先月、父の百箇日の法要がありました。
百箇日の法要の事を『卒哭忌(そっこくき)』とも言い、
『哭』 声を上げて泣き叫ぶ
『卒』 終わる
文字の通り、故人を思い、泣き悲しんでいた近親者たちも、泣くことをやめる頃…
という意味合いがあるそうです。
父が亡くなって以降、
残された母が、ガックリ心を落とし、病状が進んだ事で、
私も弟達も、心の休まらぬ百日間でした。
父が元気にいた頃、
自分勝手で、空気の読めない父の事が、
私は、キライでキライで仕方なく、
まともに会話した事もありませんでした。
でも、不思議ですね。
父は死んで、私の心の中では、なぜか悪い人から良い人に変化しました(お、遅い)
自分勝手でも、空気読めなくても、もう一度、母の元へ帰ってきてくれないかな…と、無理な事を願っていました。
嘆く私に、
お寺の住職さんがおっしゃいました。
『私は、人生は二回あると思っています。
一回目は、現世に生まれてから亡くなるまでの人生。
二回目は、亡くなってからも、皆の心の中で生き続ける人生。』
父の事を知り、思い、偲んで下さる人がこの世に存在する限り、父の二回目の人生は続くんだそうです。
今、私のスマホの壁紙はすべて父の写真です
これだけ娘に思ってもらって、二回目の人生も捨てたもんやないなぁ…と、
ジャイアンツのキャップをかぶった父が今日もスマホの画面でニッコリ微笑んでいます。
百箇日の法要の事を『卒哭忌(そっこくき)』とも言い、
『哭』 声を上げて泣き叫ぶ
『卒』 終わる
文字の通り、故人を思い、泣き悲しんでいた近親者たちも、泣くことをやめる頃…
という意味合いがあるそうです。
父が亡くなって以降、
残された母が、ガックリ心を落とし、病状が進んだ事で、
私も弟達も、心の休まらぬ百日間でした。
父が元気にいた頃、
自分勝手で、空気の読めない父の事が、
私は、キライでキライで仕方なく、
まともに会話した事もありませんでした。
でも、不思議ですね。
父は死んで、私の心の中では、なぜか悪い人から良い人に変化しました(お、遅い)
自分勝手でも、空気読めなくても、もう一度、母の元へ帰ってきてくれないかな…と、無理な事を願っていました。
嘆く私に、
お寺の住職さんがおっしゃいました。
『私は、人生は二回あると思っています。
一回目は、現世に生まれてから亡くなるまでの人生。
二回目は、亡くなってからも、皆の心の中で生き続ける人生。』
父の事を知り、思い、偲んで下さる人がこの世に存在する限り、父の二回目の人生は続くんだそうです。
今、私のスマホの壁紙はすべて父の写真です
これだけ娘に思ってもらって、二回目の人生も捨てたもんやないなぁ…と、
ジャイアンツのキャップをかぶった父が今日もスマホの画面でニッコリ微笑んでいます。