風の記憶

the answer is blowin' in the wind

雪国の心

2007-02-01 | 

山形県遊佐町白井新田□□


 2月になったというのに、庄内平野には雪がまったくと言っていいほどありません。
(写真は一昨年の2月のものです。)
こんな冬は、未だかつて無かったのではないでしょうか。少なくとも私の記憶にはありません。
お正月頃は、雪が無くて良いお正月だ、とか、今年の冬は楽で良いとか言う人がほとんどでしたが、さすがにここまで雪がないと戸惑いを感じてしまいます。
先日、あるお年寄りがこう言ってました。
「雪がねぐって、なんだが もっけだよだの~。」(雪が無くて、何だか申し訳ないようだね。)

雪が積もらないと嬉しいけど心配・・・。
それは雪国の人間の正直な気持ちです。
毎年冬は、雪との格闘の日々です。雪に苦しみ来る日も来る日も鉛色をした空を恨めしく仰ぎ見ます。けれども一方では、雪の美しさや、雪国ならではの風習や遊び、雪の中でしか感じることの出来ないぬくもりや優しさを分かち合い喜んでいることもまた事実です。
つまりは雪国に生きる人々は、雪を憎み同時に愛しているのです。

立春を過ぎてしばらく経った頃から、雪解けの微かな足音は密かに聞こえはじめます。
降っては融け、また降っては融けてを繰り返して固くなった雪が少しずつ崩れはじめ、やがてその雪解けの隙間にフキノトウが顔を出します。淡い緑色の小さな生命の塊、それを見つけたときの気持ちは言葉では言い表せないほどワクワクします。
その感動は、共に厳しい季節を乗り越えてきたものに対する共感と慈しみ、そして命の逞しさへの畏敬と憧憬なのです。

例えば、今は天国にいる私の祖母がフキノトウを見つけたら、きっとこう言うに違いありません。
「めんごいバンケ、今年も出はたの~。えらい、えらい、よ~ぐ さんぶなどご我慢して出はてきてくっだの~ぅ、ありがで、ありがで。(合掌)」
(可愛いフキノトウ、今年も生えてきたね~。えらい、えらい、よく寒いのを我慢して生きていてくれたね、なんとありがたいことでしょう。)

雪国の人間は口数が多くありません。滅多に自慢しないし、余計に褒めません。恨み言を声高にしたりせず、ひたすら我慢します。
しかしそれは、厳しい自然が育てた嘘偽りのない頑なまでの美意識なのだと、私は思うのです。
(酒田市出身の詩人、吉野弘さんはそれを「冬をもらう」と表現しました。冬をもらって、春をもらって、そうやって人間の精神は形成されて行くのだと。)
人には自分の思いをむやみに押しつけず、人間の誠を信じ、自然とは飾らない心で真摯に向き合う。それは生きること(=命)への誠実さ、優しさなのだと思うのです。

やがて本格的な春の訪れを迎えると、雪国ではあちらこちらでコブシやマンサクが、梅や桃や連翹が、そして桜が、遅い春を取り返そうとでもするように一斉に開花をはじめ、同時に森の緑は山肌を一気に萌え上がります。
閉じこめられていた生命が爆発するように踊り出す感動の春を体感出来る特権、それは自然が雪国に暮らす人々に与えてくれたご褒美なのです。

でも、今年の雪の無さではどうでしょうか。
きっといつもの年よりも春の喜びが少ないに違いありません。
雪国の人々が雪の無さに戸惑いを覚えるのも、そんなことが少なからずあるのだと思うのです。




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コメント (14)
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