瞑想の力
2016-08-13 | 瞑想
こんにちは。
涼しかった朝も蝉が鳴き始めやっと暖かくなってきました。
雲も動き少しずつ青空も見え始めています。
昨日の記事に記したように、
古い友人と衝突しショック状態の私です。
心が痛んでいるのです。
この本物の心の傷をどのようにして癒して行こうとしているか、
それをブログに記しましょう。
もしかしたら同じように心を痛めている人に
何らかのヒントとなるかもしれません。
心の問題が発生した時、私がとるべき道はやはり瞑想です。
瞑想に助けられてここまで生きてきました。
と云うと大げさかな?
ゴメンなさいね、根がドラマチックな人間なのです。
どうかご承知置き下さい。
瞑想に目覚めたのは最初の結婚に失敗したそのすぐ後でした。
離婚とその周辺の人間関係のいざこざに疲れ果て
世間の荒波に初めて一人で立ち向かわなければならないその時に、
瞑想というテクニックに出あった事がそれからの私の人生を作って来た訳です。
それはある意味幸福な事でした。
離婚してボロボロになって向かった先が瞑想で良かったなって思っています。
もしあなたならこんな時どんな方向に進んで行ったでしょう。
人には人それぞれ選ぶ道があるものですよね。
それが自由の利点じゃないかしら。
それにしてもあの時、
瞑想法を学ばなければ自分は一体どんな人生を歩んだ事か、
とても想像できません。
皆さんもそんな想像した事がありますか?
なんだか簡単な様でいて難しいですよね。
今の自分ならこんな時こそ瞑想です。
実は先ほども瞑想を済ませてきました。
昨日の友とのけんかの後、心が震えていたたまれないような気持ちが頭の隅っこにずっと有るのです。
その気まずさから解消されない限り、
日常の平穏に戻るのは難しいような気がします。
気持ちが携わらなくてもこなさなければならない雑務がいっぱいあるのです。
娘っこでもあるまいに
心が痛くて仕事が出来ません、なんて云えば
いい年こいて何を甘っちょろい事抜かしておるか、と喝を入れられるに決まっています。
しかし純粋に本音で生きて来たものは
はつらつとしたエネルギーを行動のすべての原動としたいとかんがえているのです。
そうでなければ何事にも手がつかない状態、でいると、
それをこなす為に無理をしなければならなくなり、身体が痛くなっちゃうのです。
純粋に生きるという事は傷つく事が多いです。
ですからまあ、
対策を考えるとすれば平たく言って
打たれ強くなるってことが求められるのかもしれませんね。
私が離婚して正真正銘たった一人で人生を歩み始めたのは二十八歳の時でした。
以来、心が傷ついたり、途方に暮れたりした時に私は瞑想をする事で人生を切り抜けて来たのです。
一日のうちのわずかな時間でも、
瞑想する時間を持つと何かが変わる事を実感して生きてきました。
なにしろ7日間も瞑想を続けると必ず視界が開けてくるのです。
初めはその関係性もはっきりと見えなかったのですが、
何度もそんな経験を重ねるうちにそれがはっきりと見えるようになりました。
それからはもう、困った時の神頼み、、、ならぬ瞑想頼みの私なのです。
私だって今朝は憂鬱な気分でした。
すみませんね、そんな気分の記事書いちゃって。
ですから今朝はまず瞑想をしてから一日を始めようと早速実践してきたのです。
まずは今朝の瞑想はどんなものかそれをお話しましょう。
結跏趺坐と云う言葉をご存知ですか?
俗に云うあぐらの事ですが、
足を組んで
互いのかかとを互いの内股に重ねるように乗せて座ることです。
私は若い時から瞑想という言葉に慣れ親しんでいるので、
あぐらをかいて座るという事に何の抵抗も有りません。
まずあぐらをかいて見ました。
正しい形に足を組んでみたのです。
その姿勢で真っ直ぐに座ろうとすると右膝が浮き上がってあちこちが痛くてたまりません。
足を崩してじゃないと座れない状態です。
ですので、今度は身体を自在に動かしながら
足を組んだままその膝を床につけてみました。
すると今度は上半身がたまらなく痛いのです。
ああ、この時点で身体のバランスがすっかり崩れているのが丸判りじゃないですか。
いやあ、この現実を見る事で意識がすっかり身体に向きましたわ。
こんな身体じゃまともな事は考えられませんね。
上半身をゆっくりと傾けて、
両足の膝頭を床につけたままにしてもそんなに痛くない所まで
上半身を動かして行きます。
私の場合、上半身を左前方に深く曲げた状態に保つと
足がきれいに結跏趺坐の状態でいられる事が判りました。
大変奇妙な格好ですがしばらくこのままの状態を放置して見ます。
すると静かに座っているうちに身体が自然に自分でバランスをとるように動き始めます。
自分で動かしては行けません。
身体の自然な動きに身を任せましょう。
そうする事で意識を百パーセント筋肉や筋などに向けてやるのです。
そうすればもう意識レベルががらっと変わります。
まずはここからですね。
上体を真っ直ぐのまま座ろうとすると片足の膝が上がって身体が痛いけど、
反対に組んだ足を真っ直ぐにした状態で上半身の方を動かしてみると、
自分の身体のゆがみが痛みとなって歴然とそこに現れます。
きっと悲鳴を上げるほど痛いはず。
もちろん私だってあいたたたたって感じですわ。
そうしているうちに
こんなにバランスが悪ければ問題起きて当然よね、見たいな
心理が見えてくるのです。
そうすると問題をもっと客観視する余裕が産まれるというものです。
瞑想の産物ですよね。
極めて論理的。
多分私の欠点はそれなんですね。
しかし客観視してみるのは大事と感じます。
身体の左側が縮こまっているのも判ります。
女性性が欠けているのかもしれません。
男っぽい性格で有りたい、見られたいという願望があるのかもしれません。
そんな風に、
今まで着目した事のなかったアイデアにこうして気がつくのも瞑想のおかげでしょうか。
私はそうだと思ってます。
瞑想ってどうするの?って思われる方がきっと多い事でしょう。
世の中には実にたくさんの瞑想法が有ります。
瞑想法を売ってお金を稼いでいる人もたくさんいます。
そんな瞑想界が迷走する中、
幾つかの瞑想法を試して来た私がお勧めするのは
毎日少しでも良いから
黙って座る時間を持つ事です。
お金はかかりません。
自分次第です。
出来れば静かな環境の中で出来るよう心がけるとなお良いでしょう。
黙って座ればぴたりと当たる、
インチキ易者を揶揄するような言葉ですが、
私がさっき説明した座り方を実践してご覧なさい、
全く持ってあの言葉の通り、
黙って座れば何かしら自分の事をピタリと実感するはずです。
やっぱり運動不足だな、とか。
食べ過ぎだな、とか。
とか。
それが気づきの切っ掛けになるのです。
思考のチェーンをネガティヴな場から別の次元に引き戻してくれるって訳ですわ。
それでずいぶん救われます。
さ、今日の「思考の指向を変えてより賢く志向する人生を送る為の瞑想講座」は
これにておしまい。(そんなんあったっけ)
次の回があるかどうかは私に起こる事次第です。
期待しないでお楽しみに。
またまた長文になりました。悪しからず
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涼しかった朝も蝉が鳴き始めやっと暖かくなってきました。
雲も動き少しずつ青空も見え始めています。
昨日の記事に記したように、
古い友人と衝突しショック状態の私です。
心が痛んでいるのです。
この本物の心の傷をどのようにして癒して行こうとしているか、
それをブログに記しましょう。
もしかしたら同じように心を痛めている人に
何らかのヒントとなるかもしれません。
心の問題が発生した時、私がとるべき道はやはり瞑想です。
瞑想に助けられてここまで生きてきました。
と云うと大げさかな?
ゴメンなさいね、根がドラマチックな人間なのです。
どうかご承知置き下さい。
瞑想に目覚めたのは最初の結婚に失敗したそのすぐ後でした。
離婚とその周辺の人間関係のいざこざに疲れ果て
世間の荒波に初めて一人で立ち向かわなければならないその時に、
瞑想というテクニックに出あった事がそれからの私の人生を作って来た訳です。
それはある意味幸福な事でした。
離婚してボロボロになって向かった先が瞑想で良かったなって思っています。
もしあなたならこんな時どんな方向に進んで行ったでしょう。
人には人それぞれ選ぶ道があるものですよね。
それが自由の利点じゃないかしら。
それにしてもあの時、
瞑想法を学ばなければ自分は一体どんな人生を歩んだ事か、
とても想像できません。
皆さんもそんな想像した事がありますか?
なんだか簡単な様でいて難しいですよね。
今の自分ならこんな時こそ瞑想です。
実は先ほども瞑想を済ませてきました。
昨日の友とのけんかの後、心が震えていたたまれないような気持ちが頭の隅っこにずっと有るのです。
その気まずさから解消されない限り、
日常の平穏に戻るのは難しいような気がします。
気持ちが携わらなくてもこなさなければならない雑務がいっぱいあるのです。
娘っこでもあるまいに
心が痛くて仕事が出来ません、なんて云えば
いい年こいて何を甘っちょろい事抜かしておるか、と喝を入れられるに決まっています。
しかし純粋に本音で生きて来たものは
はつらつとしたエネルギーを行動のすべての原動としたいとかんがえているのです。
そうでなければ何事にも手がつかない状態、でいると、
それをこなす為に無理をしなければならなくなり、身体が痛くなっちゃうのです。
純粋に生きるという事は傷つく事が多いです。
ですからまあ、
対策を考えるとすれば平たく言って
打たれ強くなるってことが求められるのかもしれませんね。
私が離婚して正真正銘たった一人で人生を歩み始めたのは二十八歳の時でした。
以来、心が傷ついたり、途方に暮れたりした時に私は瞑想をする事で人生を切り抜けて来たのです。
一日のうちのわずかな時間でも、
瞑想する時間を持つと何かが変わる事を実感して生きてきました。
なにしろ7日間も瞑想を続けると必ず視界が開けてくるのです。
初めはその関係性もはっきりと見えなかったのですが、
何度もそんな経験を重ねるうちにそれがはっきりと見えるようになりました。
それからはもう、困った時の神頼み、、、ならぬ瞑想頼みの私なのです。
私だって今朝は憂鬱な気分でした。
すみませんね、そんな気分の記事書いちゃって。
ですから今朝はまず瞑想をしてから一日を始めようと早速実践してきたのです。
まずは今朝の瞑想はどんなものかそれをお話しましょう。
結跏趺坐と云う言葉をご存知ですか?
俗に云うあぐらの事ですが、
足を組んで
互いのかかとを互いの内股に重ねるように乗せて座ることです。
私は若い時から瞑想という言葉に慣れ親しんでいるので、
あぐらをかいて座るという事に何の抵抗も有りません。
まずあぐらをかいて見ました。
正しい形に足を組んでみたのです。
その姿勢で真っ直ぐに座ろうとすると右膝が浮き上がってあちこちが痛くてたまりません。
足を崩してじゃないと座れない状態です。
ですので、今度は身体を自在に動かしながら
足を組んだままその膝を床につけてみました。
すると今度は上半身がたまらなく痛いのです。
ああ、この時点で身体のバランスがすっかり崩れているのが丸判りじゃないですか。
いやあ、この現実を見る事で意識がすっかり身体に向きましたわ。
こんな身体じゃまともな事は考えられませんね。
上半身をゆっくりと傾けて、
両足の膝頭を床につけたままにしてもそんなに痛くない所まで
上半身を動かして行きます。
私の場合、上半身を左前方に深く曲げた状態に保つと
足がきれいに結跏趺坐の状態でいられる事が判りました。
大変奇妙な格好ですがしばらくこのままの状態を放置して見ます。
すると静かに座っているうちに身体が自然に自分でバランスをとるように動き始めます。
自分で動かしては行けません。
身体の自然な動きに身を任せましょう。
そうする事で意識を百パーセント筋肉や筋などに向けてやるのです。
そうすればもう意識レベルががらっと変わります。
まずはここからですね。
上体を真っ直ぐのまま座ろうとすると片足の膝が上がって身体が痛いけど、
反対に組んだ足を真っ直ぐにした状態で上半身の方を動かしてみると、
自分の身体のゆがみが痛みとなって歴然とそこに現れます。
きっと悲鳴を上げるほど痛いはず。
もちろん私だってあいたたたたって感じですわ。
そうしているうちに
こんなにバランスが悪ければ問題起きて当然よね、見たいな
心理が見えてくるのです。
そうすると問題をもっと客観視する余裕が産まれるというものです。
瞑想の産物ですよね。
極めて論理的。
多分私の欠点はそれなんですね。
しかし客観視してみるのは大事と感じます。
身体の左側が縮こまっているのも判ります。
女性性が欠けているのかもしれません。
男っぽい性格で有りたい、見られたいという願望があるのかもしれません。
そんな風に、
今まで着目した事のなかったアイデアにこうして気がつくのも瞑想のおかげでしょうか。
私はそうだと思ってます。
瞑想ってどうするの?って思われる方がきっと多い事でしょう。
世の中には実にたくさんの瞑想法が有ります。
瞑想法を売ってお金を稼いでいる人もたくさんいます。
そんな瞑想界が迷走する中、
幾つかの瞑想法を試して来た私がお勧めするのは
毎日少しでも良いから
黙って座る時間を持つ事です。
お金はかかりません。
自分次第です。
出来れば静かな環境の中で出来るよう心がけるとなお良いでしょう。
黙って座ればぴたりと当たる、
インチキ易者を揶揄するような言葉ですが、
私がさっき説明した座り方を実践してご覧なさい、
全く持ってあの言葉の通り、
黙って座れば何かしら自分の事をピタリと実感するはずです。
やっぱり運動不足だな、とか。
食べ過ぎだな、とか。
とか。
それが気づきの切っ掛けになるのです。
思考のチェーンをネガティヴな場から別の次元に引き戻してくれるって訳ですわ。
それでずいぶん救われます。
さ、今日の「思考の指向を変えてより賢く志向する人生を送る為の瞑想講座」は
これにておしまい。(そんなんあったっけ)
次の回があるかどうかは私に起こる事次第です。
期待しないでお楽しみに。
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