歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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『新古今和歌集』――恋の正体 五

2022-01-07 01:56:06 | 月鞠の会
五 恋の正体――余情、妖艶、有心

ここでは、「余情」「妖艶」「有心」について、これらの言葉を第三章で鑑賞に用いた根拠をまとめます。
第二章にも掲げましたが、定家は、『近代秀歌』において、『古今集』仮名序の作者の美意識に「余情妖艶」はないと、次のように言い切っています。

昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず。(日本古典文学全集『歌論集』「近代秀歌」)

「余情」と「妖艶」は、それぞれにどのようなものでしょう。
本稿の第三章では、『古今集』にないもので『新古今集』にあるものを、順次、「恋歌」の部に見ていきました。そうすることで、「余情妖艶」の意味に迫ることができると考えたからでした。すると、『古今集』が恋愛の進展に特化された内容であるのに対し、『新古今集』では、生身の現実より不滅の精神愛をはるかに重視することがわかりました。ですので、「余情妖艶」とは精神美をいうのだろうと理解しました。
そして『古今集』では、逢瀬の実現、結婚がゴールの現実的な価値観が明白でしたが、『新古今集』では、すべての恋は滅びの定めにあり、また恋でなく自然物であっても、生命であっても、いつかは滅びるものの美を描いていました。ここから私は、滅びの定めにあるもの、その美が「妖艶」であろうと考え、「妖艶」を描くことに成功した歌を「幽玄体」と呼ぶのだろうと考え、「余情」とは、滅びののちにも残る精神の不滅の哲学だと考えました。
第三章で、『古今集』「恋歌」の部は、「よしや世の中」と、晴れがましく明快に終わっていきますが、『新古今集』「恋歌」の部には、恋の想いを残してたゆたい、湊へ戻れなくなった舟人が描かれていることから見ても、「余情」について、このようにとらえてよいであろうと書きました。
次に、「有心」について、述べます。
石田吉貞氏が、『妖艶 定家の美』「美の諸相―死―」(塙書房)において、妖艶と有心を同一の意とする説について、次のように考察しています。

「『近代秀歌』で定家は、他の歌風を斥けて余情妖艶の風をとり、『毎月抄』では、有心にまさる風はないとしているのであるから、妖艶と有心とが、共に定家の最高とする風体であること、両者を同一のものであるとすることは、歌論上からは疑いを容れないことである。ところがその妖艶・有心同一説は、歌論書の上では肯定されるけれども、それを実証づけるものが何もない。何もないだけでなく、唯一の証拠とすべきものとして、『定家十体』のなかに有心体の例歌が四〇首ほどあるのであるが、その例歌は地味で花やかさがなく、妖艶・有心同一説を否定する証拠にはなるけれど、肯定する証拠には、いかにしてもなりえないものである。」
「妖艶というのは美の名で、したがって総名のようなもので、それを表現の姿によって分けたのが、幽玄とか有心とかいうものではないか。(中略)すなわち妖艶が分れて種々の体になるのであって、もっとも花やかなのが幽玄体、もっとも心の深いのが有心体なのではないか。」
「有心は心の深い体だと『毎月抄』でいっているのに、妖艶の深いところに何があるかを考えなかったことにあったのではないか。妖艶の深いところには死・無常などがあるはずである。」

石田氏は、妖艶と有心の分類階層について考察し、定家が美をどのようにとらえていたのかに迫りました。しかしそもそも、『定家十体』は、完成を見ていたのでしょうか。私は、『定家十体』の構想が、そうやすやすと一つ一つの和歌にあてはまるはずがないと考えています。定家の著作である『近代秀歌』と『詠歌大概』においても、異同について見ていけば、たとえば式子内親王の歌は『近代秀歌』に挙げられておらず、後年の『詠歌大概』に二首が挙げられています。歌のよしあしは、批評者その人の内部においてさえ、そのときどきで、がらりと変わってしまうものです。
分類の構想は、そもそも、品詞分類表のように明確に図式化できる項目の区別がなければ成立しません。後述しますが、「有心」体について、そのような客観的な要件を、定家が持っていたとは考えにくいのです。
「有心」の体について、さらに、『毎月抄』の文言に沿って見ていきましょう。「毎月抄」は、定家が、身分の高い初心者が送ってきた詠草に返信した実作指導の書簡です。定家は、この『毎月抄』に、歌のさまざまな体を挙げ、そのなかでも「有心体」の歌こそが歌の本意であると、次のように述べています。

もとの姿と申し候は、勘へ申し候ひし十躰の中の幽玄躰、事可然(ことしかるべき)躰、麗(うるはしき)躰、有心(うしん)躰、これらの四つにて候べし。…ただ素直にやさしき姿をまづ自在にあそばししたためて後は、長高(たけたかき)躰、見(みる)躰、面白(おもしろき)躰、有一節(ひとふしある)躰、濃(こまやかなる)躰などやうの躰はいとやすき事にて候。鬼拉(きらつ)の躰ぞたやすくまなびおほせ難う候なる。それも練磨の後はなどかよまれ侍らざらむ。

〈大意〉基本的な和歌の様式は、私が考えました十体の中の、幽玄体、事可然体、麗体、有心体これらの四つです。…素直で優美な様式を自在に詠めるようになれば、長高体、見体、面白体、有一節体、濃体などの様式で詠むのはたやすいことです。鬼拉の体は、簡単に身に付けられませんが、修練すれば詠めないことはないでしょう。

さても、この十躰の中に、いずれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず。…よくよく心を澄まして、その一境に入りふしてこそ稀によまるる事は侍れ。されば、宜しき歌と申し候は、歌毎に心の深きのみぞ申しためる。…ただし、すべてこの躰のよまれぬ時の侍るなり。朦気さして心底みだりがはしきをりは、いかによまむと案ずれども有心躰出で来ず。…さらむ時は、まづ景気の歌とて、姿・詞のそそめきたるが、何となく心はなけれども歌ざまの宜しく聞ゆるやうをよむべきにて候。…かかる歌だにも四、五首、十首よみ侍りぬれば、蒙昧も散じて、性機もうるはしくなりて、本躰をよまるる事にて候。また、恋・述懐などやうの題を得ては、ひとへにただ有心の躰をのみよむべしとおぼえて候。

〈大意〉さて、この十体の中で、これこそが和歌だというのは有心体です。…よくよく心を澄まして、有心体が詠めるような境地に入ってこそ、稀に詠むことができます。ですので、よい歌とは、心の深い境地に入った歌をいうのです。…ただし、有心体のまったく詠めないときもあります。うつ状態になって塞ぎこんでしまい、心がすっかり乱れているときは、どうしたって有心体にはなりません。…そんなときは、まず叙景歌として、表現にちょっと目を引くところがあって、心があるというわけではないけれども、格好はついているという様子の歌を詠むのが妥当です。…そんな歌でも、四、五首、十首と詠むうちに、気の塞ぎがなくなり、機嫌もよくなって、有心体が詠めるというものです。また、恋・述懐などの題で詠むときには、他の体で詠もうとはせずに、ひたすら有心の体で詠むのがよいと思います。

さても、この有心躰は余の九躰にわたりて侍るべし。その故は、幽玄にも心あるべし、長高にもまた侍るべし。残りの躰にもまたかくの如し。
げにげにいづれの躰にも、実(まこと)は心なき躰はわろきにて候。
いづれの躰にても、ただ有心の躰を存ずべきにて候。

〈大意〉さて、この有心体は、他の九体にも含まれるものです。なぜなら、幽玄体にも心はあるべきですし、長高体にもです。残りの体も同様です。…まったくどの様式で和歌を詠むにつけても、本当には心がないというのでは、よくない歌なのです。…どの様式で歌を詠むにしても、ただ、心があるということ、有心の体でなければならないのです。

特筆すべきは、この実作論は、作者の立場で、その主観で、エチュードについて述べられているということです。詠んだ歌が読者にとってどの体になっているかという結果論ではありません。少なくとも「ひとへにただ有心の体をのみよむべし」とは、作品という結果を受けて選者や判者が思うことではありません。詠み手が、ただ、わが心のなかで思うことであり、「有心」の体をめがけたかどうか、作者本人にしかわからないのです。ですので、有心かどうかを要件化することなど、できないと思われます。言い換えれば、定家が示した「有心体」とは、完全な精神論でした。精神論は、結果から客観的に要件化できない性質のものです。このことはつまり、有心の体かそうでないかを、客観的に検証できないことを示しています。
定家は、「心がある」歌は、よくよく心を澄ました状態で得られるものであり、心が乱れているときにはその境地に到達できないとし、仮に心がなくとも、格好つけの叙景歌をつづけて詠むうちに、心が澄み切って、そのうち心のある歌が得られるとも述べています。そして、心のない歌は、どの様式で詠まれていようとダメな歌だと断罪しています。やはり、「有心体」は、他の体とは分類の構想が違うのです。他の体が、受け手にとっての美に基づき構想されているとしても、「有心体」の構想は、作者にしかわからない、作り手の精神の状態を基盤に構想されているのです。
そして、作者の心が入った歌、「有心」の歌のなかで、「妖艶」の美の表現に成功した文体を「幽玄体」と呼ぶのではないでしょうか。であるならば、「妖艶」でない「有心」は存在します。そして「余情」とは、滅びる定めの物質の外界に対して、滅びようのない精神の表現であり、物質世界の滅びの美である「妖艶」と、精神世界の不滅の美である「余情」とは、確かに、「余情妖艶」の美学・美意識として一体化し、まとまった体系をとり得ます。
「有心」は実作態度。「妖艶」は美。「妖艶」の表現に成功した体を「幽玄体」と呼ぶ。そして「余情」は、現世肯定の一元的な価値観に対するアンチテーゼ、精神不滅の哲学でもあると結論しておきます。
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