色々な場所から中華街に入れるようになったが、日本人がお寺・神社におまえりしてから街を巡ると同様に、中華街でもまずは「関帝廟」におまえりをしてから、中華街を堪能したい。十分楽しめたなら、媽祖廟に向かい御礼を言うというのが良いと思う。とにかく中華街は楽しみかた満載。これからの季節、秋の収穫・上海蟹を楽しみたい物である。
横浜に關帝廟が開かれて、まもなく150年。それは幕末から現在へと連なる、横浜華僑華人の歩みと重なります。 横濵關帝廟の創建 hpより
日本が開国して横浜の港が開かれたのは、幕末の1859年。多くの中国人が商人や職人として横浜を訪れ、外国人居留地(現山下町)で暮らすようになります。それからわずか数年後の1862年、一人の中国人が關羽の木像を抱いて、現在の地にささやかな祠を開いたといわれます。これが横浜の關帝廟の始まりです。 故郷を離れての暮らしには不安が募ります。關羽の祠は日々の暮らしの安寧や商売繁盛を願う華僑の心の拠りどころとなっていきます。1871年、華僑たちの募金によって、本格的な關帝廟が建立されました。 初代關帝廟の姿 明治の宮廷画家と称される五姓義松が、色鮮やかに描いた關帝廟の絵が残っています。神壇は赤・緑・金などの極彩色で彩られ、精緻な彫り物が施された前机は赤と金。前机の上の花立・火立・香炉の五具足は銀色に輝き、中央の大小の香炉には「中華会館」の文字があります。關帝が鎮座する厨司も赤と金、中央の關帝のご神体は全身が金色に輝き、黒い口ひげをたたえています。また神壇の両脇にはなぎなたや提灯が置かれ、天井には「威震華夏」(關羽の威光は中華を震わす)の扁額がかかっています。香港や広東などから運ばれてきた神壇や祭器が並ぶ廟内には、線香の濃い香りが漂っていたことでしょう。 当時の横浜華僑は1,000人あまり。横浜の地にやってきて10年足らず。この短い期間にこれだけの立派な廟を建立したところに、關帝に寄せる横浜華僑の信心のあつさが表れています。
そういえば媽祖廟も中華街に完全に溶け込んでいる。町の人々によって作られた廟、大切にしたいみものである。
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