縁起でもない。が、とりあえず考えておくことは必要。
現在、農業政策は来年度から始まる「品目横断的経営所得安定対策」と、農地及び農用地施設等の多面的機能(耕作・水利等の機能のほか、洪水調節、景観形成、生物生息環境提供等の機能を含む)の維持のために非農家も含めた維持管理活動を行う団体へ助成する「農地・水・環境保全向上対策(仮称)」に向けて動いている。そしてこの2つの施策は「車の両輪」に例えられている。
極めて大雑把にいうと、前者は助成対象を大規模経営農家(又は集落営農組織)に絞り込むことで、「効率化」を推し進めるもので、後者は、農家の減少・高齢化に伴い、水路の清掃ややあぜ道の補修といった農地・農業用施設の維持管理ががままならなくなってきたことに対する対策である。
そして、後者はさらに、「田んぼの生き物調査」といった「農地のもつ生態系維持機能・学習機能」に着目した試みの成功を受けて、農地の農業以外の機能に関心を持つ人々を取り込んで、人手不足を補おうとするものである。
(その方法は、生き物調査のような機能維持管理以外の活動にも助成することによる。また、こういった活動に参加する人の多くが、「農地・農村」に高い価値を見出してくれており、その維持管理活動への参加にも理解が得られるだろうといった期待がある)
何が言いたいのか。すなわち、「品目横断的経営所得安定対策」は、原則、農業者に離農を促す施策である。他方、「農地・水・環境保全向上対策(仮称)」は、非農家を営農に参加させようとする施策である。両者は、ヒトの流れが逆だ。これは本当に両輪なのか。
たとえば、「品目」が、農業経営体を大規模農家に絞り込む。勿論、独自の販路を持ち、高付加価値農業経営を行っているような農家は、小規模でも存続するだろうが、そのことは措く。ところで、数少ない大規模経営農家が利用する農業用水路やあぜ道は、これまで、いわゆる「農村」の共同作業として、伝統的にボランティアで整備されていた。農家が少なくなれば人手は減るので、いままで通りの維持管理ができるかどうかは分からない。(離農した元農家の人手を期待する向きもあろうが、自己の利益にならないことを「慣習だから」と無理強いさせるというシナリオは続かないと感じる)
そこで、「農地・水・環境」によって誕生した活動団体が、足りなくなった人手を補う・・・となるのだろうが、この団体は、非農家の参加も前提にしているとは言え、その主体はやはり「減らされた後の農家」である。核となる部分の人は減らし、その周辺の、直接利害関係のない人を増やして維持管理してもらうというのは、虫がよいのではないか?しかもそれらの増やされた人は、言ってみればレクリエーション活動に関心があるのであって、農業そのものには関心がない層だと思われる。いつか、「ていのよいただ働きをさせられている」と思うようにならないだろうか?
私の考えるバッドエンドの一つがここにある。すなわち、施設整備が追いつかなくなり、生産機能が低下する。あるいは、施設の維持管理にかかるコストが増大し、大規模農家の経営を圧迫する。結果、従来型のボランティア頼みのインフラ維持管理を前提とした農業は立ち行かなくなる。
もう一つは、自給率だ。現在、中国からの農産物輸入が多い。しかし、今後は、中国でも国内向けの需要が増し、輸出に回される分は減るだろうと予想される。そうなれば、日本国内の農業に光が当たるのか?
個人的には厳しいと思う。まず、農業者数を絞ってしまえば、生産量を急増させることも難しくなるだろう。加えて、上記の維持管理の問題がある。生産量を拡大するにはそれなりの施設が必要であり、それなりの従事者が必要だが、農業はだれでもすぐに始められるようなものでもない。
つまり、今回の政策転換で、安定的な農業経営体が育ちきる前に、食糧危機が起きたらどうなるか。農業は破壊されないかもしれないが、国民生活そのものがダメになる。これがもう一つのバッドエンド。
まあ、そうなったら、政策も何もかなぐり捨てて、農地開墾、食糧増産にいそしむしかないのだろうけれど。
そのためには、むしろ、「農地・水~」のような集落管理型のインフラシステムではなく、たとえば、国内需要が高まった時に、新規に企業等が農業に参入し、そのためのインフラをすぐ利用できるようなシステムが必要なのではないか。もしくは、インフラの維持管理機能は、「集落のボランティア」で賄うのではなく、NPOのようなある種の対価を得られる団体が担うほうがよいのではないか。
「そういう団体として土地改良区があるではないか」と言われるかもしれないが、これは、旧来の農業者・農村という社会システムに余りにも縛られ過ぎている様に思う。そこから脱却できるのであれば、母体は土地改良区でもいいが、果たしてどうか。
いずれにせよ、そのようにして、維持管理システムも市場経済化するしかない。そして、そのコストを払えるだけの経営体が農業をやっていく。そして、維持管理コストが高止まりにならないように、あるいは生産コストそのものが高止まりにならないようにするために、
定年帰農者を安い労働力として使う。そのかわり、彼らには「金に換えられない喜び」が与えられる。
もちろん、会社勤めの経験を活かして本格的に経営管理に参加してもよい。そういう人ももちろん、農作業には従事する。
というわけで、結局は「世襲的な農業の解体」こそが鍵だ。そのためには、農地という財産の世襲(相続)を何とかすることだ。
現在、農業政策は来年度から始まる「品目横断的経営所得安定対策」と、農地及び農用地施設等の多面的機能(耕作・水利等の機能のほか、洪水調節、景観形成、生物生息環境提供等の機能を含む)の維持のために非農家も含めた維持管理活動を行う団体へ助成する「農地・水・環境保全向上対策(仮称)」に向けて動いている。そしてこの2つの施策は「車の両輪」に例えられている。
極めて大雑把にいうと、前者は助成対象を大規模経営農家(又は集落営農組織)に絞り込むことで、「効率化」を推し進めるもので、後者は、農家の減少・高齢化に伴い、水路の清掃ややあぜ道の補修といった農地・農業用施設の維持管理ががままならなくなってきたことに対する対策である。
そして、後者はさらに、「田んぼの生き物調査」といった「農地のもつ生態系維持機能・学習機能」に着目した試みの成功を受けて、農地の農業以外の機能に関心を持つ人々を取り込んで、人手不足を補おうとするものである。
(その方法は、生き物調査のような機能維持管理以外の活動にも助成することによる。また、こういった活動に参加する人の多くが、「農地・農村」に高い価値を見出してくれており、その維持管理活動への参加にも理解が得られるだろうといった期待がある)
何が言いたいのか。すなわち、「品目横断的経営所得安定対策」は、原則、農業者に離農を促す施策である。他方、「農地・水・環境保全向上対策(仮称)」は、非農家を営農に参加させようとする施策である。両者は、ヒトの流れが逆だ。これは本当に両輪なのか。
たとえば、「品目」が、農業経営体を大規模農家に絞り込む。勿論、独自の販路を持ち、高付加価値農業経営を行っているような農家は、小規模でも存続するだろうが、そのことは措く。ところで、数少ない大規模経営農家が利用する農業用水路やあぜ道は、これまで、いわゆる「農村」の共同作業として、伝統的にボランティアで整備されていた。農家が少なくなれば人手は減るので、いままで通りの維持管理ができるかどうかは分からない。(離農した元農家の人手を期待する向きもあろうが、自己の利益にならないことを「慣習だから」と無理強いさせるというシナリオは続かないと感じる)
そこで、「農地・水・環境」によって誕生した活動団体が、足りなくなった人手を補う・・・となるのだろうが、この団体は、非農家の参加も前提にしているとは言え、その主体はやはり「減らされた後の農家」である。核となる部分の人は減らし、その周辺の、直接利害関係のない人を増やして維持管理してもらうというのは、虫がよいのではないか?しかもそれらの増やされた人は、言ってみればレクリエーション活動に関心があるのであって、農業そのものには関心がない層だと思われる。いつか、「ていのよいただ働きをさせられている」と思うようにならないだろうか?
私の考えるバッドエンドの一つがここにある。すなわち、施設整備が追いつかなくなり、生産機能が低下する。あるいは、施設の維持管理にかかるコストが増大し、大規模農家の経営を圧迫する。結果、従来型のボランティア頼みのインフラ維持管理を前提とした農業は立ち行かなくなる。
もう一つは、自給率だ。現在、中国からの農産物輸入が多い。しかし、今後は、中国でも国内向けの需要が増し、輸出に回される分は減るだろうと予想される。そうなれば、日本国内の農業に光が当たるのか?
個人的には厳しいと思う。まず、農業者数を絞ってしまえば、生産量を急増させることも難しくなるだろう。加えて、上記の維持管理の問題がある。生産量を拡大するにはそれなりの施設が必要であり、それなりの従事者が必要だが、農業はだれでもすぐに始められるようなものでもない。
つまり、今回の政策転換で、安定的な農業経営体が育ちきる前に、食糧危機が起きたらどうなるか。農業は破壊されないかもしれないが、国民生活そのものがダメになる。これがもう一つのバッドエンド。
まあ、そうなったら、政策も何もかなぐり捨てて、農地開墾、食糧増産にいそしむしかないのだろうけれど。
そのためには、むしろ、「農地・水~」のような集落管理型のインフラシステムではなく、たとえば、国内需要が高まった時に、新規に企業等が農業に参入し、そのためのインフラをすぐ利用できるようなシステムが必要なのではないか。もしくは、インフラの維持管理機能は、「集落のボランティア」で賄うのではなく、NPOのようなある種の対価を得られる団体が担うほうがよいのではないか。
「そういう団体として土地改良区があるではないか」と言われるかもしれないが、これは、旧来の農業者・農村という社会システムに余りにも縛られ過ぎている様に思う。そこから脱却できるのであれば、母体は土地改良区でもいいが、果たしてどうか。
いずれにせよ、そのようにして、維持管理システムも市場経済化するしかない。そして、そのコストを払えるだけの経営体が農業をやっていく。そして、維持管理コストが高止まりにならないように、あるいは生産コストそのものが高止まりにならないようにするために、
定年帰農者を安い労働力として使う。そのかわり、彼らには「金に換えられない喜び」が与えられる。
もちろん、会社勤めの経験を活かして本格的に経営管理に参加してもよい。そういう人ももちろん、農作業には従事する。
というわけで、結局は「世襲的な農業の解体」こそが鍵だ。そのためには、農地という財産の世襲(相続)を何とかすることだ。
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