朝刊に「やまゆり園事件」を起こした被告が新聞社にあてた手紙についての記事が掲載されていて、時間を掛けてじっくり読んでみたところ、たいへん複雑な気持ちになりました。
「意思疎通のとれない人は安楽死させるべきだと思っております」と考える被告は、その定義を「正確に自己紹介をすることが出来る人」だとしていました。
これだと、極端に人見知りの人やあがり症の人も含まれてしまうので、被告の思考の浅さを窺い知ることが出来ます。その事から、彼の極端な思考性や視野の狭さ、社会は多様性に富んでいる事から目を逸らしたのかが分かります。
しかし、どこかで被告の考えも肯定される部分があるのではという思いも捨てきれません。
それは、先ほど「ハートネットTV」を観ていたのですが、その中に「生産性」というワードが出てきて正直ぞっとしたからです。「生産性」それは、福祉用語ではなく「経済用語」なので、違和感があります。「福祉」と「経済」結びつかないわけでもないけれど、ユーザーのニーズが明らかに違います。
たしかに、経済から見れば「消費するだけで何も生み出さない」のだから、「いらない」となってしまうのでしょう。そこで「少しでも生産性を上げる」為に、つまり「労働力のある人を家庭に留まらせておかない」ことを社会福祉が担うという一面もあるのです。
それでも、「損失を上回るリターン」は見込めないから、大きな投資も出来ないということになります。したがって行政は「社会福祉への投資は最小限に留める」という判断をすることになってしまいます。といっても無視するわけにはいきませんので、行政は、国民が政治を大きく変えてゆくほど不満が出ない程度の不満を懐かせ続けてゆくというバランスを取り続けてゆくのではと考えます。
これが経済的な考え方なのではと思います。
でも、よく考えなければならないのは、経済と尊厳は別の所にあるという事です。
まず、尊厳とは、人はなぜ生まれてくるのか。なぜ人は死ななければならないのか。なぜ人は、多様な言葉や肌の色を保有しているのか。という問いに対して、きちんと答えねばなりません。
経済とは、貨幣とは何か。生産とは何か。富と貧困とは何か。政治とは何か。社会とは何か。過程とは何か。という問いについてきちんと答えねばなりません。
つまり、人生とは、生きる理由とは、幸福とは、という問いはまた別の所にあるということになります。だからこの要因を一括りにして正論を導き出すというのは、誰もできないと思われるのです。
ただ、法治国家であるので、殺人はもってのほかであり、憲法第13条では、すべての国民は、個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とするとされ、憲法第25条では、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。と示されています。
しかし、数学者の岡潔さんが、「矛盾がないと説得する為には感情が納得しなければ駄目なんで、知性が説得しても無理なんです」「ともかく知性や意思は、感情を納得させる力がない」「人間というものは感情が納得しなければ,本当に納得しないという存在らしいのです」と、言われているように、人が感情を有する以上、緩やかに上下しながら価値観が激変する地点まで、(戦争が起これば弱者の尊厳など皆無になってしまいます。また、医療や科学が進歩しポストヒューマンが生み出されれば障害は無になるでしょう)人々はそれぞれの価値観の中でそれぞれの答えを求めて考えてゆくのではないかと思います。
無い知恵を絞りだし言葉をこねくり回してみましたが、ざっくり言うと、僕たちは、愛がなんであるか分からない存在なのではないかと思う。
「意思疎通のとれない人は安楽死させるべきだと思っております」と考える被告は、その定義を「正確に自己紹介をすることが出来る人」だとしていました。
これだと、極端に人見知りの人やあがり症の人も含まれてしまうので、被告の思考の浅さを窺い知ることが出来ます。その事から、彼の極端な思考性や視野の狭さ、社会は多様性に富んでいる事から目を逸らしたのかが分かります。
しかし、どこかで被告の考えも肯定される部分があるのではという思いも捨てきれません。
それは、先ほど「ハートネットTV」を観ていたのですが、その中に「生産性」というワードが出てきて正直ぞっとしたからです。「生産性」それは、福祉用語ではなく「経済用語」なので、違和感があります。「福祉」と「経済」結びつかないわけでもないけれど、ユーザーのニーズが明らかに違います。
たしかに、経済から見れば「消費するだけで何も生み出さない」のだから、「いらない」となってしまうのでしょう。そこで「少しでも生産性を上げる」為に、つまり「労働力のある人を家庭に留まらせておかない」ことを社会福祉が担うという一面もあるのです。
それでも、「損失を上回るリターン」は見込めないから、大きな投資も出来ないということになります。したがって行政は「社会福祉への投資は最小限に留める」という判断をすることになってしまいます。といっても無視するわけにはいきませんので、行政は、国民が政治を大きく変えてゆくほど不満が出ない程度の不満を懐かせ続けてゆくというバランスを取り続けてゆくのではと考えます。
これが経済的な考え方なのではと思います。
でも、よく考えなければならないのは、経済と尊厳は別の所にあるという事です。
まず、尊厳とは、人はなぜ生まれてくるのか。なぜ人は死ななければならないのか。なぜ人は、多様な言葉や肌の色を保有しているのか。という問いに対して、きちんと答えねばなりません。
経済とは、貨幣とは何か。生産とは何か。富と貧困とは何か。政治とは何か。社会とは何か。過程とは何か。という問いについてきちんと答えねばなりません。
つまり、人生とは、生きる理由とは、幸福とは、という問いはまた別の所にあるということになります。だからこの要因を一括りにして正論を導き出すというのは、誰もできないと思われるのです。
ただ、法治国家であるので、殺人はもってのほかであり、憲法第13条では、すべての国民は、個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とするとされ、憲法第25条では、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。と示されています。
しかし、数学者の岡潔さんが、「矛盾がないと説得する為には感情が納得しなければ駄目なんで、知性が説得しても無理なんです」「ともかく知性や意思は、感情を納得させる力がない」「人間というものは感情が納得しなければ,本当に納得しないという存在らしいのです」と、言われているように、人が感情を有する以上、緩やかに上下しながら価値観が激変する地点まで、(戦争が起これば弱者の尊厳など皆無になってしまいます。また、医療や科学が進歩しポストヒューマンが生み出されれば障害は無になるでしょう)人々はそれぞれの価値観の中でそれぞれの答えを求めて考えてゆくのではないかと思います。
無い知恵を絞りだし言葉をこねくり回してみましたが、ざっくり言うと、僕たちは、愛がなんであるか分からない存在なのではないかと思う。