同じ物事を表現するにも
時代の流れなどによって言い方を変えなければならない。
もっと柔らかな印象を与える、
悪い印象を与えないように作り替えられるのだろう。
考えてみれば言葉があること自体、
良くも悪くもそこに意識が集まっているということになるのだけれど。。。
できちゃった婚、改め授かり婚だとか。
結婚するつもりでいた2人かもしれないし
責任で結婚するのかもしれないし
とりあえず、妊娠しました、結婚することにはなった
というだけで同じ現実であることに変わりはない。
そんなものもあれば、もっと重たい言葉もある。
最近では性的嗜好を表すようなものもあるし人種的なものもある。
この重たいさまざまな課題については言葉を作ること自体
人の意識下で区別をしているのだと私は思う。
同じものであるのなら区別するための言葉はいらないのではないか?
当の本人たちも進んで新しく名称をつけたりもするけれど
個人的には何だか違うような気もしてしまう。。。
人が意識しないものには名称をつける必要性がないのだろう。
区別をしていないのだから当然のことだ。
区別を率先して作り出すことがより新しい言葉作ったりする。
もうこの段階で少しいいことではないのだろう。。。
大差ないことの中で差を生み出そうとする。。。
またその小さな差の中に差を作り出そうとする。
だからいつまで経っても同じことばかりしているかもしれない。