はぐれけんきゅういん♀リターンズ:人為的影響下の「生態系」できのこさんが言及している、中西準子先生の「雑感408」について。
(昨晩の原稿を全面改稿しました)
「圃場そのものが生態系という環境なのか?」という中西先生の疑問に対し、きのこさんは「「人工的に作られた環境下でも生態系の一つであると考えるべきでは?」と仰っています。
私もまたそう思うのですが、それは、最近の農業施策に関わる仕事をしていたから、というのが理由です。
近年の農業振興施策の典型として「農場・農村」という「独自の生態系」に価値を見いだし、これを守ろうというものがあります。
そして、そこで保全されるべきは、機械化・化学肥料・農薬使用による効率化の進んだ農地、ではなく、より生産性の低かった時代の、そしてそれゆえに生物層がそこそこ豊かであった時代の「農場・農村」です。
(似たような考え方に、「里山」があります。落葉広葉樹を中心とした二次林で、人家に近接し、薪炭材や堅果の採取などの人為が加えられることにより持続する森林です。これも、典型的には江戸時代~戦後のスギ植栽以前までのイメージです。)
さて、最近は環境負荷を低減する技術を導入した農業が、世論・消費者ニーズから広く期待されています。上記の「農場・農村」もまた、環境負荷低減技術を駆使することにより実現されるべきものとして語られます。
ここでのキモは何かというと、「農場」や「農村」を、審美的な価値観で扱う、というものです。
ありていに言ってしまうと、日本の農業は斜陽産業を通り越して衰退期にあるといってよいでしょう。それを食い止める方策として行政が注目したのが、農業・農地・農村に「美」を見いだす立場です。この「美」を守るためにも、農業を、農地を、農村を守ろう!そのためにはこれこれの政策が・・・というわけです。
この「審美的」農村観はなにも行政が勝手に言い出しているのではありません。農業者自身や、かつて農村で暮らしていた消費者においても、この価値を認め、積極的に保全すべきと主張する人達は居ます。言い方が悪くて申し訳ないのですが、いわばそういった人達の価値観を「利用」した農業振興施策というものが存在しており、その意味では「圃場」が「護るべき生態系」であるという考え方は、不可欠なものとなります。ここでの研究テーマ設定に、上記のような行政の意図が噛んでいるかどうかはわかりませんが、上記の視点が含まれたものと仮定した方が分かりやすい研究のように、私には思えます。(だからといって陰謀論的に見ているわけではありませんが)
さて、特殊な湿地としての水田を主な要素とした生態系というのが存在し、相応の生物種がそこで繁殖していたことは事実といってよいでしょう。農業の効率化が、水田を住処としていた多くの生き物を追いやったことも然りです。
GM作物は、使用する農薬の種類と量を減らす事ができる技術ですから、減農薬の分だけ、生物層にはやさしくなるでしょう。ですから、ここで言及されている研究成果はわりと分かりやすいものです(もっとも、そんな単純な理解で本当にいいのかどうかは、私にはわかりませんが)。
一方、中西先生、あるいはその他大多数の方の問題意識、およびGMOをめぐる環境影響といった観点からすれば、「遺伝子組み換え作物が栽培された圃場」というのが、その「外部」を含む生態系の擾乱要因である可能性が考えられるから、それを研究すべき、ということになります。
結局ここでの問題は、「場」をどの範囲に設定するかで、GM作物が「環境によい」「悪い」が逆転してしまう、ということになります。(GMが環境にほんとうに悪いのかどうかはさておき)
でも、考えてみれば、他の多くの事象だって大同小異であって、結局は、どちらに価値基準をおくか、あるいは共通の「環境のモノサシ」をうまく設定して、リスクを比較考量し、判断するかのどちらかしかありません。
余談ですが、当県の研究者がシンポジウムで以下のように述べていました。
「環境保全型農業に広く取り組んでいる地域では,地域の実情に合わせて、減農薬・減化学肥料の栽培体系が確立され、それが普及している。すると、多くの農地では、同じような時期に、最低限度とはいえ同じ農薬が使われることになる。農薬への感受性は様々な動植物で異なるが、画一した農法としての環境保全型農業が普及することで、その地域では、ある生物に限り絶滅してしまう、といったことが起こる。だから、『すべての農地で環境保全型農業をやればよい』というものではない。農法もさまざまなものがないと、思わぬ環境負荷の突出を招く場合があるのだ」
「だから無農薬・無化学肥料でやれ」という誰かの声はあえて無視します(餓死したいならそれでもいいですけど)が、この例を見てもわかるように、答えはシンプルに、とはなかなかいかないようです。結局は、ヒトそれぞれが「決断」し、その結果に「責任を負う」しかないのでしょうね。
(昨晩の原稿を全面改稿しました)
「圃場そのものが生態系という環境なのか?」という中西先生の疑問に対し、きのこさんは「「人工的に作られた環境下でも生態系の一つであると考えるべきでは?」と仰っています。
私もまたそう思うのですが、それは、最近の農業施策に関わる仕事をしていたから、というのが理由です。
近年の農業振興施策の典型として「農場・農村」という「独自の生態系」に価値を見いだし、これを守ろうというものがあります。
そして、そこで保全されるべきは、機械化・化学肥料・農薬使用による効率化の進んだ農地、ではなく、より生産性の低かった時代の、そしてそれゆえに生物層がそこそこ豊かであった時代の「農場・農村」です。
(似たような考え方に、「里山」があります。落葉広葉樹を中心とした二次林で、人家に近接し、薪炭材や堅果の採取などの人為が加えられることにより持続する森林です。これも、典型的には江戸時代~戦後のスギ植栽以前までのイメージです。)
さて、最近は環境負荷を低減する技術を導入した農業が、世論・消費者ニーズから広く期待されています。上記の「農場・農村」もまた、環境負荷低減技術を駆使することにより実現されるべきものとして語られます。
ここでのキモは何かというと、「農場」や「農村」を、審美的な価値観で扱う、というものです。
ありていに言ってしまうと、日本の農業は斜陽産業を通り越して衰退期にあるといってよいでしょう。それを食い止める方策として行政が注目したのが、農業・農地・農村に「美」を見いだす立場です。この「美」を守るためにも、農業を、農地を、農村を守ろう!そのためにはこれこれの政策が・・・というわけです。
この「審美的」農村観はなにも行政が勝手に言い出しているのではありません。農業者自身や、かつて農村で暮らしていた消費者においても、この価値を認め、積極的に保全すべきと主張する人達は居ます。言い方が悪くて申し訳ないのですが、いわばそういった人達の価値観を「利用」した農業振興施策というものが存在しており、その意味では「圃場」が「護るべき生態系」であるという考え方は、不可欠なものとなります。ここでの研究テーマ設定に、上記のような行政の意図が噛んでいるかどうかはわかりませんが、上記の視点が含まれたものと仮定した方が分かりやすい研究のように、私には思えます。(だからといって陰謀論的に見ているわけではありませんが)
さて、特殊な湿地としての水田を主な要素とした生態系というのが存在し、相応の生物種がそこで繁殖していたことは事実といってよいでしょう。農業の効率化が、水田を住処としていた多くの生き物を追いやったことも然りです。
GM作物は、使用する農薬の種類と量を減らす事ができる技術ですから、減農薬の分だけ、生物層にはやさしくなるでしょう。ですから、ここで言及されている研究成果はわりと分かりやすいものです(もっとも、そんな単純な理解で本当にいいのかどうかは、私にはわかりませんが)。
一方、中西先生、あるいはその他大多数の方の問題意識、およびGMOをめぐる環境影響といった観点からすれば、「遺伝子組み換え作物が栽培された圃場」というのが、その「外部」を含む生態系の擾乱要因である可能性が考えられるから、それを研究すべき、ということになります。
結局ここでの問題は、「場」をどの範囲に設定するかで、GM作物が「環境によい」「悪い」が逆転してしまう、ということになります。(GMが環境にほんとうに悪いのかどうかはさておき)
でも、考えてみれば、他の多くの事象だって大同小異であって、結局は、どちらに価値基準をおくか、あるいは共通の「環境のモノサシ」をうまく設定して、リスクを比較考量し、判断するかのどちらかしかありません。
余談ですが、当県の研究者がシンポジウムで以下のように述べていました。
「環境保全型農業に広く取り組んでいる地域では,地域の実情に合わせて、減農薬・減化学肥料の栽培体系が確立され、それが普及している。すると、多くの農地では、同じような時期に、最低限度とはいえ同じ農薬が使われることになる。農薬への感受性は様々な動植物で異なるが、画一した農法としての環境保全型農業が普及することで、その地域では、ある生物に限り絶滅してしまう、といったことが起こる。だから、『すべての農地で環境保全型農業をやればよい』というものではない。農法もさまざまなものがないと、思わぬ環境負荷の突出を招く場合があるのだ」
「だから無農薬・無化学肥料でやれ」という誰かの声はあえて無視します(餓死したいならそれでもいいですけど)が、この例を見てもわかるように、答えはシンプルに、とはなかなかいかないようです。結局は、ヒトそれぞれが「決断」し、その結果に「責任を負う」しかないのでしょうね。
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