今日の2時40分に目が覚めて
寝れそうになかったので。
神道と仏教について。
毛坊主のことなど。
神仏習合など。
ちょっと知っておきたいが、『ちょっと』の
関心では、なかなか勉強するのも大変そうだ。
『近代の超克』論争の流れで、西田哲学や、
京都学派のことなど。西田哲学は、日本における哲学の
はじめての体系なのだろうか?
西洋哲学は、デカルトをはじめとして、『我思うゆえに』の『我』が『有』る
としてスタートしているが、西田幾太郎さんは、主観と客観が混ぜこぜの
『無』から思考しようとしたところが、日本はじめての体系となりえたところ
なのだろう。
『無』からの思考は、人間と自然が混ぜこぜの思考ともいえるのではないか?
いきなり飛ぶが、吉本さんがいわれていることで『ホーっ』と思うのは、
お茶とか、歌とか、踊りの中に、思想が入り込んでいることこそ、
日本人の思想の特徴ではないか?というのが、『ほーー』と思う。
最後のあとがきで、確かお三人ともに、地下鉄の事件について触れており、
その事件のインパクトの大きさを指摘されている。
その事件の問題の本質は、日本の思想に広く普及した体系的がなく儚さがあり、
そのような儚さの間違った解釈と、
近代的な科学的思考が一体となった
故の問題だったのではないか?
寝れそうになかったので。
神道と仏教について。
毛坊主のことなど。
神仏習合など。
ちょっと知っておきたいが、『ちょっと』の
関心では、なかなか勉強するのも大変そうだ。
『近代の超克』論争の流れで、西田哲学や、
京都学派のことなど。西田哲学は、日本における哲学の
はじめての体系なのだろうか?
西洋哲学は、デカルトをはじめとして、『我思うゆえに』の『我』が『有』る
としてスタートしているが、西田幾太郎さんは、主観と客観が混ぜこぜの
『無』から思考しようとしたところが、日本はじめての体系となりえたところ
なのだろう。
『無』からの思考は、人間と自然が混ぜこぜの思考ともいえるのではないか?
いきなり飛ぶが、吉本さんがいわれていることで『ホーっ』と思うのは、
お茶とか、歌とか、踊りの中に、思想が入り込んでいることこそ、
日本人の思想の特徴ではないか?というのが、『ほーー』と思う。
最後のあとがきで、確かお三人ともに、地下鉄の事件について触れており、
その事件のインパクトの大きさを指摘されている。
その事件の問題の本質は、日本の思想に広く普及した体系的がなく儚さがあり、
そのような儚さの間違った解釈と、
近代的な科学的思考が一体となった
故の問題だったのではないか?