昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

ひさびさ伊坂幸太郎。

2006-12-09 23:18:54 | 読書
 暫く時間がなくて読んでいなかった伊坂幸太郎の小説。散髪のため一番町まで出かけたついでに、書店に寄って買ってきた。
 今回は『砂漠』を買うつもりでいたのだが、いざ書架を眺めると『終末のフール』と迷う。ここのところ疲れているので、短編形式の方がいいような気もするし、何より、「大学生活」を書いた作品を読むということが、ノスタルジーとわけのわからない嫉妬の両方に煩わされることになるのだ、ということが分かりきっている。何せ作者の書く大学生活の元となっている経験は、その時間と空間とが私(や、同期の皆)と近接しているのである。それで、ああで、こうで、何で俺はこうなのだ?と、まあ慨嘆したり、感傷に浸りきったりする羽目になる。むろん、そういう気分を味わいたくて買おうとしているのである。しかし、いまの自分にその気持ちの揺れを受け止めるだけの体力があるか?
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 ところで「終末」という言葉には、私の世代に特有の思いというものがあろう。少年期、世間ではノストラダムスの大予言が既に流行っており、集団ヒステリーの様相を呈していた。米ソの全面核戦争から人類滅亡に至る未来がいつか訪れるに違いない、問題は何時訪れるかだ、と、皆が首をすくめ辺りを窺っていた。「ザ・デイ・アフター」「北斗の拳」「飛ぶ教室」「ゴッドサイダー」等々、映画や漫画でも終末論・核戦争がモチーフのものであふれていた。
 だから「終末」が迫ったらどうするか、というのが、頭の片隅で常にシミュレートされていた。「簡易シェルターの作り方」「死の灰を浴びたときの対処法」が脳裏に滓のようにこびりつき、ヒロシマ、ナガサキのように熱さに苦しんで死ぬのか、或いはコンクリートの階段に影だけを残して蒸発するのか、核の冬で放射能障害と寒さと飢餓で力尽きるのか、いずれにせよ、人類文明の消滅まぎわにいるのだ、という感覚がつねに隣に寄り添い、首筋に冷気を吹きかけていた。
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 それで、迷った挙句、結局当初の予定通り『砂漠』を購入した。いま40ページ程読んだが、予想していたのとはだいぶ違った。面白い!いや、ミステリの謎解きとかそういう部分ではない(ここまでにそんなものはない)。コミカルで、しかも慣れ親しんだ感じが、単純に面白いのである。いつもの伊坂作品の登場人物だが、やはり東北大生らしさも滲んでいる。感傷や嫉妬や悔恨ではない、心地よいノスタルジーがある。続きを読むのが楽しみだ。
 
 
 
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1 コメント

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あう。 (tokisaka006)
2006-12-13 13:10:11
今新幹線車内。『砂漠』の続きを読んでいるが、夏の章は辛い。それでもそれなりに楽しみつつ読み進められるのは、結婚しているからだろう。

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