あめつちのはじめのとき
たかまがはらになりませるかみのなは
あめぬみなかぬしのかみ
春日大社の宮司であった葉室頼昭氏によると
大和ことばでは、「たか」「まか」というのは
「まかふしぎ」などと言う時に使う言葉
不思議さに感動した時に出る言葉
はという言葉は母というように産まれる意味がある
原っぱの「はら」も、お腹の「はら」も漢字では別のように感じられますが
どちらも「いのち」がたくさん生まれさせること
「たかまがはら」というのは
不思議、無限の「いのち」生まれてくるところ
と書かれています。
日本書紀の冒頭は
古には天地が未だ(いまだ)剖(さ)けず、陰陽は分かれず、渾沌たること鶏子(たまご)の如く、溟涬(めいけい)として牙(きざし)を含む。
其れ清陽な者は薄靡(たなび)いて天となり、重濁な者は淹滯(とどこお)って地となるに及ぶ。
精妙の合は搏(と)り易く、重濁の凝は竭(つ)き難い。故に天が先に成って地は後に定まった。
然る後に神聖が其の中に生まれたのである。
古事記は言霊の言葉を記し
日本書紀は映像のイメージの言葉を記したように想えないだろうか
どちらもいのちの生まれるはじまりを現わしたもの
それはあめつちがかさなるところ
初日の出を拝むこころ
ダイヤモンド富士に魅かれるこころ
いのちの生まれる元型があるのではないか
あめつちのかさなる日の出をいにしへから拝んでいたのではないか
鷲の木から中央に太陽が昇る日に撮影にいったのですが電池を忘れたおかげで
あめつちのはじまりという言葉が浮かび
古事記も日本書紀も同じはじまりを書いているのでは想えました
神代のときより
あめつちのかさなりの中にいのちがうまれる
それは縄文よりつづく感性
そういう自然感の伝統があった
自然のなかに多様ないのちをみいだした形が土器の模様であり
環状列石を回ることで祀っていた
鷲の木環状列石をおりた海岸から望む日の出にそんな連想をしていました
昔日本書記の冒頭のイメージを作ったことがありました
今のあめつちの調和とはなにか
新月に想うこともよきことかな