昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

ピダハンの事例はある種の比較宗教学や宗教現象学の終焉を意味するか?

2014-10-23 22:34:25 | ものおもい
ピダハンの言語及び文化についてはネット上にも既に多くの論評がある。
ので、今更な感じもなくはないが、一応書き留めておく。

彼らの精神生活は,エヴェレットの報告にあるように,(特に一神教的な)神観念を含む抽象概念に乏しいことはおそらく真実だろう。
だとすれば,私が宗教学研究に当たり前提としていた下記の仮説は誤りだったことになる。

(仮説)
宗教は言語と類似している。類似点は以下。
・どちらもすべての人類集団で観察される。
・どちらも理性での探求に限界がある。
・どちらの研究も自己言及的にならざるをえず,パラドックスを免れない。
・その中核部分に存在する仕組み(恐らくは脳の)は,言語化が困難である。

ところが,ピダハンには西洋的な「神」観念がないばかりか,関心を示さないらしい。
彼らの関心は「今ここ」に集中している。過去のことは直接伝聞できる範囲(せいぜい祖父母から直接聞いた話まで)しか意識しない。
「イエスという2000年前の男の言ったことがどうして真実と分かるのか?」というのが彼らの言い分。
エヴェレット渾身の信仰告白(義母の自殺を契機とする)を一笑に付す。「自分を殺すなんて。ピダハンは自分を殺したりしない。」
つまり彼らには,何らかの超自然的存在に仮託することによって,宗教を有している文化に暮らす人々が何とか耐えている恐怖や悲しみ,不安といったものへの共感がない。なぜなら,彼らはそれらを持ち合わせていないから。
宗教に近い観念として,精霊や夢への言及はあるらしい。しかしピダハンにとってそれらは「実際に見聞きしたもの」であるため,我々が抱くような神秘的なものとしての把握はないらしい。ヌミノーゼがないといえばよいか。

さて,(我々が最大公約数的に理解しているところの、しかし未だ曖昧な)宗教が人類に普遍的でないとすれば,それは完全に後天的・文化的な産物だということになる。
このことから,それらは恐らくある時ある人間集団に発生し,しかるのちに伝播,拡散していったのだろうと推察できる(例えば石器づくりのように)。
ということは,宗教研究はある意味、伝播主義や進化主義の時代に戻ることになるのかもしれない。
おそらくは「ヒト集団」におけるミームの適者生存の過程の研究として。

もっとも,進化論的な説明には陥穽があって,それは現在の状況をさかのぼって説明するのに都合がよいが,そのこと自体は後だしジャンケンのようなもので,なぜ現在観察される現象がこのようなことかの説明としては弱い、ということだ。
したがって、もし,宗教が上記のような,ヒトという生物に普遍的な属性でないとすれば,その研究は神学的研究と地誌学的研究に2分されてしまうだろう。比較宗教学や、20世紀的な意味での(私が大学生時代に学んだような)宗教現象学といった分野は,博物誌としての意味しかもたなくなるかもしれない。

うーん,本も読まずにこんなことを考えたり書いたりするのってどうなのだろう?やっぱり「ピダハン」買ったほういいかなあ。難しい本を読むのはツラいのだけど。

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