硝子戸の外へ。

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介護の日に想いを寄せて。

2016-11-11 16:10:59 | 日記
介護という仕事に従事している者の一人として、日頃から考えてきたことを文章にまとめ、綴っておこうと思います。
このテーマは何度も述べてきたことなので、重複する部分も多いとは思いますが。しばしのお付き合いよろしくお願いします。

現在、介護現場ではどこの施設も職員不足に陥っています。そして、これも幾度となく述べてきましたが、職員さんにその理由を尋ねると、多くの人達が「賃金が低いから」と言います。

賃金が低いから人手不足に陥る。確かにその一面もあるかもしれません。しかし、本当に賃金の低さにより、生活が困窮するという理由を抱えている人たちは介護という仕事に見切りをつけてゆきますが、多くの人は殆ど対価の変わらない他の施設へ移ってゆくのです。その反面、一つの施設に留まり「賃金が安い」と主張を繰り返す人たちほど、離職理由の高さを「賃金」に追及しています。

しかし、退職してゆく人にこっそりと理由を聞くと、特に女性は人間関係であると答える人が多く、その際に留まる側からも「あの人はここにはあわなかったね」という意見を聞くことができるのだけれど、それ以上に問題を追及しようとせず、賃金問題に執着します。

介護という仕事のモチベーションを保つ為には、従事者の心が満たされる事が重要課題になり、その課題を満たすには、私の働きが他者から感謝され、他を利する行いが自己の存在を肯定する事で充足されるものなので、他を利する働きを主とする人はあまり賃金に固執しません。其の反面、利己的な人は他者の気持ちを顧みようとしません。

一方では他者から存在を認められたくて、要求に対して誠実に対応しようとし、一方では、他者は私に従わなければならないと思う人たちが、強力な統制力を持つ社会以外で共存し続けられるものでしょうか。
他を思いやろうとする人たちは、次第に疑問を抱き、理不尽さに苦しみ、労働のパフォーマンスが低下してゆきます。それに反し、利己的に振舞う人たちは、利己的であるが故に、パフォーマンスが落ちた者をサボるなと叱責しますが、前者がいなくなると、不平不満の矛先を他者や社会に求める傾向が強く、

「私が大変な目にあっているのは、誰かが悪いのだ」と考えるのです。

「私が大変な目にあっているのは、誰かが悪いのだ」という主張を肯定してくれる場というのは、自身が構築した家庭位しか考えられませんが、家庭ではない社会で、家庭と変わらない振る舞いをするので、他者はその振る舞いを疎ましく思います。しかし、そういう人に限って、疎ましく思われている事に気がづきません。

それでも、私のわがままを肯定してくれるコミニュティを形成したいなら、その人が家長となる仮想家庭を社会で作り出さねばならないと思うのです。

しかし、仮想家庭社会というコミニュティは、同じ価値観を共有する者や恋愛関係のような関係性を築く事で、一時的には成立する構造であるかもしれませんが、時間が未来に向けて流れている以上、人の価値観や気持ちも移り変わってゆくものであるから、ひずみが生じることは避けられません。

また、学生生活を終え社会に出てきた若者が、仮想家庭環境という組織に対面した時、家長が若者の家庭のように自身を認めてくれる人達ならば、疑問を抱くことなく組織になじんで行けるであろうと考えるのは、仮想家庭社会の魅力がそこにあるからだと思うのですが、逆に、実の子のように、主観的に他者を批判し、言い返せない状況を作り出してしまえば仮想家庭社会は魅力を失います。

可視化されたヒエラルキー構造社会で、向上したいという意志を持っているならば、そこに到達する目標が明確になっているから、到達する為には忍耐も必要であろうと考えられるけれども、介護現場はフラットな共産主義的構造を持ち、家事の延長上的な働きが労働の基礎にある以上、仮想家庭の人達からの向上意欲や労働意欲を奪う理不尽は言動は、「働きに来てんのに、なんで身内から言われるようなことを言われなきゃいけなんだろうか」と思わせるのではないかと考えます。
大人が大人である事だけで、他者を批判する事はある意味特権かも知れません。しかし、向上する努力を怠り、自己利益に拘泥し、何かに依存しなければならない立場に陥ると、人は成長しようとする意欲を失います。成長の意欲を失った大人を若者たちは尊敬してくれるでしょうか。

尊敬される大人になる事や仮想家庭社会を維持することも、親戚や(中途採用者)子供の(新卒者)面倒を「しょうがねえなぁ」といいながらも、引き受け、肯定し、受容しなければなりません。したがって、仮想家長、若しくは仮想配偶者が、同調圧力をかけたり、他者を否定する事でしか自己肯定できない狭量な人であれば、仮想家庭社会は成立しないでしょう。なぜなら、そのような人が家長であったなら、異を唱える人に対しては、仮想家庭社会を維持するよりも、ムラ社会の一面が大きくなり、異を唱える者を排除しようとしますが、逆に、見放さず、根気よく面倒を見てくれた人にこそ恩義や尊敬が生まれ、プライスレスな関係が築かれることにより持続可能な仮想家庭社会が育まれると思うのです。

だから、若者たちは仮想家庭の尊敬に値しない大人に失望し、早々に見切りをつけ「家出」、つまり退職してゆくと思うのですが、介護職という枠に留まっている間は、どこの施設も同じような問題を抱えているので、施設を移っても同じような体験を繰り返してゆくしかないのではと思うのです。

最後に、経済活動という観点から考えてみたいと思います。
社会的弱者を社会福祉によって擁護する事は、言葉を換えれば、対価を生まないものを国力でいかに擁護するかという問いになります。
資本家の立場から考えると、現在国が抱えている借金は、国民一人当たり、1千万円を超えていることから、財源の確保もままならない事業を展開する事への投資はリスクが高いと考えるでしょう。
それでも、事業を展開し利益を出そうとするならば、固定された下流層を安い賃金で雇い、労働させることにより事業展開させることが最短な手法であるけれど、強者が弱者を統制する事に変わりがないので、現場から構造を再構築することは難しいと考えられます。
したがって、問題が山積している今の形が一番ベターであると考えられますが、肥大した介護事業を継続するには、パスを出す相手を速やかに変更し、(機械や外国人労働者に)流れを変えて需要と供給のバランスを保つか、規模を縮小し介護保険導入前の制度に戻すか、これは私達の問題であるので、先延ばしした問題の付けは、私達が未来でどんな災厄も引き受けるのだと覚悟を決めておかなければ、未来の若い納税者が納得しないだろうと思うのです。

そして、未来の可能性として、科学が飛躍的に向上し、人々の健康の維持や若返りが可能になったり、法によって自死が認められたならば、社会福祉に頼ることなく、人生を自身の意志で終わらせることや、余暇は自力で楽しめるようになるので、クライエントは今よりも減少するでしょう。それに伴い、事業の縮小も避けられないだろうと思われるので、自身の権利を最大化する事や、制度にあわす事に躍起になっていては、事の本質を見誤るので、もう一度、一期一会という考え方に重きを置いて介護という仕事を考えてゆかないと、介護職員として後悔する日がやってくるのではと思うのです。