硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

戦争と僕。

2024-08-13 22:04:41 | 日記
もうすぐ終戦記念日。今は平和である日本ですが、80年前は戦争をしていました。
平成生まれの人や昭和60年前後生まれの人だと、もう世の中はとても豊かで、戦争という事象は「昔話」の世界観でしかないのではないかと思います。

僕の母は戦中生まれで、僕は昭和40年代に生まれました。
その頃は、まだかすかに戦後があり、人々のマインドはまだ地続きでした。
そう感じていたのは、母方の祖父は戦争で亡くしていたという理由も影響していたからかもしれません。

祖父にあたる父は、兵隊さんになる前はサラリーマンでしたが、ある日、赤紙が届き兵隊さんになり、南方へゆくことになりました。
そして、しばらくすると内地にも戦禍が伸びてきて、曾祖父や曾祖母、祖母と田舎に移り住むことになり、母はそこで終戦を迎えました。

母には姉がいて、姉はどうしても高校に進学したいと希望し、祖母は大変な苦労をしながら、姉の希望をかなえてあげましたが、その姿を見ていた母は祖母をこれ以上の苦労を掛けさせまいと、中学を卒業後、働き始め、年頃になると祖母の姉妹である農家の祖母の長男とお見合いをし、それまでしたことのない農業をしながら大家族を切り盛りしてきました。

現代社会では到底受け入れられない価値観になってしまいましたが、当時の価値観はそれが普通でした。

でも、戦争がなければ、祖父が生きていれば、母は高校を出て、高度成長期に差し掛かった街で働き、そこで出会った人と結婚して、農家の大家族の中で苦労せずに、違う幸せを得ていたのだろうと思います。

実際、母も祖父が亡くなっていなければ、農家へ嫁ぐことはなかったと言って笑っていました。

しかし、僕はその話を聞いた時から、ずっと胸中にしこりが残ってしまいました。
ネガティブな考え方をすることがいけないのだというのも頭では分かっているのですが、事あるごとに頭をよぎるのです。

「もし、戦争がなければ、僕はこの世に存在していなかった」と。

SNS上では、戦争を肯定的に考えている人を散見できるが、戦争とは、自国が敵国と定めた人の殺人を認める行為で、強制的にその逆の立場に立たされ、ありとあらゆるものが統制され、自由が奪われ、長い時間をかけて作り上げてきた、人としての倫理観や道徳心を放下することなのだと思う。

そんな世の中で、本当に幸せなのかと問いたい。

広島原爆の日に向けて。

2024-08-04 14:13:01 | 日記
少し前から自分で書いたあるブログが気になっていた。
しかし細かいところまでは思い出せずにいたので、何とか探し出し読んでみると、やはり興味深いトピックだったので、そのブログに少しだけ加筆しここに採録しておこうと思いました。


介護職という仕事柄、お年寄りから昔話を聞く機会があり、10年ほど前では大正生まれの方が多かったこともあり、戦争体験談もたくさん聞けました。話された方の中には、家族には話せないけれども、第三者ならという気持ちもあったのかもしれません。

様々な戦争体験談の中で、広島の原爆体験のお話も数名から聴く事が出来ましたが、これから述べる当時兵隊さんだった男性の体験談は、これまでに聞いたことがなく、本や記事などからも知る事の出来なかった印象深い話をされ、僕に大きな疑問を投げかけました。

その男性は三重県生まれの方で、1945年には、たまたま県内の内地勤務にあたっていたそうです。
しかし、その年の7月末か8月1日位に、急に広島の第二総軍という部隊へ配属命令が下りました。
すぐ移動という事で、命令が下ったその日に三重県を立ち8月3日か4日に広島に移ると、全国各地から同じように招集をかけられた多くの兵隊さんが集まっていたそうです。

そして運命の8月6日の朝。

その男性は屋外に出て集合する途中、忘れものに気づき、一旦宿舎へ入った直後、広島上空で原子爆弾が爆発しました。
男性曰く、その時、何が起こったのか分からず、突然建物が壊れ、建物の下敷きになり抜け出せなくなりました。
もうダメだと思い始めた数時間後、運よく怪我はなく助け出されたものの、変わり果てた景色を見て、初めて何が起こったのか理解したのだそうです。
そして、歩いてゆくと死者や負傷者が沢山いて、さらに多くの死体が浜辺や河川沿いに積まれていたそうです。

さらに、その男性の話で最も印象深く残ったのは、同じ第二総軍に所属していた、李グウ公という韓国の王子様のお話でした。
8月6日、李グウ公の御つきの吉成中佐という方は、李グウ公と共に第二総軍司令部に行く予定だったのですが、吉成中佐は6日の朝、体調を崩され、李グウ公は一人で司令部へ向かうことになり、李グウ公はその途中に被爆され亡くなりました。御付きであった吉成中佐は、無事でしたが、李グウ公を護れなかった責任を取って自決されたのだそうです。

このお話を聞いていて、初めて知る歴史的事件に驚きを感じるとともに疑問もわきました。

まず原爆が投下される数日前に、広島に沢山の兵隊さんが集められ、その中に韓国の王子様がいた事です。

原爆投下を設定するにあたり、ち密な諜報活動もなされていたはずであるから、多くの兵隊が集まる事も、その中に韓国の王子様がいる事も分かった上で、原爆投下が行われたとみるのが妥当です。

事前に第二総軍という組織が広島に編成されることが外に漏れていたという事は、情報を流した人が存在したという意味であり、日本の兵力を一気に消耗させるチャンスを与えた事になります。
また、韓国の王子様が日本で亡くなったとなれば、韓国の国民感情は、日本が悪いから王子は命を亡くしたのだとの想い、原爆を投下した米国よりも反日感情を抱く人が多いだろうと予測し、大東亜戦争後の朝鮮戦争への介入も受け入れやすくなるだろうと考えたのかもしれません。

これはあくまでも僕個人の妄想の推測。

しかし、なにか触れてはいけないものに触れてしまった気がしてならないので、あえてここに記述しておくことにしました。


いくつになっても・・・。最終章

2024-08-03 15:42:43 | 日記
しばらく歩いてゆくとビジネス街になり人通りも少なくなり、大通りを右に曲がり朝日の上る方向へと進むと、ビルの合間からテレビ塔が見えた。
いや違う。テレビ塔はもうその役目を終えているんだったとハタと気づく。その手前の角には高い仕切りが建てられていて、既にビルは取り壊されていた。
一瞬、何だったかなと思うもすぐには出てこない。目の前にはかつてのテレビ塔。(今は中部電力ミライタワーというようである)
ああそうだ。東急ハンズのビルだ。
20代の頃、雑貨を目当てにわざわざ来ていたことを思い返す。田舎ではないものがそろっていて見ているだけで本当に楽しかった。(現在ではだいたい地元のホームセンターやショッピングモールで事足りるようになった。Amazonもあるしね。時代は留まる事を知らない)
確かオープンしてからすぐにきた気がする。しかし、今はその形もない。今振り返れば、あっという間だった。

セントラルパークもリニューアルされていて洒落た感じになってはいたが、ここにも若者たちがいて、ある人たちは語らい。ある人は酔いつぶれてベンチや地べたに寝ていて、ある人は一人でスマホに向かっていた。(一人でスマホを見ているだけなら家に帰ればいいのにと思ってしまうのはやはり違うのだろう)
「その頃は、時間は無限にあるものだと思っていたなぁ」と思いながら歩いていると、オアシス21近くの交差点まで歩いてきた。ずいぶんと汗もかいた。のども乾いた。これ以上の散歩は身体に悪かろうと思いお宿へ。

泥酔中の若者たちが海に浮かぶクラゲのように街の中を漂っている。タクシーを止めるために走行車線の真ん中まで出ている若者もいる。少し肩を落としたホストさんやキャバ嬢さんも家路に向かっているようである。
「お疲れ様」と小さな声でつぶやく。接客業、特に直接熾烈な競争の場にその身を置いているのであるから、リターンも大きいかもしれないが、身の削り方も凄まじく大であろう。

朝日が少しずつ高くなってきて、街の輪郭がはっきりと際立ってきた。再びお宿に潜り込んで大浴場で朝風呂につかる。
贅沢しているなと思う瞬間である。
足腰に溜まっている疲れを癒し、お腹が空いたので最上階で軽く食事を摂ると、少しずつ身体が覚醒してくる。食後、ミルクたっぷりのコーヒーを飲みながら、まったりとテレビに映し出されるオリンピックの結果をぼんやり眺める。
水泳の池江選手が悔しさをにじませながらインタビューに答えていた。
周りのお客さんを見回す。意外にも誰もテレビを見ていなかった。
怠惰に時間を過ごして10時に出発。
考える事が同じなのか、この時間チェックアウトする人が多く、エレベーターも満員、フロントでも列をなしていた。手際よくチェックアウトを済ませ、お宿の外に出ると、もう夏の強い日差しがアスファルトを焦がしていた。
さすがにもう歩道には、座り込んでいる若者はいなくなっていて、朝から活動する人たちが闊歩していた。
しかし、夜の痕跡を残したゴミは変わらず散乱していて、片付けてくれるのを待っているように映った。
朝通った時は気が付かなかったが、その通りにはいくつものごみ放置禁止の注意喚起の看板が表示されていて少し驚いたが、悪意のある無邪気さが彼らをそうさせているだろうと思った。

地下鉄駅に向かう途中、アミューズメントビルの前に小さな人垣ができているのが見えた。興味がわいたので立ち寄ってみると、どうやらアイドルさんのミニコンサートが始まるようだった。タイムスケジュールを見ると開始時間は10時20分。あと5分もあれば始まる。
会場が地下にあり、見下ろせる位置から周りを見てみると、女性もいるけれど30代から50代くらいのおじさんがメイン。それぞれが個々にアイドルの登場を待ち望んでいた。
どんなアイドルさんか気になるし、どんなパフォーマンスを見せてくれるのかも気になる。ファンさんの邪魔にならないように待っていると、音楽と同時に秋葉でみたメイドさんのようなキラキラした洋服に身を包んだ女性が登場し、元気よく踊り出し歌を歌い出した。
するとオジサンたちもスイッチが入り推しに向けて声援を送りだした。アイドルさんもその声に反応しパフォーマンスを上げてゆく。しかし、アイドルのセンターの一人がどうも未来を見失っているような感じを受けた。
それでも、ファンの人達は懸命に応援している。

きっと推す何かがあるに違いないとビジュアルを一度遮断して楽曲に集中するも、一向に刺さってこない。刺さらないのは曲でもないのだ。
他のファンの迷惑になるといけないと思い一曲目が終わらない前に静かに会場を離れる。

そして道すがら色々考える。昨日のお祭りの時も感じたが、歳を重ねても推せる何かがあることは、たとえ日常生活がさえないものだとしても、推す瞬間がその人の人生を豊かにし、彩を与えるのものなのではないかと。

そして、生活習慣や家族なども含めた価値観がこれほどに多様化した時代においては、推せるもの、意識を集中できるものがあることの方が、夜の街を彷徨い楽しいこと探しをする若者たちよりも幸福なのではないかと思った。

いくつになっても・・・。5

2024-08-02 17:05:30 | 日記
繁華街の夜は共通して若い男女が沢山歩いている。皆楽しそうである。
しかし、その様子を見ていて、一見すると日本は経済的に豊かな国と映ってしまうが、目に見えない社会的格差はこういう場所にこそ顕著に表れるものなのだと思ったりもしたが、週末を楽しもうとして言う若者たちにそんな事はどうでもよいのである。
なぜなら個人が胸中に抱える問題であり、そのはけ口を夜の繁華街に求めてやってくるのだから。

時刻は21時を回っていた。もちろん街の盛り上がりはこれからという感じで、歩道から見える飲食店の中はお客さんでにぎわっている。
しかし、僕の日常では21時過ぎは、お風呂から上がっていて、就寝のための余白時間。
頭の中では、もう少し繁華街を散策しようとか、jazzのライヴを聴きに行こうとか、クラブミュージックを聴いてみたいとかいう思いはあるのであるが、身体は疲労しきっていて、ハジけようという気にはなれない。

松坂屋の間を抜けスクランブル交差点を渡り、白川通りを歩いてかつてロフトだったビルを横目に見ながら「もうロフトじゃないんだ」と思いつつ、プリンセス通りへ。街角のブルーシールアイスクリームのお店の前で、甘味に欲するが、お店の前で戯れている若者に待ちきれず早々諦める。
日中には何度か歩いている道なので歌舞伎町を歩いた時の緊張感はないが、それでも周りに注意しつつ歩みを進めてゆく。
宿の近くの狭い歩道には、なぜか若者がたむろっていた。カラオケ屋があるからか、いやそれだけが理由で人は集まらないだろうと思いながら、ぶつからないように気を付けてお宿へ滑り込んだ。

翌朝。いつものルーティンで5時起床。散歩に出かける。いつもは田園風景の中を歩くので街の散歩はうきうきする。
ふくらはぎや腰に疲れがたまっているのが、気持ちが上回っているのが分かる。
歩道にでるとすぐさま衝撃を受けた。
若者たちが歩道に座り込んでまったりしている。しかも100m位の区間にぎっしりである。仲間と語らっている人もいれば、一人でスマホをいじっている人もいる。(一人でスマホ見ているなら家に帰ればいいのにと思ってしまうが、それは違うのであろう。)
そして彼らの周りにはゴミが散乱している。なんだろう?これはどういう事なんだろう?と、観察していてふと浮かんだのは、昭和の日本の繁華街の風景。
なるほど、彼らの感性は昭和へ戻りつつあるのかもしれない(エモいというのもその兆候かもしれない)と思いつつ彼らの間をすり抜けてテレビ塔方面へ歩いてゆく。
すると突然片言の日本語で「オニイサンコレカラオサケドウ?」といきなり話しかけてくる女性がいた。朝の5時半であるにもかかわらずである。怖くなって丁寧にお断りをする。

街はこれだから油断できない。

いくつになっても・・・。4

2024-08-01 16:17:07 | 日記
日も沈み時間になると、おなじみのテーマソングと共に北野さんとタニシさんが登場。
動いている二人をみて思わず「おおっ」と声が漏れる。
普段はカーステレオや散歩コースの風景を見ながら耳を傾けているので、あえて姿を見ながら声を聞くと違和感を抱く。
(北野さんは謹慎前の姿で止まっているし、タニシさんは書店で平積みになっている姿しか知らないので・・・)
そしてアシスタントさんも登場し、おなじみのトークが繰り広げられる。ついにライヴでズバリを観れるなんて、重い腰を上げてよかったと、感慨深く思った。

そして、一つ目のイベント、アシスタントのカラオケ大会が始まる。あみだくじで決まったトップバッターは元アイドルの佐藤実絵子さん。流石アイドルさん。歌に移る前のトークも、もちろん歌も踊りも上手い。聴衆を動かしてゆく。僕はSKE時代の佐藤さんを知らないので、なおさらそう感じる。

しかしである。

僕も含めて周りは年配さんばかり。しかもこの暑さ。佐藤さん推しの人は、慣れた感じでコールに応じているが、他の人は心も身体もアクティブに動いてゆかないようである。ここで一人だけハジけても浮いてしまうので周りに合わせて静かにのってみる。

次々に登場するアシスタントさんが個々にスポットがあたるのだけれど、勝手なイメージが付いていたのでなかなか声と姿が一致しない。それでも、Tシャツを着る事を拒んでいた大橋さんのシャボン玉パフォーマンス、松岡さんのスナックなノリ、氏田さんのファン層を狙った選曲と歌唱。それぞれの個性的な部分を改めて知ることができて十分楽しめた。(山内彩加さんのパフォーマンスは最高だった。さすが山内ポリス! )

次に登場したのが、「ズバリ」で時々話題に上がるリスナーさん同士で組んだお笑いコンビの漫才。コンビの立ち上げ当初から聴いていたので、このオぢサンたちがチャレンジしていたのかと驚きつつも、漫才の流れに感心。
そして、好きなことがあるといくつになっても輝けるのだなとその雄姿を羨ましく観ていた。

その後、河原崎さんがギターを持って登場し(イメージしていた姿と一番かけ離れていた人だった)そして、北野さんが「あの歌何とかならんのかぁ」とぼやいていた、初音ミクぅ~と音程を外しながら歌っていた清水藍さんが登場。
登場早々に清水さんから盛り上げるためのお手伝いの説明を受けるも、上手く理解できなかったことと、音程がズレまくっていて上手くノッていけない。

でも、清水さんはとてもうれしそうで、なぜだかほっこりした。

誠さんの歌声も初めて聞いた。たかじんさんとのエピソードに感動しつつ、河原崎さんのギターとブルースハープに長渕剛っぽいなぁと思っていたら、長渕さんがゲストにいらっしゃったときのエピソードを聴いて納得。
あっという間の2時間であったが、ラジオを見ている感じでとても面白かった。
(ズバリサタデーでコーナーを持つスポンサーさんの社長と社員さんのイメージが一番かけ離れていた。声からもっと細身のシュッとした方かなと思い描いたのであるが、やはり、ガタイのいい方でそうだよなぁと納得)

イベント終了と同時にスイッチを切り替え、すぐさま席を立ち、解放された出口から最短で会場から抜け出す。
人混みから逃れるとビルの合間を抜けてくる風が心地よかった。


いくつになっても・・・。3

2024-07-31 17:50:41 | 日記
目的のお宿は大きな通り沿いにあるので、すぐ見つけられた。
先ずはよく周りを見て構造を見極める。そして靴を脱ぐ。ロッカーに入れる。鍵をかける。フロントに行く。このように自分の中で順番を決めてから行動に移してゆく。しかし、チェックインは一向に慣れない。緊張するのである。住所などを記入するとき、ついつい字が浮いてしまうのである。

フロントでは、女性が柔和に、かつ丁寧に説明をしてくれている。その様子を見てこのお宿は大丈夫だと安心する。大げさかもしれないがいつもこんな感じである。
前の人を見て流れは掴んでいたので手際よくチェックインを済まし、部屋までのルートを覚え荷物の軽量化を図り、見た目よりも快適性を重視し汗対策のタオルを首に巻き、焼けたアスファルトにエネルギーを奪われながら夏祭り会場を目指した。

スマホの時計を見ると開始時間が迫っていて、日は沈み街明かりが輝き始めていた。

よくよく考えると、この時間にこの辺りを歩くのはたぶん30年ぶり。しかし、あの頃の記憶はほとんどない。よく来たディスコも(時代がそんな雰囲気だったし、テレビの影響も大きかったのです)どの通りにあったかすらも思い出せない。
今は、後にそれがバブル経済と呼ばれ、短い流行だったという印象だけが残っている。
時代は違うにせよ「僕もあんな感じだったのかな」と思いながら楽しそうに戯れている若者たちを遠い目で見つめ、広小路公園へのルートを迷うことなく歩いてゆく。

開始時間前に到着し、暑さもあってのどの渇きを覚える。
水分補給しようとブースを回ってみるが、驚くべきことに(見つけられなかっただけなのかもしれないが)ビールの販売しかない。たしかにこれだけ暑ければビールの方が旨いのは分かる。しかしビールには利尿作用があるので、イベントの途中で用を足すために席を立つことだけは避けたい。
ブース前には紳士淑女が列をなしているが、万全の態勢で夏祭りを見たいので意志を固くしてここも耐える。

暫くすると、入場する列ができているのに気づき、最後尾を示す看板を持つスタッフさんのいる場所へ移動。
「席がいっぱいになった時点で座れなくなります。ご了承ください」と声をかけている。
椅子の数を横目で確認し列の長さをみるとその可能性は大であった。
まぁ並んでしまったものは仕方がない。もし溢れたら、どこかで飲み物を買ってから場外から見物しようと決め、そのまま流れに乗ってゆく。

しかし、運よく席は空いていて、かろうじて最後尾に近い席に座る事が出来た。
これはラッキーである。

さて、夏祭りの出し物は告知で知っていたけれど実際どんな感じになるのかなぁと期待しながらしばし待つ。
この会場に来た時から気になってはいたが、お客さんの年齢層が高い。見た目が50歳から70歳くらいの男性で多くが占められていた。
「ズバリ!」は平日午後からのラジオ番組であるし、内容が「かつての深夜番組のノリ」に近く、あの時間に聴けるリスナーとなると年齢的に限定される。
現代の高校生や大学生の多くの人は「ラジオは聞かない」という。だから、この現象はリアルな聴取者層を如実に表しているのだと思った。

いくつになっても・・・。2

2024-07-30 19:47:53 | 日記
当日、お昼過ぎから出発し近鉄電車に乗って一路名古屋へ。

現在の名古屋はリニア開発に伴って街の再開発が進んでいて戦争からの復興を遂げた名古屋の面影がどんどん消えていっている。車窓から見える名古屋駅をぼんやり眺めながら、21世紀後半の名古屋はどうなっているのだろうか。

名古屋駅に着くと、まず新幹線の改札横のトイレに向かうのがルーティン。このとき「新幹線のチケットを買って遠くに行ってしまいたい」といつも思ってしまう。
用を済ませ改札を出ると次は地下鉄東山線に乗り換えなければならない。毎度のことであるが心身が都会に順応するのに時間が掛かる。歳をとったせいか一層そう感じる。
暑さでバテ気味の身体を動かしながら、階段を上ってゆく。
地下街のお店も所々変わっていて驚くも、基本的な構造は変わっていないので東京メトロほどの迷いはない。記憶を補正しつつ表示板を探しながら標識に従って慎重に歩いてゆく。

週末であるから平日ほど混んでないだろうと思いきや、やはりと言うべきか、ホームに向かう階段を下りてゆくと沢山の人が次の列車を待っていた。
周りを見渡しながら複雑に並んでいる列の最後尾につくと、すぐに列車が入ってきた。さすが地下鉄である。
人混みに慣れてないのでホッとする。

列車の扉が開くと、ドッと人が出てきて、下車する人の波が切れると同時に、軽く後ろから押されつつ僕の身体は列車の中に押し込まれた。
車内はぎゅうぎゅうである。
背中に知らない人の背中が当たる。猛暑なので他人の体温がTシャツ越しに伝わってくる。
僕の日常で、こういう場面はない。だからどうにも気になるが、「気にしない気にしない」と自分に暗示をかけ「痴漢にだけは間違われないように」と周りに配慮し、広告や電子表示板を観察したい気持ちも抑え、軽く俯き両手でつり革を持って、次の駅までの三分間をじっと耐える。
伏見駅に到着すると下車する人がいてほんの少しスペースが生まれホッとする。

そこから三分で栄駅に到着。扉が開き堰を切ったように人々が車外へ移動する。その流れに逆らえるはずもなく濁流に流れる小枝のように流されてゆき改札にたどり着いた。

しかし、どの出入り口から出れば最短であるかが分からない。スマホか? いや、ここは掲示板だろう。と改札を出たすぐ側に設置されている掲示板で方角を確認。
時間を見るとお宿のチェックインの時間が迫っている。これはいけないと、宿近くの目標物を探しだし、そこから一番近い出口の番号を見つけ、再び表示板を頼りに歩いてゆく。

人は多いが流れには乗れている。というか、東京よりも周りのある帰化型若干遅い気がする。
これは地域性だろうか、などと考えながら表示された出入り口の階段を駆け上がってゆくと、次第に車の行きかう音が聞こえてきて、周りの空気も生ぬるくなった。地上に出るとビル群が夕日に照らされていて、街はゆっくり夜の赴きに移り変わろうとしていた。

いくつになっても・・・。

2024-07-29 17:13:18 | 日記
ラジオと言えば、つい先日4歳くらいの男の子とそのお母さんとの会話が耳に入ってきて、市かも気になったワードが出てきたので、少しばかり耳を傾けていると、その男の子がお母さんの話から「ラジオって何? 」という言葉を発し衝撃を受けた。話を聞いているとラジオという言葉を知らないというよりもラジオの存在を知らないようである。彼らにとって、情報源はスマホからのユーチューブやテックトックが主流なようで、ラジオは存在していない。

その話を聞いていて痛切に時代の流れを感じたが、昭和生まれの世代はラジオが主流であり、生活の中にあったので、今でも切り離せない。
だから、令和の時代であっても朝布団から出る前や、散歩時や車での移動時には普通にラジオの存在があるのだろうと思う。

だからと言って熱量のあるヘビーリスナーではないけれども、なぜかラジオのスイッチを入れていて、平日の午後に車移動するときには大体CBC。
その時間は知る人ぞ知る北野誠さんの「ズバリ」が流れている。

常連リスナーさんやメール職人さんの赤裸々な話とそれを巧みに笑いに変化させる北野さんの話術。さらにアシスタントさんのリアクションが軽妙で、ついついチャンネルを合わせてしまうのである。
40歳くらいまでは好きな音楽を聴いていて、ラジオから遠ざかっていたが、歳を重ねるにつれ「ラジオって面白い」と思うようになり、転職を境にラジオを聴く時間が伸びていった。
CBCラジオは地域性もあってか馴染み深く、小学生位の食事の時には(ご飯を食べる部屋にはテレビがなくラジオが置いてあったからである)よく聞いていた覚えがある。(真空管を使った大きなナショナルと入った灰色のラジオだったなぁ)

それはさておき、

毎年七月の中旬になると、CBCラジオは「夏祭り」の告知を始める。前から気にはなっていたのであるが、ヘビーリスナーではないので重い腰を上げなかった。しかし今回は土日が休みの仕事になり、これは心置きなく行けるのではないかと考え、細君に「ラジオ祭りに行こうと思う」と宣言。細君も車に乗るときにはラジオ派であるので、快く了解を得た。

しかし、「ズバリ」の枠は19時から始まり20時に終わるという時間帯なので、そこから家に帰るとなるとずいぶん遅くなる。どうしようかと迷っていると「泊ってくれば? 」と促してくれたので「ではそうします」と即返答。ようやく重い腰を上げられたのであった。


行き詰まりと息詰まり。

2024-07-14 16:53:52 | 日記
SNS上では都知事選が終わった後も候補者への批判が相次いでいる。
もう目にするものしんどいので瞬間的に飛ばしてゆくのであるが、その粘着力には驚きを隠せない。

なぜ、そこまでこだわるのか。
当選者のこれまでの成果に疑問を持つ人々が批判し続けるのは「よくならない」という思いからであると察しが付くが、落選者に対しては落選した時点で批判する理由はなくなるはずである。

粘着する事にメリットがあるのだろうか?

もしあるとしたら、自分の正しさを他者から認められたい気持ちに執着しているか、当選者が辞退する状況が生まれた時に、落選者が繰り上がらないよう止めを刺しておく必要があるという組織的な動きによるものかのどちらかであるように思う。

どちらにしても、第三者から見ればその行為は「イジメ」にしか映らない。
SNSを駆使する人々は、「いい大人」であるはずなのに、なぜ行為が稚拙なのだろう。

直接的な被害を受けているなら、恨みを晴らしたいという感情が残り続けるが、多くの人がそうでない人であるはず。
なのに、なぜそこまで執拗に批判し続けるのだろうか。
正解は全く分からないが、もっとシンプルな理由として、日常で他者と会話する事がほとんどない人物が、SNSでその喪失感を充足する為に執拗に批判しているのかもしれない。

だとしたら、個人主義も行き詰まりの所まで来ているといえるのかもしれないし、そのような世の中では息も詰まるのではないかと思う。

SNSを有意義なものにしたい。

2024-07-07 17:07:32 | 日記
都知事選の投票日。地方に住んでいるので余り関係はないが、Ⅹを見ていると、かなりの割合で関連のポストが流れてくる。
気にはなるので、どんな主張がなされているのか読んでみるが、時々、頭を悩ますポストを見る。

発言の自由が確保されているとはいえ、辛辣な発言や憶測で批判しているのを見ると、

「なぜ、このような投稿をするのだろう。その発言をすることによって、なにか見返りがあるのだろうか。または、過激な発言をして誰かに認められ優越感に浸りたいのだろうか。それとも、教祖崇拝のような心理状態なのだろうか。もしそうならば、なぜそのような心理状態に陥ったのだろうか。」

等と色々考えるも、これと言った答えに至らない。

個人的に候補者に対して特別な恨みつらみがあれば、感情をぶつけたくなるのは人の性。
ですが、辛辣な言葉で、面識もない人を精神的に追い込むような投稿には疑問を感じる。

TVショウに出演した女子プロレスの人がSNSによって自殺に追い込まれた事件から、まだそれほど時間は経っていないにも拘らず、SNS上では面識のない人でも辛辣な言葉で追い込む人が後を絶たない。

もっと有意義にSNSを使用していきたいと思っているのであるが、このような投稿を目にする度に、精神的に疲労してしまうのである。

言論統制という状態は反対であるが、思いやりがない投稿というのも反対である。

もう、40年も経ってしまったのですものね・・・・・・。

2024-06-22 21:54:51 | 日記
2週間くらい前。頭の中で突然、和田加奈子さんの「ジェニーナ」が流れた。

一度脳内再生されると、何度も再生される。しかし、脳内再生では歌詞がぼやけている個所がいくつかあった。

これは気になる。

その夜。YouTubeで検索し「ジェニーナ」を改めて聴く。「嗚呼、懐かしい」と気持ちが零れる。
しかし、YouTubeで検索をかけると必ず「あなたにおすすめ」が出てくる。和田加奈子さんの「ジェニーナ」は「気まぐれオレンジロード」の劇中に使われた曲なので、アルゴリズムさんは「気まぐれオレンジロード」関連を次から次へとおすすめする。
誘惑にかられ、オレンジロードのOPとEDを聴いてしまった。
不思議と今でも口ずさめるが、ストーリーはもうほとんど思い出す事が出来ない。

今でもファンの方がいて、(現在は世界中にいるのですね)DVD―BOXをお持ちの方が、いい場面だけをショートで繋げてUPされてくれているので、どれどれと、再生してみる。

懐かしさが込み上げてくる。こんな場面あったっけと考えるも、その前後の内容が思い出せない。
すると、気まぐれオレンジロード40周年記念イベントが行われているという動画もあった。
ネットの画面を切り替え、検索すると、現在は大阪で行われている事が分かった。

大阪難波なら近鉄特急で2時間。余裕で行ける。しかし、いまさら観に行ったところでどうにもならないとも分かっている。
しかし・・・・・・。

3日間悩み、重い腰を上げる。

週末アーバンライナーに乗り込み大阪難波を目指す。

幾つものトンネルを抜け山間を縫うように走る列車は、いつの間にか大都会へと進み地下に潜ると終点難波駅に到着した。

大阪はアクセスもそれほど悪くはないが、なぜか足が伸びない。まだ5回位しか訪れていないので、方向もよくわからない。とりあえずスマホを取り出しナビに頼る。本当に心強い。

ナビの言いなりになりながら、人混みの中を歩き地上に出て「なんばマルイ」を目指す。
あちこちから外国語が聞こえる人並みに飲まれそうになりながら5分くらい歩く。なんとか到着。足取りも軽く会場を目指し五階へ。

会場は小さなスペースではあるが、同世代位のお客さんの姿も見える。ひとまず安心。
当日のチケットを買い、いざ。

入り口付近のポスターのみが撮影OKなので、写真に収めておく。
檜山ひかるの声優さん、原えりこさんのサインが入っていた。

彼女のメッセージに思わず胸が痛くなる。

展示されている絵をじっくりと見てゆく。ああ懐かしい。思わずため息が漏れる。
まつもと泉さんが描かれたオレンジロードの第一話の原画も展示されていて思わず読み込んでしまう。原作はほとんど読まなかったのであるが、それでもこうやって時を経て読むと感慨深い。

その後、高田明美さんの描いた鮎川まどかが続く。高田明美さんの引く線はとても好きで、その気持ちは今でも変わらない。こんな風に描けたらなって何度思った事だろう。
LDやVHSの展示もあって時代を感じさせる。そうね。40周年だものね・・・・・・。

いつだったか、どこだったかで観た絵の実物が目の前にある。じっくり見てこんな風に描かれていたのかと感心。

一度会場を出てしまっては戻れないので、再び引き返し、4往復。そのおかけで気づきもあった。

まず一つは、40周年記念に描いた「鮎川まどか」が一番中学三年生の女の子らしかった事である。線の引き方が全体的に柔らかいのである。高田明美さんは、意図的にそう描かれたのであろうか。本人に出会えたら質問してみたいなぁ。

そして、背景の設定も4枚展示されていたのであるが、余白の部分「小林」の印が押されていたのを見つけた。
何を隠そう、この展示会で一番感動したのはこの「小林」の印である。

会場を出て物販スペースでしばし物色。お金持ちなら高田明美さんの版画作品を購入するところであるが、持ち合わせも無いし、もう、あの日は戻らないと分かっているので、設定資料集のみを購入。

会場を去る際に、会場の正面をふと見ると、近々、高田明美さんのサイン会が予定されていて、チケットはすでに完売とのこと。
う~ん。これは惜しい。実に惜しい。ずっと好きだった絵描きさんに会えるチャンスがあったというのに・・・・・・。

しかし、これでいいのである。時間は巻き戻せないし、「気まぐれオレンジロード」を超えるラブコメ作品はいくつも誕生しているのだから・・・・・・。と自分に言い聞かす。

この文章を書いた後、オレンジロードをウィキってみたところ、この歳になって衝撃の事実を知る。

映画「あの日に帰りたい」は、この地区では上映されなかったので、近くのレンタルショップで予約してVHSを購入したのであるが、凄く楽しみにしていたのに、内容は凄くしんどく、確かに物語の落としどころはそこしかないというのは理解できたけれど、2回観て、粗大ごみに出してしまって、そのおかげで「気まぐれオレンジロード沼」から抜け出せたのであるが、あの作品はまつもと泉さんの許可を得ずに進んでいて、監督の望月智充さんもそれを知らなかったというのである。

40年目にして・・・・・・、それはないぜ。

この世界はSFだった。

2024-06-16 18:57:58 | 日記
数年ぶりに「バーミヤン」へ。

席まで店員さんに案内され、席に着く。注文は席に設置してあるタブレットでと案内。
いつの間にか当たり前になったタブレット端末での注文。アナログ世代なので、まずは神のメニュー表を一覧する。そして若干手間取るも、何とか注文し終えご飯を待つ。

店内はお昼を過ぎていて少し空いている。隣の席は小さな子供連れの夫婦。お母さんが子供を抱いてあやしている。
ほほえましい情景に思わずほっこりする。
カバンからスマホを取り出したが、もう一度しまい直して忘れかけていた風景をぼんやりと窓から眺める。

ずいぶん変わったなとしみじみ。

暫くすると猫風のロボットが近づいてきて、注文したラーメンと餃子を持ってきた。
このシステムに遭遇するのも初めてである。
恐る恐る猫の棚からラーメンと餃子を取り出すと、くるりと向きを変えて、来た通路を緩やかに戻っていった。
途中、狭い通路でお客さんと鉢合わせした。どうなる事かと思ってみていたら、一旦停止し、お客さんが道を譲ると、再び移動し始めた。
驚くべきハイテクである。

そして、ふと思った。

これは少年時代に夢見たSFだなと。そして、こんな光景が見られる日が来るとは思わなかったなと。

隣の席のお母さんが抱きしめている子供はどんな未来が待っているのだろうか。
できるなら、今よりも幸せな未来が訪れることを祈るばかりである。

「書いてはいけない」を読み終えて・・・。

2024-05-08 18:21:46 | 日記
森永卓郎さんの著書「書いてはいけない」を読み終える。

これまで幾人の人が日航123便の事故について語っていているのに、なぜこの問題提起について取り上げないのだろうかと不思議に感じていた。
時頼、テレビでこの問題を取り上げた再現VTRを観てみたが、話の食い違いが著しく、なぜこのような乖離が起こっているのだろうと疑問に思った。

しかし、森永さんの「書いてはいけない」を読み、色々腑に落ちる。
そして、個人的に深読みをしてみる。

そもそも、大蔵省は敗戦後、GHQからの組織解体を「連合国の協力者」として振る舞う事で解体されずに済んでいる。
つまり、財務省という組織は敗戦後からアメリカ合衆国の「日本州」の行政機関として存在していると捉える事が出来る機関であると思う。

また、「書いてはいけない」の中で、財務省の中で、増税すると「勝ち」で、減税すると「負け」になるという記述から考えて、その勝ち負けを査定する人物は外部に存在するということにならないだろうか。
そして、その存在は、総理大臣でもなく総理大臣を倒しに来る財務省にも存在しないという事でもある。

したがって、総理大臣というポストは、表向き国民と国会議員の支持を得て決まるものであるが、上記のことが事実であるなら、財務省の承認を受けることで初めて、その権力を行使できるようになる。しかし、財務省の承認を受けるということが前提であったとしたら、重要な案件はアメリカ議会の意向を丸呑みするしか選択肢はない。

これまで、日本の歴代の首相はアメリカの大統領との仲の良い姿が報じ続けられていて、その度に日本の首相ってすごい人なんだ。うまく外交を進めてくれているのだと思っていたが、それは、情報操作でそのように思わされていただけなのかもしれない。

戦争で焼野原になった街を復興し、アメリカさんからあたえられた民主主義を享受し、国民の生活は豊かになり、大きく経済発展を遂げたけれど、原則として主人には逆らってはいけない立場だったのであろう。

戦争で物理的に焼野原になった日本は、次は経済的に焼野原にされてしまうのかもしれない。

こんな妄想など、大外れしていてほしい。



憲法記念日。

2024-05-04 20:36:29 | 日記
今朝の新聞に改憲派と護憲派の集会があったことが報じられていた。
記事を読んでみると、どちらの言い分も一理ありと思い、問題の主となっている緊急事態条項の新設について個人的に考えてみることにした。

緊急事態条項が憲法に加えられると、戦争や恐慌、大きな災害などの緊急事態が発生した際に、政府の権限を越える権限を内閣や内閣総理大臣に一時的に付与され、政府の対策を迅速に行い社会の緊急事態に対応する事が出来るようになります。

しかし、そのことによって、政府に大きな権力が集中し、政府の権力濫用の危険性が高まります。
最悪の場合、私たち国民は権力を行使する人々の倫理観を信じるしかないという状況に陥ります。

もし、日本という国が大国に対して忖度しなくてもよい主権国家であるならば、あらゆる物事が進んでしまった現代に対応するべく、憲法改正も必要なのかなという思いはある。

しかしながら、日本は敗戦国であり、戦勝国が意図的に作った西側の大国との「緩衝地帯的存在」でもあるから、緊急事態条項が設けられたとしても、その利用方法は戦勝国の意に従わなければならない。

もし、日本が戦後からそのような状態であり続けているのだとしたら、緊急事態宣言が発令された際に、本当に国民の利益を護る事が出来るのか疑問に思う。

したがって、アメリカ政府の利益の為に緊急事態宣言が発令されてしまう危険性がぬぐえないうちは、改憲しなくてよいのではという考え方もありなのではと思う。





与党の選挙対策委員会の考えはどうでしょう?

2024-05-03 20:12:49 | 日記
経団連会長の十倉さんが、「なぜ首相の支持率が上がらないのか分からない」というようなコメントを出されていた。

世論と感じ方が乖離しているなぁと思い、暇に任せていろいろ考えてみる。

そして、そこで思い浮かんだ根拠のない考えを、個人的にすっきりさせたいのでだらだらと述べておきたい。

戦後以降、農業などの第一次産業に支えられていた市町村の各町には土建屋さんがあった。
小さな農村の土建屋さんは農村の公共事業を担っていて、米作りに関わる、水路、河川、耕地整理も引き受けていた。小さな農村での産業の主が米作りであるから土建屋さんとは共同体であった。
そして、作られたお米はすべて農協に収めていたので、農協さんとも共同体であった。

土建屋さんは公共事業をいただくために、農協さんは農業を守るために、選挙が行われる度に与党である自民党を推した。米作りを主とする小さな農村に暮らす人々は、ほぼその意向に従った。それが共同体を維持する一つの手段でもあった。

しかし、時代は変わり、離農者は増え続け、土建屋さんや農協とも縁遠くなった。
そして、これまで無条件に自民党を支持してきた人たちも鬼籍に入り始めた。

その代わりに会社勤めの人が増え、会社員の人は組合や会社の推す議員さんへ、選挙に興味のない人は投票を放棄し、選挙に興味のある人は自由意志で票を投じるようになった。

また、都市でなどで大きなビルや公共の工事現場を見ると、海外の労働者を見かける事が多くなったように思う。
おそらく彼らには投票権がない。

これは点のみの視点であるが、もし、同じような状況が日本中で起こっていたとしたらどうだろう。それだけでも、かなりの票数にならないだろうか。
そして、この事象は戦後から自民党をけん引してきた人々の意思が引き継がれずに断絶し始めているといえるのではないか。

だとすれば、支持率が上がらないのは、共同体を壊してしまった、資本主義と新自由主義が生み出した一つの事象といえるのではないだろうか。

古代ローマ時代の詩人ユウェナリスが当時のローマ社会を批判したように、「パンとサーカス」を与えられることによって人々の多くは政治的無関心になりはしたが、それと同時に戦後、世の中をよくしようと熱心に自民党を支持してきた人々もこの世から去りだしたのであるから、そこを見落としてしまっていると、十倉さんのような乖離が生まれてしまうのではないかと思った。

この推論、どうでしょう?