硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

信じる者は救われるのか。

2018-01-21 16:01:25 | 日記
オウム真理教による一連の裁判が終わった事が新聞で報じられていた。でも、亡くなった人は帰ってはこないし、重い後遺症を抱えている人もいて、「すべてが終わった」という訳ではなく、23年という月日を経て、新しい信者、事件を知らない若い人が年々増加しているそうです。

しかし、ネットにつながれば固定された情報が溢れかえっているのに、なぜ人は盲目になれるのでしょうか。奇跡を見せることが出来なかった人にどうして惹かれてしまうのでしょう。
布教をする人々の言葉には、どんな力があるのでしょう。
神や仏の伝説的な言葉を独自に解釈したものが、普遍であるとなぜいいきれるのでしょうか。
たしかに日々起こる理不尽な事件や災害を目の当たりにし、こんな世の中があっていいのだろうかと思うし、個人レベルでも、どうして人はこうも自分本位なのだろうかとは思う所もあります。
だから、世間と「私」の間に壁を作り、「私」と同じ価値観を共有できるコミニュティーで、神や仏の言葉を根底に置いた言葉を信じ、争いのない世界で生きてゆくことはたしかに神を喜ばせる行為と信じれるかもしれません。しかし、それが本当に正しい人生の過ごし方なのでしょうか。
僕は懐疑主義者かもしれないけれど、神や御仏が共に歩んでくださっていると思うならば、むやみに人を傷つける事を許してくれるとは思えないし、教祖は神でも仏でもないから、教祖の解釈の入った言葉を厳格に信じて生きることで幸福になれるとも思い難いのです。
そして、親に依存するしか術のない現世と遮断されたその2世達の現世とのギャップによる苦しみを想像すると、はたしてそれが本当に正しいのかという疑問を払拭できないのです。

多様性を否定するつもりはありませんが、多様性を認められた世の中だからこそ信仰できるのだから、個人の幸福というのも多様性に満ちているのだという解釈には至らないのでしょうか。

人の気持ちは複雑です。「愛」は混乱を招くものかもしれません。でも、思いやりがなくなってしまえば、人命を奪う事に何も感じなくなってしまうかもしれません。
その世界は本当に素晴らしい世の中なのでしょうか。

(おおっ、まるでヤマト2202のガトランティスのようだ。)