前回、ブログのコメント欄や掲示板等での議論を揶揄したのだけれど。
あれから、他のブログ等も見ててさらに思ったのが、まあ、議論の前提が噛み合なくていちいち擦り合わせをすることが必要な人が結構居る。
で、前回の記事で取り上げた方々がそうだ、というのではない。
そうではないのであるが、掲示板やらブログやらでそういう議論をしなきゃならん人のうちには、隠れ発達障害だったりする人が居るのではないか、ということを、ふと思いついた。
念のため書くが、いいとか悪いとか、そういうことではない。
私自身、周囲の空気が読めなくて苦労する。観察を続けないと、その場の雰囲気や流れが読み取れない。読み取れず仕舞いなことも多い。それの程度が進むと、本当に噛み合ない議論になる。
こういう議論の一方に対する「釣り?」という疑問もむべなるかな、ではあるが、私が思うに「共感」とか「暗黙の了解」みたいな部分が苦手な人の中には、一定数発達障害の人が居るのであろう。とくに、我々の年代が少年期にあったころは、この障害についての理解はあまり進んでいなかった。自らがそうだということを知らずに大人になっている人も多いと思われる。で、ネット上のコミュニケーションは、全く「文字」しか手がかりがないわけで、空気を読む他の材料に乏しい。それで、実生活以上に話が噛み合なくなる、ということもあるのではないか。
あれから、他のブログ等も見ててさらに思ったのが、まあ、議論の前提が噛み合なくていちいち擦り合わせをすることが必要な人が結構居る。
で、前回の記事で取り上げた方々がそうだ、というのではない。
そうではないのであるが、掲示板やらブログやらでそういう議論をしなきゃならん人のうちには、隠れ発達障害だったりする人が居るのではないか、ということを、ふと思いついた。
念のため書くが、いいとか悪いとか、そういうことではない。
私自身、周囲の空気が読めなくて苦労する。観察を続けないと、その場の雰囲気や流れが読み取れない。読み取れず仕舞いなことも多い。それの程度が進むと、本当に噛み合ない議論になる。
こういう議論の一方に対する「釣り?」という疑問もむべなるかな、ではあるが、私が思うに「共感」とか「暗黙の了解」みたいな部分が苦手な人の中には、一定数発達障害の人が居るのであろう。とくに、我々の年代が少年期にあったころは、この障害についての理解はあまり進んでいなかった。自らがそうだということを知らずに大人になっている人も多いと思われる。で、ネット上のコミュニケーションは、全く「文字」しか手がかりがないわけで、空気を読む他の材料に乏しい。それで、実生活以上に話が噛み合なくなる、ということもあるのではないか。
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