だけをショートで繋げてUPされてくれているので、どれどれと、再生してみる。

懐かしさが込み上げてくる。こんな場面あったっけと考えるも、その前後の内容が思い出せない。
すると、気まぐれオレンジロード40周年記念イベントが行われているという動画もあった。
ネットの画面を切り替え、検索すると、現在は大阪で行われている事が分かった。

大阪難波なら近鉄特急で2時間。余裕で行ける。しかし、いまさら観に行ったところでどうにもならないとも分かっている。
しかし・・・・・・。

3日間悩み、重い腰を上げる。

週末アーバンライナーに乗り込み大阪難波を目指す。

幾つものトンネルを抜け山間を縫うように走る列車は、いつの間にか大都会へと進み地下に潜ると終点難波駅に到着した。

大阪はアクセスもそれほど悪くはないが、なぜか足が伸びない。まだ5回位しか訪れていないので、方向もよくわからない。とりあえずスマホを取り出しナビに頼る。本当に心強い。

ナビの言いなりになりながら、人混みの中を歩き地上に出て「なんばマルイ」を目指す。
あちこちから外国語が聞こえる人並みに飲まれそうになりながら5分くらい歩く。なんとか到着。足取りも軽く会場を目指し五階へ。

会場は小さなスペースではあるが、同世代位のお客さんの姿も見える。ひとまず安心。
当日のチケットを買い、いざ。

入り口付近のポスターのみが撮影OKなので、写真に収めておく。
檜山ひかるの声優さん、原えりこさんのサインが入っていた。

彼女のメッセージに思わず胸が痛くなる。

展示されている絵をじっくりと見てゆく。ああ懐かしい。思わずため息が漏れる。
まつもと泉さんが描かれたオレンジロードの第一話の原画も展示されていて思わず読み込んでしまう。原作はほとんど読まなかったのであるが、それでもこうやって時を経て読むと感慨深い。

その後、高田明美さんの描いた鮎川まどかが続く。高田明美さんの引く線はとても好きで、その気持ちは今でも変わらない。こんな風に描けたらなって何度思った事だろう。
LDやVHSの展示もあって時代を感じさせる。そうね。40周年だものね・・・・・・。

いつだったか、どこだったかで観た絵の実物が目の前にある。じっくり見てこんな風に描かれていたのかと感心。

一度会場を出てしまっては戻れないので、再び引き返し、4往復。そのおかけで気づきもあった。

まず一つは、40周年記念に描いた「鮎川まどか」が一番中学三年生の女の子らしかった事である。線の引き方が全体的に柔らかいのである。高田明美さんは、意図的にそう描かれたのであろうか。本人に出会えたら質問してみたいなぁ。

そして、背景の設定も4枚展示されていたのであるが、余白の部分「小林」の印が押されていたのを見つけた。
何を隠そう、この展示会で一番感動したのはこの「小林」の印である。

会場を出て物販スペースでしばし物色。お金持ちなら高田明美さんの版画作品を購入するところであるが、持ち合わせも無いし、もう、あの日は戻らないと分かっているので、設定資料集のみを購入。

会場を去る際に、会場の正面をふと見ると、近々、高田明美さんのサイン会が予定されていて、チケットはすでに完売とのこと。
う~ん。これは惜しい。実に惜しい。ずっと好きだった絵描きさんに会えるチャンスがあったというのに・・・・・・。

しかし、これでいいのである。時間は巻き戻せないし、「気まぐれオレンジロード」を超えるラブコメ作品はいくつも誕生しているのだから・・・・・・。と自分に言い聞かす。

この文章を書いた後、オレンジロードをウィキってみたところ、この歳になって衝撃の事実を知る。

映画「あの日に帰りたい」は、この地区では上映されなかったので、近くのレンタルショップで予約してVHSを購入したのであるが、凄く楽しみにしていたのに、内容は凄くしんどく、確かに物語の落としどころはそこしかないというのは理解できたけれど、2回観て、粗大ごみに出してしまって、そのおかげで「気まぐれオレンジロード沼」から抜け出せたのであるが、あの作品はまつもと泉さんの許可を得ずに進んでいて、監督の望月智充さんもそれを知らなかったというのである。

40年目にして・・・・・・、それはないぜ。

この世界はSFだった。

2024-06-16 18:57:58 | 日記
数年ぶりに「バーミヤン」へ。

席まで店員さんに案内され、席に着く。注文は席に設置してあるタブレットでと案内。
いつの間にか当たり前になったタブレット端末での注文。アナログ世代なので、まずは神のメニュー表を一覧する。そして若干手間取るも、何とか注文し終えご飯を待つ。

店内はお昼を過ぎていて少し空いている。隣の席は小さな子供連れの夫婦。お母さんが子供を抱いてあやしている。
ほほえましい情景に思わずほっこりする。
カバンからスマホを取り出したが、もう一度しまい直して忘れかけていた風景をぼんやりと窓から眺める。

ずいぶん変わったなとしみじみ。

暫くすると猫風のロボットが近づいてきて、注文したラーメンと餃子を持ってきた。
このシステムに遭遇するのも初めてである。
恐る恐る猫の棚からラーメンと餃子を取り出すと、くるりと向きを変えて、来た通路を緩やかに戻っていった。
途中、狭い通路でお客さんと鉢合わせした。どうなる事かと思ってみていたら、一旦停止し、お客さんが道を譲ると、再び移動し始めた。
驚くべきハイテクである。

そして、ふと思った。

これは少年時代に夢見たSFだなと。そして、こんな光景が見られる日が来るとは思わなかったなと。

隣の席のお母さんが抱きしめている子供はどんな未来が待っているのだろうか。
できるなら、今よりも幸せな未来が訪れることを祈るばかりである。

「書いてはいけない」を読み終えて・・・。

2024-05-08 18:21:46 | 日記
森永卓郎さんの著書「書いてはいけない」を読み終える。

これまで幾人の人が日航123便の事故について語っていているのに、なぜこの問題提起について取り上げないのだろうかと不思議に感じていた。
時頼、テレビでこの問題を取り上げた再現VTRを観てみたが、話の食い違いが著しく、なぜこのような乖離が起こっているのだろうと疑問に思った。

しかし、森永さんの「書いてはいけない」を読み、色々腑に落ちる。
そして、個人的に深読みをしてみる。

そもそも、大蔵省は敗戦後、GHQからの組織解体を「連合国の協力者」として振る舞う事で解体されずに済んでいる。
つまり、財務省という組織は敗戦後からアメリカ合衆国の「日本州」の行政機関として存在していると捉える事が出来る機関であると思う。

また、「書いてはいけない」の中で、財務省の中で、増税すると「勝ち」で、減税すると「負け」になるという記述から考えて、その勝ち負けを査定する人物は外部に存在するということにならないだろうか。
そして、その存在は、総理大臣でもなく総理大臣を倒しに来る財務省にも存在しないという事でもある。

したがって、総理大臣というポストは、表向き国民と国会議員の支持を得て決まるものであるが、上記のことが事実であるなら、財務省の承認を受けることで初めて、その権力を行使できるようになる。しかし、財務省の承認を受けるということが前提であったとしたら、重要な案件はアメリカ議会の意向を丸呑みするしか選択肢はない。

これまで、日本の歴代の首相はアメリカの大統領との仲の良い姿が報じ続けられていて、その度に日本の首相ってすごい人なんだ。うまく外交を進めてくれているのだと思っていたが、それは、情報操作でそのように思わされていただけなのかもしれない。

戦争で焼野原になった街を復興し、アメリカさんからあたえられた民主主義を享受し、国民の生活は豊かになり、大きく経済発展を遂げたけれど、原則として主人には逆らってはいけない立場だったのであろう。

戦争で物理的に焼野原になった日本は、次は経済的に焼野原にされてしまうのかもしれない。

こんな妄想など、大外れしていてほしい。



憲法記念日。

2024-05-04 20:36:29 | 日記
今朝の新聞に改憲派と護憲派の集会があったことが報じられていた。
記事を読んでみると、どちらの言い分も一理ありと思い、問題の主となっている緊急事態条項の新設について個人的に考えてみることにした。

緊急事態条項が憲法に加えられると、戦争や恐慌、大きな災害などの緊急事態が発生した際に、政府の権限を越える権限を内閣や内閣総理大臣に一時的に付与され、政府の対策を迅速に行い社会の緊急事態に対応する事が出来るようになります。

しかし、そのことによって、政府に大きな権力が集中し、政府の権力濫用の危険性が高まります。
最悪の場合、私たち国民は権力を行使する人々の倫理観を信じるしかないという状況に陥ります。

もし、日本という国が大国に対して忖度しなくてもよい主権国家であるならば、あらゆる物事が進んでしまった現代に対応するべく、憲法改正も必要なのかなという思いはある。

しかしながら、日本は敗戦国であり、戦勝国が意図的に作った西側の大国との「緩衝地帯的存在」でもあるから、緊急事態条項が設けられたとしても、その利用方法は戦勝国の意に従わなければならない。

もし、日本が戦後からそのような状態であり続けているのだとしたら、緊急事態宣言が発令された際に、本当に国民の利益を護る事が出来るのか疑問に思う。

したがって、アメリカ政府の利益の為に緊急事態宣言が発令されてしまう危険性がぬぐえないうちは、改憲しなくてよいのではという考え方もありなのではと思う。





与党の選挙対策委員会の考えはどうでしょう?

2024-05-03 20:12:49 | 日記
経団連会長の十倉さんが、「なぜ首相の支持率が上がらないのか分からない」というようなコメントを出されていた。

世論と感じ方が乖離しているなぁと思い、暇に任せていろいろ考えてみる。

そして、そこで思い浮かんだ根拠のない考えを、個人的にすっきりさせたいのでだらだらと述べておきたい。

戦後以降、農業などの第一次産業に支えられていた市町村の各町には土建屋さんがあった。
小さな農村の土建屋さんは農村の公共事業を担っていて、米作りに関わる、水路、河川、耕地整理も引き受けていた。小さな農村での産業の主が米作りであるから土建屋さんとは共同体であった。
そして、作られたお米はすべて農協に収めていたので、農協さんとも共同体であった。

土建屋さんは公共事業をいただくために、農協さんは農業を守るために、選挙が行われる度に与党である自民党を推した。米作りを主とする小さな農村に暮らす人々は、ほぼその意向に従った。それが共同体を維持する一つの手段でもあった。

しかし、時代は変わり、離農者は増え続け、土建屋さんや農協とも縁遠くなった。
そして、これまで無条件に自民党を支持してきた人たちも鬼籍に入り始めた。

その代わりに会社勤めの人が増え、会社員の人は組合や会社の推す議員さんへ、選挙に興味のない人は投票を放棄し、選挙に興味のある人は自由意志で票を投じるようになった。

また、都市でなどで大きなビルや公共の工事現場を見ると、海外の労働者を見かける事が多くなったように思う。
おそらく彼らには投票権がない。

これは点のみの視点であるが、もし、同じような状況が日本中で起こっていたとしたらどうだろう。それだけでも、かなりの票数にならないだろうか。
そして、この事象は戦後から自民党をけん引してきた人々の意思が引き継がれずに断絶し始めているといえるのではないか。

だとすれば、支持率が上がらないのは、共同体を壊してしまった、資本主義と新自由主義が生み出した一つの事象といえるのではないだろうか。

古代ローマ時代の詩人ユウェナリスが当時のローマ社会を批判したように、「パンとサーカス」を与えられることによって人々の多くは政治的無関心になりはしたが、それと同時に戦後、世の中をよくしようと熱心に自民党を支持してきた人々もこの世から去りだしたのであるから、そこを見落としてしまっていると、十倉さんのような乖離が生まれてしまうのではないかと思った。

この推論、どうでしょう?



言葉を軽んじてはいませんか?

2024-04-29 15:53:22 | 日記
今更と、
今更と、人は言うかもしれない。しかし、何故かどこかで「私達には知る由もない大きな仕事を成すために敢えてそのような立ち居振る舞いをしているのかもしれない」と思っていた。

国家の存亡に関わる様な事を成す為には、何かを犠牲にせねばならないのは歴史が語っている。
だからこそ、人より多く勉強し、優秀は成績を収め、いい会社や官公庁に就職し、議員や官僚になったその集団なのだから、より良き世を構築してくれるであろうと思っていた。

(Ⅹ)を観ていたら、首相のポストが流れてきて、読んでみると島根県の議員さんを応援している内容であった。

が、その文章を何度も読み返してみるけれども、何も伝わってこなかった。
僕の頭がひどく悪くなったのかもしれないが、何度読み返しても選挙に関わる事は何も伝わってこない。

その代わり、その文章からわかったことは、自己肯定、希望的観測、隷属を増やしたいのだという願望が伝わってきた。

とりあえず問題提起をリポストして、その反応からまた考えようと思っていたが、何も反応はなかった。

短いメッセージくらいで自国の首相に絶望してしまう僕の狭量な心が駄目なのだろうか。

もしそうだとしても、言葉を生業にする職業についているのであれば、言葉を軽んじると、いずれ誰もついてこなくなるのではないかと思います。

報道しない理由を教えてくれないか。

2024-04-15 20:27:29 | 日記
(Ⅹ)で知った、東京都内で行われたパンデミック条約デモ。詳しい事はテレビのニュースで教えてくれるだろうと待ち望んでいたが、一度も目にする事は無かった。ラジオのニュースでも然り。

「国民の声」を拾い上げる事が報道の役割であるはずなのに、どのような原因で報道を控えることになったのだろうか。
「パンとサーカス」に満足している関心のない人には知られてはいけないことがあるからであろうか。
それはどのような不都合なのだろうか。

もし、意図的に言論統制がなされているのだとしたら、近い将来「憲法第9条改正反対」「核兵器廃絶」などの集会やデモ行進も報道されなくなるのかもしれない。

そして、かつての日本のように、外交に失敗し、法改正がなされ、全体主義になり、責任の所在も不明瞭なままに、戦争に巻き込まれてゆくのかもしれない。

しかし、それは戦争を体験した先人の望んだ未来ではないはずである。

斜陽。

2024-04-14 17:36:09 | 日記
散歩していると、手付かずになっていた田んぼに重機が入り整地作業をしていた。
空き家だった家も取り壊され、その後にはソーラーパネルが設置された。
その近くに立っている小学校も廃校に向けて市が動き出した。
廃校になった小学校の周りの田んぼは、いつかソーラーパネル群に変わってしまうのだろう。

明治時代の終わり頃、この地区に線路が引かれる構想が持ち上がった。
一見、利便性が上がり誰もが喜ぶと思われるが、当時の住人は「危険」と猛反対。
その働きで、線路はこの街の手前で大きくカーブし、山間を抜けていった。

バブル期の頃、ゴルフ場の誘致の話が持ち上がった。まずは山を削り、畑にしたのち、ゴルフ場にするという予定だったが、住民は「環境破壊になる」と猛反発。
推進派と反対派が存在したが、ほどなくバブルがはじけ、計画はとん挫した。
そして現在。人口は減少し、空き家が増え、山や田畑、特に山の斜面や山間になるところは荒れ果てて、再び自然の姿に回帰している。

そして、野菜や稲の代わりにソーラーパネルが増えている。

ソーラーパネルには鉛、カドミウム、セレンなどの有害物質が含まれていて、破損すれば土壌汚染につながり、また、パネル耐用年数は30年くらいなので、廃棄処理問題は次世代の人達に丸投げする形になる。

鉄道を歓迎していれば、立地的には人口を維持できたかもしれないし、市もこの地におけるインフラ計画も全く違っていただろう。

議員の人達と上手く交渉していれば市街化調整区域にならなかったかもしれない。

もし、ゴルフ場設置を歓迎し整地後、計画がとん挫しても、後に近くを通る国道のバイパスを考えると、団地を誘致できたかもしれない。

そうすれば小学校も廃校に追い込まれなかったかもしれないし、ソーラーパネル誘致も起こらなかったかもしれない。

日が昇ると同時に田畑に出て、作業をし、隣人と語らい、日没と同時に帰宅する。
収穫を競い、喜び、盆と正月、村祭り、運動会等の慣習行事を楽しみ、年齢と共に、子供会、青年団、消防団、婦人会、老人会という組織に所属し、冠婚葬祭は隣人と協力し合い、変化を求めない共助を身体にしみこませてゆくことが、先人たちの当たり前であり、それを護る事がこの町を護る事になり、受け継がれてゆくことになると思ったのだと思う。

維持できなかったことは時代のせいだとしても、選択してきた結果でもある。しかし、今の状態につながっていることを誰も認めない。
行政やこの街を出てゆく人に、責任を転嫁している。
先人が守ろうとしたものは、いったいなんだったのだろう。

部屋から外を見る。山の木々がセピア色に変わってゆく。この街も、もう斜陽の時なのかもしれない。

念願の「モーターサイクルショウ」

2024-04-06 21:00:33 | 日記
1980年代後半、一つの夢があった。
それは「レーシングライダー。」
そんな時期があった。(絵を描くこともこの頃夢中になっていたが、早々と才能の無さに気づいていた)
4年ほど夢中になって夢を追いかけていたが、何回目かの鈴鹿サーキットの130Rと呼ばれるカーブで、曲がり切れずダートを走った数秒の間、初めて「怖い」「明日の仕事を休むわけにはいかない」という思いが生まれ、その後「いろいろ考えてしまい」それを気にバイクを下りてしまった。

でも、バイクを見るたびに乗ってみたいなという思いどこかにあった。

それから、数十年。モーターサイクルショウというイベントを知る。
それ以来、ずっと行きたかった「モーターサイクルショウ」
しかし、週末はいつも仕事で詰まっていた。
今年の3月、立ち寄ったローソンでチケットが販売されているのを知り、しかも今年、その日は休日。

「これは行くしかないだろう」と、その勢いでチケットを購入した。

電車を乗り継ぎ2時間かけて中部国際空港にある国際展示場へ向かう。
車で行った方がよいかなとも考えたが、名古屋鉄道に乗る機会なんてなかなかないと思い電車を選択。
名鉄のホームからセントレア行に乗る。初めての名鉄、並び方に焦る。しかし、初めて乗る路線の風景はとても新鮮で子供のように車窓から外を見てしまった。

しばらくすると「大江」という駅名を耳にした。
現在は工業地帯であるが想い出すのは戦闘機や爆撃機。
ジブリの「風立ちぬ」という映画で登場人物が勤めていたのもこの辺りである。
以前、「風立ちぬ」の二次作品の物語を紡ぐにあたっていろいろと調べたので、この話をしだすと長くなってしまいそうであるから、話を元に戻す。

無事セントレアにつき、国際展示場を目指す。とにかく歩く。駅からビックリするほど遠い。
キャリーバッグを持ったトラベラーを横目に競歩の如く歩いてゆくと、左側に大きな建物と広い駐車場が見えた。
「なんで、スペースジェットではないんだろう」とぼやきながら、ボーイングの飛行機を横目に施設を通過するといよいよ会場が迫ってきた。

駐車場にはたくさんのバイクが止まっている。ついに来てしまった。

チケットを見せて、リストバンドを腕に巻く。いまや貼り付ける使用になっていて驚く。

会場にはライダースジャケットを着た人が大勢いて、全体が黒い。時々若い男女も見かけるが多くは、同じ世代のおじさん。
1980年後半から1990年代前半のバイクブームが青春時代だった人たちである。
僕もその中の一人であるが、バイクには乗っていないし、所有もしていない。
だから、「カムバックライダー」ではないが、最新のオートバイには興味津々。

まずは無料の案内地図を手に取り、全体像をチェック。
「モビリティショウ」ほど規模は大きくなく、これならば、2時間もあれば回れるかなと思いつつ、ワクワクしながらホンダブースへ。

バイクにまたがり記念撮影をしている人が沢山いる。なるほど、そういう風に楽しむのかと僕も気になるバイクにまたがってみる。
全体的に見てトレンドは「ネオクラシック」なようである。1970年くらいのオートバイらしいデザインが流行っているようであるが、そこはあまり響かない。

どちらかというと、最先端のレーサーが好き。そして今一番気になるCBR600RR。
カラーリングといいデザインといい、心もときめく。

ドキドキしながら左手でステアリングを握り、固くなった股関節に戸惑いながら、右手で右足の足首をもってまたぎ、右のステアリングを握ると、自然に人差し指と中指がレバーに伸びる。そして、ステップに両足が載ると、腰を上げて、しっくりくるポジションに腰を下ろした。
かつて、行っていたルーティン。身体が覚えていたのには驚いた。

しかし、ここからが問題であった。まず、腕が引っ張られる感じがする。背筋がかちかちで背中が張る。軽い腰痛があるので、腰に違和感を覚える。

完全なる老化を知る。

現代のレーサーがよくやるコーナーに入る前に内側の足をステップから外すという動作をしてみる。リアタイヤにトラクションをかけるためだという理由だそうであるが、その動作をすると、身体のあちこちが軋む。

値段が高いという理由で諦めてはいたけれど、やはりと言うべきか、スポーツタイプには乗れない身体になってしまっていた。

ヤマハブースでのYZF スズキブースでのGSX カワサキブースでのninja どれも身体がバイクにフィットしなかった。もう無理なようである。
ではどんなバイクがフィットするのだろうかとハーレーなども座ってみたのであるが、一番しっくり来たのがsuzuki GSX―8Rであった。

腕が張ることも背筋に違和感を覚える事も無いし、刀のように、腰が立ってしまいすぎるという訳でもなく、取り回しもよさそうで、ツーリングでも通勤でもサーキットでも楽しんで乗れそうという気持ちをかき立ててくれる。そして価格も頑張って貯めればなんとかなりそうな値段である。それでも、

「いやあ、でも無理だろうなぁ」とすぐにあきらめてしまう自分がいた。

パーツメーカーさんも出店しているで、パーツブースもじっくりと見てゆく。
一度離れてしまうともうわからないかなと思っていたのであるが、そんな事もなかった。
スリップオンマフラーが展示してあるブースに立ち寄る。様々なマフラー。
ああ覚えている。懐かしい名前ばかりである。しばし立ち止まり感動。
スリップオンマフラーといえば、「overが今度新しく出したマフラーがあるよ」とショップの店長に教えてもらって、峠では、いち早く装着した思い出がある。
しかし今では標準になってしまっているようである。

昔の色々なことを思い出しながら、最新のバイク、パーツ、バイクギアを観てゆく。
当たり前ではあるが、あらゆるものが、格段に良くなっている。どのブースでも感動してしまう。
よくわからないパーツなどはじっくり見て、その用途を想像してみる。その様子を見てか、時々ブースの人が話しかけてくれているので、少しばかり質問して、解を得る。

SHOEIのブースでは、懐かしいデザインのヘルメットに出会う。ガードレールを蹴飛ばしてクラッシュを未然に防ぐ天才高校生ライダーのレプリカ。
あの頃は「走りが速くなければカッコ悪い」と頑なに拒んでいたのを思い出す。
いくらするのだろうと老眼鏡をかけて価格を見る。確かにオジサンの心をくすぐるが、リッチになる事から降りた僕には無理である。

「あきらめる事が多いなぁ」と思いながら、今、何とかして購入しようとしているカワサキKDXを観に行く。紹介文をみると販売は秋ごろとある。当初の予定は今春の予定だったような・・・。
オフ車はヤマハスズキとも生産を止めてしまったので、現在ではホンダのみ。したがって中古車価格が上昇しているが、中古車の価格は上げないでほしいと切に願う。新車よりも高くなったら、その価値に納得する人しか購入しなくなる。

CBX400Fが200万円になったことを聞いた時、驚きと共に、1980年頃、やんちゃしていた人達がある程度裕福になって、やんちゃしていた頃のバイクをもう一度乗りたいという思いからプレミアがつくようになったのではと思った。
しかし、バイクの旧車は自動車と違ってアメリカやヨーロッパでそれほど人気がないのだから、狭い日本の市場だけでは、このような高騰は最終的に売れ残りを生み出してしまうのではないか思う。

バイクは小さな趣味の世界である。映画「ワイルドスピード」のような紹介もされないし、雨天では濡れてしまうし、真冬は寒くて乗れないし、真夏は暑くて乗っていられない。もう、自動車とは根本が違うのである。そこは分かってほしいと思う。

KDXを写真に収めた所でお腹が空いてきたので、屋外で販売されているキッチンカーの食事を食べる事にした。
一人飯であるし、がっつり食べなくても良い。軽く手早く済ませばよいかと、ハンバーガーを選択。ハンバーガーを食べるのはおそらく10年ぶりくらいである。

価格は1000円を超える。「うっ」と思いながらも、勢いも大事だと言い聞かせ購入。
用意されている休憩スペースに移動し周りを見てみる。
モーターサイクルショウだけあって、女性と高校生以下の人は無料といえども、やはり一人で来ている人も多く、一人飯の人も沢山見えた。
もし、あのままバイクに乗り続けていたら僕はあんな感じだったのかなと思いながら空いている席に腰を下ろす。
紙に包まれたハンバーガーをしばらく見つめ、「1000円かぁ」と思いながらその味をかみ締める。ふと、中学生の頃、「ドムドムバーガー」を120円で食べたことを思い出す。当時僕にとって120円はとても高かった。そして現在。僕は価格が10倍のハンバーガーを食べている。
えらくなったもんだと感心する。

食事を終え、パンフレットを開いて見忘れてないブースがないか確認。
もう心もお腹もお腹いっぱい。思い切って来てみるものだと改めて思う。

疲労した両足にむち打ち、来た道をガンガン歩く。
空港の時刻表を見ると海外便の行く先の多くは中国。どおりで周りは中国語ばかりなのかと感心。
貧富の差は大きいけれども、経済的には豊かになっていることをあらためて実感する。
帰りは、思い切って「ミュースカイ」に乗ってみる。
初めて乗る「ミュースカイ」。乗り心地は最高である。行きの準急は準急の良さを感じたけれど、ミュースカイは快適のままあっという間に名古屋駅である。これならトラベラーも満足であろう。

名古屋駅ではいつもより沢山の外国の人を目にする。
そうか、鈴鹿はF-1ウィークであった。