今日一日だけ生きてみよう

卯月タラの日々のつぶやき

受け止められたい。

2009-01-21 18:14:07 | タラの日記

ようこそ、卯月です。
ヘルパーさんとお掃除をして、お茶飲みながら少しお喋りして、帰ったあと早めの夕ご飯を食べて(卵雑炊と干物。買い物に行かなかったので何もないのだ)、ようやくひと休み。
もう少ししたら、仕事をしようと思ってる。

今日もやっぱりちょっと寂しい。
誰かに受け止めてもらいたい、その誰かが誰なんだかわからない、という状態で。
誰でもいいわけじゃない。でも誰?
それは、亡くなった父のようでもある。
不思議と、夫のような気はしない。

夫が生きていたら、今の私を見て何と言うだろう。よくやっているね、と言うだろうか。
45歳で亡くなった夫。今にして思えば、まだまだ若かったのだ。
いろんなことを、もっとおおらかに見てあげればよかった。
もっと広い心で接してあげればよかった。
私は自分のことと子どものことしか見ていなかった。私は夫に、子どものことをもっともっと肯定的に見てほしかった。見守ってほしかった。
そう、要求し続けた。
彼は私にもっと彼のことを見てほしかったのかもしれない。
私はそれに気づいていた。でも、いい大人がわがままを言っている、と私は思っていた。
私の荷物を半分持ってくれるのがあなたの役目でしょう、そのあなたが、わたしの荷物になるなんて冗談じゃない、勘弁してよ、と私は言葉では言わなかったけれど、目で、態度で、言っていたんだろう。
私は彼の背負っている荷物の大きさに目もくれなかった。
彼にも荷物があるのだということに、気づいていなかった。
ただ、父親として子どもを受け入れて見守ってやるのが当然でしょう、と求め続けた。
もっと待ってあげればよかった。
何をそんなに急いでいたのだろう。自分だけが一生懸命なんだと思っていた。

今の私を見たら、夫は私を可愛くない女だと思うだろう。
それでも私は少しはやさしくなったよ。

父に求めていたもの、子どもに愛情を注ぐという父親像、それをそのまま夫にかぶせたのだ。
父親なんだから、子どもを可愛がるのが当たり前でしょう、と私は夫に言った。父に、多分そう言いたかったのだ。
私の子どもたちが、夫に否定されることが、自分が父に否定されたことと重なってつらかったのだ。

否定的な父親ならばいないほうがいい。
私は自分の父に対して、そう思って生きてきた。
そして、子どもたちから父親を奪ってしまった。
否定的な父親ならばいないほうがい。いないほうが子どものためだ。そう信じてきた。
でも、父も夫も、父親である前に人間だったのだ。
人間としての苦悩があったはずなのだ。
それを、誰かが、身近な人が、汲んであげなくてはいけなかったのだ。
父親としての父を、夫を、私は許していない。
けれど、彼らは人間として、誰かに受け止めてもらわなくてはならなかったのだ。
なぜ夫の苦悩を、私は見過ごしたのか。

今、父が生きていたら、私は「パパ、謝ってよ」と言うだろう。
私を受け止めてくれなかったことを詫びてよ、と言うだろう。
夫が生きていたら、どうするだろう。多分、私は「ごめんね」と言うだろう。
夫が私の荷物を半分持ってくれなかったことに関して、私は彼を責めるのだろうか。諦めるのだろうか。
わからない。
私を受け止めてよ、と、私は彼には言わないだろう。
それは彼に求めるものではないのだ、多分。

姉が離婚訴訟を起こされて、調停に入っている。
夫婦ってなんだろう。彼女もそう思っているだろう。私にもわからないよ。
わからないままだよ。

とりとめのない話を長々としてしまった。
こういう日もあります。ごめんなさい。
誰かに愛されてるという確証がほしい。
そんなもの、生きてる限り手に入らないものなのだろうけれど、「生きている限りあなたを受け止める、支える」と言ってほしい。
嘘でもいいのだ。安心したら眠れる。そしたら、前に進めるのに。

明日は晴れるだろうか。
寂しい気持ちを吹き飛ばしたいけど、仕事が山のように残ってて、出かける余裕もなさそう。お金もないし。
家でウォークマン聴きながら、一日仕事かな。

ではまた明日ね。
ごきげんよう。