「もう筍が上がったで、採りにいこか」と母が言った。よく晴れた午後、軽トラックに乗り近くの山へ上がる。過疎の進む農村に住む僕が向かう山は、無論固定資産税を払い続けている我が山。こういうと驚かれる方もいらっしゃるかもしれないけれど、どんなに小さい山も大概個人が所有している山なのです。
僕の場合は祖父や曽祖父が「末代まで苦労しないように」と、苦労して少しづつお金を貯めて購入した山をそのまま受けついでいるわけなのですが、苦労して植えた苗木も手入れをしない為に枝も伸び放題。また年に数回しか山に入らないので、山に入るたびに「このままでよいのだろうか」と考えてしまう。
山に到着し竹の生えているあたりの地面をじっくり観察してゆくと、枯草の間からひょっこりと筍の芽が出ていて、筍採り用の鍬で筍の周りを掘り、折れないようにじっくりと掘り起こしてゆく。
折れずに採れると、顔が思わずほころぶ。
ところが、よく見ていると、筍が上がっている周りに、ジュースの缶やペットボトル、お菓子の袋などが捨ててあった。
所有者以外の人が山に入るのは、断りもなく人の家に上がり込むのと同じ事になるのとも思うのですが、何分にも自然の一部であるので個人の所有物とは認識しにくいとも思う。
竹はどんどん生えてくるので採って頂くのもさほど問題はありません。
でも、ゴミはどうでしょう。山奥であるから、一目にも付きにくいからさほど問題はない、と考えられるかもしれませんが、それでは、他者の家の庭やベランダにごみを棄てても問題にはならないでしょうか。
人目に付くか、付かないかを判断基準にしても良いのでしょうか。
車に乗って過疎地域の山までわざわざ筍を採りに来る人というのは、いい大人であろうと考えられます。
大人が、大切ななにか欠落させていては、子供たちから蔑まれるだけであるし、それでは、どんなに正論を語ろうとも良い世の中なんて構築できないと思うのです。
僕の場合は祖父や曽祖父が「末代まで苦労しないように」と、苦労して少しづつお金を貯めて購入した山をそのまま受けついでいるわけなのですが、苦労して植えた苗木も手入れをしない為に枝も伸び放題。また年に数回しか山に入らないので、山に入るたびに「このままでよいのだろうか」と考えてしまう。
山に到着し竹の生えているあたりの地面をじっくり観察してゆくと、枯草の間からひょっこりと筍の芽が出ていて、筍採り用の鍬で筍の周りを掘り、折れないようにじっくりと掘り起こしてゆく。
折れずに採れると、顔が思わずほころぶ。
ところが、よく見ていると、筍が上がっている周りに、ジュースの缶やペットボトル、お菓子の袋などが捨ててあった。
所有者以外の人が山に入るのは、断りもなく人の家に上がり込むのと同じ事になるのとも思うのですが、何分にも自然の一部であるので個人の所有物とは認識しにくいとも思う。
竹はどんどん生えてくるので採って頂くのもさほど問題はありません。
でも、ゴミはどうでしょう。山奥であるから、一目にも付きにくいからさほど問題はない、と考えられるかもしれませんが、それでは、他者の家の庭やベランダにごみを棄てても問題にはならないでしょうか。
人目に付くか、付かないかを判断基準にしても良いのでしょうか。
車に乗って過疎地域の山までわざわざ筍を採りに来る人というのは、いい大人であろうと考えられます。
大人が、大切ななにか欠落させていては、子供たちから蔑まれるだけであるし、それでは、どんなに正論を語ろうとも良い世の中なんて構築できないと思うのです。