今日もまた、児童虐待のニュースが流れていた。この手のニュースを聞くたびに、どうしてなんだろうと考えてしまう。
子供を作ることを諦めてしまった僕に、子育てに対して意見する事は間違っているとは思うけれど、子供たちの訴えた声を想像すると胸が痛む。
どうして、我が子を愛せなかったのか。誰もがそう思う。しかし、こう考えた。
時頼、動物でも子供を放棄してしまう事がみられるのだから、「愛情が希薄」なのは、少数ではあるが「生き物としての根源的な感性」の一つであると言えないでしょうか。
ただ、人は法に則って生きているという、特殊な生き物であるから、その行動が「はみ出して」見えてしまうのかもしれません。
もちろん、貧困であった、教育を受けていない、両親から愛情を注がれなかった、他者から迫害され続けていた、核家族化で間違いを正す人が傍にいない、というような環境が人格を形成したともいえるけれども、隣人の普通の生活を送っていた青年が、ある日突然「猟奇的な殺人者」だったという事実を知るという事件から考えると、多様性社会とは、そういった感性の持ち主も「いる」のだということを、もう少し認識することが必要なのでしょう。
思いやりのない人が増えた。と、言えるかもしれません。これも「時代がすること」かもしれません。それは、行き過ぎた豊かさが原因かもしれません。でも、豊かさの為に、犠牲になる人がいるのは、いつの時代も同じなので、これが現代人による、現代人が抱えなければならない問題なのでしょう。
したがって、国が法で縛りを利かせても、法を破れば身の危機がすぐ傍にあるといった状況に置いておかれないと、すべての個人の危険な衝動や欲望を止める事は出来ないのではないかと思うのです。
愛とは、幻想や物語、虚偽の言葉でしか存在し得ない物なのであろうか。
子供を作ることを諦めてしまった僕に、子育てに対して意見する事は間違っているとは思うけれど、子供たちの訴えた声を想像すると胸が痛む。
どうして、我が子を愛せなかったのか。誰もがそう思う。しかし、こう考えた。
時頼、動物でも子供を放棄してしまう事がみられるのだから、「愛情が希薄」なのは、少数ではあるが「生き物としての根源的な感性」の一つであると言えないでしょうか。
ただ、人は法に則って生きているという、特殊な生き物であるから、その行動が「はみ出して」見えてしまうのかもしれません。
もちろん、貧困であった、教育を受けていない、両親から愛情を注がれなかった、他者から迫害され続けていた、核家族化で間違いを正す人が傍にいない、というような環境が人格を形成したともいえるけれども、隣人の普通の生活を送っていた青年が、ある日突然「猟奇的な殺人者」だったという事実を知るという事件から考えると、多様性社会とは、そういった感性の持ち主も「いる」のだということを、もう少し認識することが必要なのでしょう。
思いやりのない人が増えた。と、言えるかもしれません。これも「時代がすること」かもしれません。それは、行き過ぎた豊かさが原因かもしれません。でも、豊かさの為に、犠牲になる人がいるのは、いつの時代も同じなので、これが現代人による、現代人が抱えなければならない問題なのでしょう。
したがって、国が法で縛りを利かせても、法を破れば身の危機がすぐ傍にあるといった状況に置いておかれないと、すべての個人の危険な衝動や欲望を止める事は出来ないのではないかと思うのです。
愛とは、幻想や物語、虚偽の言葉でしか存在し得ない物なのであろうか。