昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

見苦しい議論が多いね。

2008-01-16 02:29:11 | ものおもい
昨年末の安井至先生のブログで暴れていたあららさんや、NATROM先生のところでのpingu何とかさんのように、しつこく噛み付いてきてどうしようもないヒトが目立つ。で、共通点があるなーと思ったのが、何か「反論」できそうな論拠をひとつ見つけ、それだけを武器にひたすら「攻撃」する、という点についてである。あららさん等はごく初期に自らその姿勢を明らかにしているが、要するにこういうヒトは議論を重ねて何らかの達成点に到ろうという気が最初からない。
あららさんであれば「安井先生は本を読まずに本を批判している。けしからん」が、言いたいことのすべてである。その他環境問題に関する持論もお持ちのようだし、それに対する賛同者も見られるが、本人がそれが主眼でないと表明している以上、実のところそれらは枝葉末節でしかない。(反論は面倒なので書かないが、一連の議論は要するに両者の前提の違いに起因するものであり、あららさんの批判はおおむね的外れであると私は考える。バレーボールの試合でハンドボールをしようとするようなものだ)
で、その本筋の批判については、まあそう言えなくもない。しかし、「そう言えなくもない」程度のことで鬼の首を取ったようにはしゃいで挑発を繰り返すのは、端から見ていてみっともない。だから諌めるヒトが出て来る。すると「注目されている」と勘違いし調子に乗る。本人はさぞ楽しかろう。

NATROM先生のところのpinguさんも同じ。かの人の論拠は「最初にクレームをつけてきたお婆さんが、ことさらに正義感を振りかざし他人を非難していい気分に浸っているようなはた迷惑なヒトであるかもしれない。そうであれば愛煙家の挑発的な言辞も非難に値しないとも言えるのであって、その可能性を考慮せず愛煙家の態度を批判するのは失当だ」というだけである。これも「可能性だけならそうだろうね」という話にすぎず、頑強に主張しつづけるほどのことでもあるまい。(御本人に同様の苦い経験があるから、なのかもしれないが)

思うに、これらのヒトは「批判」に敏感である。そして『批判」に対する「反批判」をすることが、何と言うか「正義だ」と考えているやに思える。一般的に多様な意見を許すことは重要なことだから、それも故なしとはしないのだが、それでも議論というものはおおむね妥当な線に集束していくものである。
それに異を唱えるのならば、もう少し本質的な部分での異見であってほしいものだが、上記のごときものは「異を唱える事自体」がその価値のほとんどであるように見えるし、その価値も要するにコメントする本人の自尊心にとっての価値でしかない。

以上のように、こういうヒトたちがしつこくコメントするのは、ブログ主が表明した見解に対し異を唱える事によって、多くの注目を集める論者の「上を行った」ように(当人の主観のうえで)感じること、その事によって自尊心を満足させることを目的としているのではないかと疑う。しかも、得てしてこういう議論における論拠は「まあ、そうも言えるよね」という程度の妥当性にすぎず、にもかかわらず議論の文脈上の重要性を無視して、そのことを指摘したことをもって「勝利宣言」をする、という傾向が強いと感じる。

たぶん、実生活ではあまり褒めてもらえないのだろうな。





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