昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

微妙にカブっている。

2007-02-01 23:11:56 | 農業
 別に内舘牧子氏のファンでもなんでもないのだが,彼女が東北大の宗教学研究室などというドマイナーなところを選んで勉強してくれたおかげで,私が2年間入り浸っていた研究室も,ずいぶんと知名度が上がったとは思う。今回は、そんな内舘氏のコラムを紹介。なんと,仙台の地場の野菜「仙台野菜」を取り上げている。

 読売新聞には悪いが,全文引用させてもらいます。

・内舘牧子の仙台だより第45回(読売新聞仙台版?:1/31付)「みんな私が悪いのよ」
 1月16日から1週間,東北大学宗教学科の連続講義があり,私も聴講させてもらった。講師は東大宗教学科の島薗進先生。みっちりと島薗先生の講義を受けるなんて千載一遇のチャンスだ。
 私は東京の友人や仕事仲間には内証で仙台に滞在する気でいたのに,どこで聞きつけたのか,次々と女友達から電話が来る。
 「ねぇ,仙台で授業に出るんだってね。アータってそんなに勉強が好きだったのね。偉いわ。立派だわ。友達として誇らしいわ」
 口先だけでほめまくる彼女たちの,真の用件にカンづかない私ではない。要は「仙台みやげ」が欲しいのである。手ぶらで帰って来ちゃなんねぇぞというのが,彼女らの真意なのである。
 その「仙台みやげ」は牛タンや笹かまぼこではない。「仙台曲がりネギ」とか「仙台白菜」,「仙台雪菜」や「仙台芭蕉菜」や「寒締めちぢみホウレン草」などの仙台野菜なのである。重くてそうそう持って帰れないし,宅配にすると言うと「買いたてをすぐほしいわ」とぬかす。
 もっとも,彼女たちに仙台野菜のおいしさと珍しさを教えてしまったのは私で,マイカーの時にはトランクいっぱいに積んで東京に帰っていたのである。そして,よせばいいのに,ついつい,
 「これはね,今朝,朝市で買って来たのよ。曲がりネギはね,横倒しにして土に埋めて育てるの。そうするとネギが立ち上がろうとして曲がるのよ。そういうパワーが他のネギにはない甘さと柔らかさを作るんだっちゃァ」
 なんぞと能書きをたれるものだから,友人たちは欲しがって大騒ぎになるわけだ。みんな,私が悪いのよ。だが,今回は新幹線で帰るので,仙台野菜は次回ということで諦めさせた。
 すると,仙台のホテルに女性編集者から電話があり,仕事の都合で1日早く帰京せざるを得なくなった。そして彼女はつけ加えた。
 「あなたも知ってるA子が,明日手術するのよ。また立ち上がれということで縁起がいいなら,曲がりネギをお見舞いに買ってきて」
 そういう事態ならと,私は買いました。曲がりネギをしょって新幹線に乗りましたとも。
 で,A子が何の手術かというと美容外科でレーザーを使ってシミを取ったんだと。すぐに終わって日帰りだと。私,カンペキにだまされました。(うちだて・まきこ)


 「仙台野菜」というのは、「京野菜」や「加賀野菜」等と同じく、地元近辺でかつて多く栽培されていた野菜類、今ではあまり流通しなくなった、ちょっと懐かしく、いまの消費者にとっては珍しい、地域限定版の独特の野菜をいう。近頃はこういった「ここでしか味わえない」というような、プレミア感のある食材が人気である(テレビの影響だと思うが)。加賀野菜の成功で、多くの地域でこうした地元独特の野菜を発掘し、ビジネスにしようという動きが見られる。
 「仙台野菜」の種類は、上で内舘氏が記している分で殆ど網羅される。もっとも、ちぢみほうれんそうは、仙台というよりは県東部の石巻近辺が有名産地で、宮城の地場野菜ではあるが、「仙台野菜」とは言わないかもしれない(もっとも、県外のヒトにとっては関係ないことだろうが)。また、ここに挙げられていないものに、サトイモの葉柄を食用にする「からとりいも」(又は「あかがら」、「ずいき」)がある。これは干物にするもので、まあ地味な食べ物である。
 実は、上記の仙台野菜のうち、スーパー等で普通に買えるのは、冬期のちぢみほうれんそうと、曲がりねぎ位である。曲がりねぎはこちらではポピュラー過ぎて、地元独特の野菜である事を私は成人するまで知らなかったし、恥ずかしながら普通の長ねぎとの味の違いを意識した事もない。
 では他のものはというと、昨年あたりから、行政の後押しで、仙台朝市のある青果店が扱う様になり、ようやく一般流通の回路が出来たという段階である。もっとも、生産量はまだまだ少なく、しかも結構人気なので、入手するのはそれなりに苦労する。内舘氏が、これまた未だ余り知られていないであろうモノを知っており、かつ愛好しているというのは、ちょっと驚きである。氏は、密かにマイナー指向であろうか?等と疑ってしまったり。
 ちなみに、白菜は明治の頃に中国から日本に入った。そして、日本で初めて本格的に栽培されたのが、実は宮城県(松島、仙台)である。上で言われる「仙台白菜」とは、この黎明期の品種に近い特性の品種を指す言葉である。
 仙台白菜は、柔らかく甘いため人気が高かったが、反面、傷がつきやすく、傷むのがのが早かったこと、収穫可能な期間が短いこと等から、次第に他の品種にとって代わられた、いわば「市場競争に負けた」品種である。それがこうして時を経て復権するというのが、何とも面白い。
 ところで、「仙台野菜」というのは、仙台市の農政担当部局が名付けた言い方である。他方、宮城県庁では、同じものを「仙台伝統野菜」と呼称している。こちらの名前で検索すると、詳細な解説サイトがヒットする。しかし、同じものをわざわざ違う名前で呼ばなければならないというのは、いかにも縦割り行政といった感じで、いかがなものか、と思ってしまう。何より、消費者にわかりづらくなるのが痛い。
 

 で、何がカブっているのかというと、この野菜のプロデュースなんかも、私の職場の所掌範囲に入っていたりするのです。何だか私がやけに仙台野菜に詳しいのもそういう理由。
 

失言について。

2007-02-01 00:36:19 | Weblog
本当にいまさらなのですが取り上げてみます。

まず、柳沢厚生労働大臣は、WE推進者の一人であり、私は同制度に反対する者です。
そんな柳沢氏が失言をした、それで辞任を迫られている、というのは、私の立場からすれば歓迎すべきことかもしれません。
実際、安倍内閣の政策方針には多くの疑問符が付いている。そして、その内閣は、発足間もない頃から、様々なほころびが見えてきています。その綻びぶりが余りに出来過ぎていることから、個人的には、むしろ不気味だったりもします。(陰謀論に傾くつもりはありませんが)

さて、失言については、これを好機とばかりに辞任の圧力を加え、結果、柳沢氏が大臣の職を辞すれば、それでよいのでしょうか?少なくとも厚労省が関係する諸問題について、政治的な流れは変わるのでしょうか?
そんなことはないだろう、というのが大方の予想でしょうし、私もそう思います。

ところで、柳沢氏は本来、経済、金融の専門家なのだそうです。
そのため「そもそも、なぜ厚労相に経済の専門家という畑違いの人物を指名したのか」という批判もあるようです。
失言と言われる部分は、女性を「産む機械」という言葉で表現した部分ですが、このことと、WE制度推進の立場とを併せて考えてみると、氏の基本的なスタンスがはっきりします。
それは、ヒトを「社会システムの中の要素」として見ている、あるいは、そういう側面からしか見ていない、ということです。
社会経済学的にいえば、いまの日本社会における「女性」性の問題は「子を産む」という機能が弱くなっていることだ、と捉えている。経済学的な視点に限れば、このこと自体は当然です。(このあと書きますが、発言が当然だ、妥当だという意味ではありません)
WE についてはどうでしょう。ここでの見方は「労働単価」です。企業経営的には「コスト」であり、利益率の向上を至上命題とする企業というシステムの中では、極力切り下げるものとしてしか考えられません。また、WE制度が「少子化の歯止めになる」等と言う屁理屈も記憶に新しいところです。
加えて、医療費総額削減の流れがあります。柳沢氏のスタンスは知りませんが、少なくともこの流れに反してはいないでしょう。ここでも、少子高齢化のなかで、いかにコスト負担を減らすか、といったことが、社会経済システムの要素という側面から語られている、ということになります。

そこて、誰でも疑問に思うのは、厚生労働省という組織の長が、ヒトを「経済社会システムの要素」として、他の、個々人の全人格を構成する要素を捨象して見る事が、果たして適切か?ということです。上記の「畑違い」批判の大部分は、ここから来ているのだと思います。
医療であれ労働制度であれ、大きく言えば福祉の部分です。それは、個々人の生活を、ある程度尊重するという立場から考えられ、ここまで施策が展開されて来ていた筈です。ところが、「社会システムの要素」としてのヒト観は、これと相容れません。この立場では、「個々人の生活の向上」という福祉的な政策視点は、隠れてしまいます。代わって表に立っているのは「システムの問題とその解決」という視点です。もっと言うと「システムの改善のために個々人の生活は犠牲にしてもやむを得ない」という立場になります。いまの経済状況ではそうならざるを得ません。
つまり、厚労省のトップが福祉後退を進めるということです。これでは、大部分の国民の期待とは正反対ということになりますので、その職がに就いている事が「適切でない」と言われてもやむなしでしょう。氏の失言は、言葉遣いの不適切さも勿論よくないのですが、それ以上に、このことを明示的に表現してしまったということの方が、まずかったのではないか(私の立場からはむしろ良かったのではないか)と思えるのです。

しかし、もう少し考えてみると「逆もまた然り」なのです。上記のような状態なのに、何故かあえて氏を厚労相に指名した安倍氏の意図はどこにあるのかを、少し考えてみましょう。
安倍内閣の方針からすると、前述の企業優遇、医療費抑制、それに国家に従順な国民の育成は規定路線です。そこに、ヒトを総合的、全人格的に扱おうとするような人物が厚労相として入閣すれば、どうなるでしょう。
そう、上に列挙したような内閣の方針が徹底されることはなくなります。
ですから、柳沢氏という経済の専門家をわざわざ厚労相に充てたのは、失策ではなく、安倍内閣ではむしろ「必然」であり、その配置は「最適」なのです。「ヒトをシステムの要素と見る」ような人物でなければ、上記の政策は実行できないのですから。これだけの批判にも関わらず、安倍氏が柳沢氏の辞任を否定するのは、彼以上の適任者が居ないからでしょう。

というわけですので、例え柳沢氏が辞任しても、後続の大臣に期待ができないであろうことは、容易に予想がつきます。いずれにせよ、そういう内閣の方針に沿った人物が後継大臣となることはほぼ確実です。

つまり、結局、このことは失言した個人の問題ではなく、内閣自体の問題なのだ、ということです。もっと言えば、政権与党自体の問題なのです。